24
無事にシフォンケーキを渡し終えた私たち四人は、少し軽くなった足取りで学園のバス乗り場へ向かっていた。
夕方の光が傾いて、桜並木とそこを歩く私たちの影が少しずつ長く伸びていく。
途中、拓斗の彼女さんが待っていたようで、拓斗は「じゃあな」とだけ言って私たちと別れた。
でもその背中は、どこかそっけなかった。
「彼女さん、こんな時間まで待っててくれたんだね」
私がポツリと言うと、詩乃も隣で頷いた。
「ねっ、すごいね。……あんなに待ってたのに……」
詩乃ちゃんの言葉に、私も少し胸の奥がざわつく。
拓斗の表情には、嬉しさよりも寧ろ、何かを押し殺すような影があった。
「ちょっと拓斗の態度は、目に余る気がするっ」
思わず口から溢れた。
『……まぁ、二人にしか分からない関係があるのかもしれないし』
カナタが、落ち着いた声で静かに言った。
その横顔はどこか優しくて、まるで他人の心の距離をそっと見守るみたいだった。
私は思わず、その穏やかさに胸の奥が少しだけ温かくなる。
二人にしか分からない関係——確かに、そうかもしれない。
(だったら、私は口出ししちゃダメだ)
カナタの言葉が、胸の奥の小さな棘をそっと撫でてくれたみたいだった。拓斗を責めずに済んだ。それが、少し嬉しかった。
桜の花がすっかり散った桜並木を抜けると、バスロータリーが見えてきた。その向こうに、見覚えのある車が停まっている。
歩きながら視線を向けると、運転席から背の高いスーツ姿の男性が降りてくる。
その人は私たちに気付くと、目尻を優しく下げて手を振った。
——あの仕草、間違えようがない。
「っ! お父さんっ!」
胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた瞬間、足が勝手に動いていた。
お父さんも笑って、両腕を広げてくれる。
その懐に飛び込むと、懐かしい匂いがふわりと鼻をくすぐった。
スーツの上品な生地の匂いと、家の洗剤の柔らかな香り。
その混ざり方が、家の様子を思い出させてくれる。
(あぁ……お父さんだ)
そう思った瞬間、胸の奥に小さな安心が解けていく。
お父さんの手が、昔と同じ優しさで私の頭を撫でた。
「莉愛、学校お疲れ様。少し大きくなったか?」
「そう? 分かんないっ」
顔を上げると、お父さんが嬉しそうに目を細めていた。
その視線がくすぐったくて、思わず笑ってしまう。
「でも、甘えん坊なのは変わらないんだな」
「久し振りだからだよっ! 甘えん坊じゃないもんっ!」
思わず声が少し上ずる。
頬がふくれているのが分かって、ますます恥ずかしくなる。
だけど、お父さんの笑い声を聞いていると、そんな自分も悪くない気がした。
「おじさんっ、こんばんは!」
『こんばんは』
詩乃ちゃんとカナタが、息を合わせるように声を揃えて挨拶する。
お父さんは、その二人の丁寧な挨拶に目を細めて微笑んだ。
「こんばんは、詩乃ちゃん、そしてカナタくんも。二人共、学校お疲れ様」
いつもと変わらない、あの穏やかな声。
だけど次の瞬間、お父さんの目が少し大きく見開かれた。
『カナタくん……背ぇ、伸びたなぁ! さすが成長期だ』
驚きと喜びが混ざったような声色に、空気がふっと柔らかくなる。
お父さんは、嬉しそうにカナタの肩に手を置いて眺めていた。
「利玖と同じ部活だろう? これはますます大きくなるなぁ」
そう言うお父さんの表情は、本当の息子を見るような優しさを帯びている。
カナタは照れくさそうに視線を斜め下にして、目を逸らした。
すると隣の利玖が、ボソッと苦笑いを漏らした。
「カナタは体術だからね。……そのうち俺よりデカくなるよ」
そう言いながら、カナタの肩辺りに視線を送る。
悔しそうに眉を寄せてはいるけど、その目の奥には、どこか「しょうがねぇか」と言いたげな諦めの笑みが潜んでいた。
「まだ入学して二ヶ月ちょっとだろう? こりゃ、来年には利玖に追いつくんじゃないか?」
お父さんの何気ない一言に、カナタが少しだけ戸惑ったように目を瞬かせる。
その隣で、利玖はムッと眉を上げた。
「そうはさせねぇ」
そう言っていたずらっ子のように笑うと、半ば反射的にカナタの肩へ腕を回す。
年上の威厳というより、もはや子どものような意地の張り方だ。
『……重い』
カナタの平静な声と、利玖の義腕の軋む音がほんのりと響いた。
どうやら“身長が伸びないように押さえ込む”という、よく分からない物理魔法でもかけているつもりらしい。
そんな無駄で愛しいやり取りに、胸の奥がふっと温かくなる。
気付けば、詩乃ちゃんと私の笑いが同時に溢れていた。
「さっ、無駄な努力してないで、利玖は車に乗りなさい」
「へーい」
お父さんの軽い口調に、利玖は即座に肩から腕を外した。
どうやら、その努力が本当に“無駄”だってことは、自分でも分かっていたみたい。
小さく溜息を吐いたカナタの肩を見て、心の中で少しだけ笑った。
利玖が車に乗り込む後ろ姿を見つめながら、私はふと胸の奥がキュッとなった。
その感覚に背中を押されるように、思わずお父さんを呼び止めた。
「……あっ、お父さん……」
「ん? 何だい?」
振り返ったお父さんの優しい目に、言葉が少しだけ詰まる。私は視線を落とし、足元のアスファルトを見つめながら小さく呟いた。
「あの……ちゃんと自分からも言うけど……お母さんに、『ごめんなさい』って伝えといて……」
「……莉愛」
お父さんの低い声が、まるで包み込むように響く。
次の瞬間、そっと肩に手が置かれた。その重みが、少しだけ胸に沁みる。
「まだ簡単にしか話は聞いてないけど……お父さんもお母さんも、莉愛が悪くないことは分かってるよ。だから、謝らなくていいんだ」
「ん……でも……」
そう言いかけた言葉を、お父さんの手が止めた。
肩から頭の上へ——その大きな手が、子どもの頃と同じように優しく髪を撫でる。
その温もりに、堪えていたものが少しずつ溶けていく。
「お母さんが言ってたよ。『莉愛は、自分を責めてるんじゃないか』って。……さすが慰者だな。大正解だ」
お父さんは少しだけ笑って、私の顔を覗き込んだ。
「でもな、莉愛。お母さんは、自分を責めて欲しくないって思っているよ。慰者としても、母親としても。謝るんじゃなくて、笑って帰っておいで。それが一番、嬉しいはずだから」
胸の奥で何かが音を立てて崩れた。涙が溢れるのを止められなかった。
お母さんなら、そう言うに決まってる。そう分かっているのに、涙があとからあとから溢れてきた。
泣きたくないのに、“お祝いに買ってもらった”って言う思い出が汚されたみたいで、やっぱり涙が溢れちゃう。
お父さんが苦笑しながら、指先で私の涙を拭ってくれる。
「試験がなかったら、このまま連れて帰れるのになぁ……」
少し困ったような優しい声が、胸に響いた。
家の匂い、台所の音、お母さんの声——全部が、ふっと心の中に蘇る。
「おじさんっ、莉愛ちゃんのことは任せてっ! 莉愛ちゃんっ、来週一緒に帰ろうよっ!」
詩乃ちゃんが、まるでヒーローみたいに胸をどんと叩く。
その仕草が少し大げさで、でも真っ直ぐで、思わず笑ってしまいそうになるくらい、優しかった。
詩乃ちゃんのこの明るさに、私は何回救われてきたんだろう。
涙で濡れた頬が、風に触れてひんやりとしたけど、その冷たさの中に、少しだけ温もりを感じた。
「……うんっ」
鼻をすする音と一緒に、微かに笑う。
笑った拍子に、胸の奥に詰まっていた重たいものが、ほんの少しだけ解けた気がした。
帰る——お母さんに、ギュッてしたい。
その言葉が心の中で静かに響く。思い浮かぶのは、あの温かい腕の感触と、安心できる匂い。
恋しい気持ちと、子どもみたいな自分が顔を出す。
(私、まだまだ子どもだなぁ……)
そう思った瞬間、胸の奥がくすぐったくて、少し恥ずかしくなった。
だけど、詩乃ちゃんが隣で笑ってくれている。
その笑顔を見ているうちに、落ち込む気持ちよりも、ほんの少しだけ——前を向ける気がした。
「それじゃあ、詩乃ちゃん、カナタくん。莉愛をお願いしてもいいかな?」
「はいっ!」
『はい』
二人の返事を聞いたお父さんは、穏やかに目を細めて笑った。その笑顔を見ているだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
詩乃ちゃんとカナタが私の隣に来てくれると、さっきまで涙で曇っていた世界が、少しずつ色を取り戻していく気がした。
「来週、二人が帰って来るなら、カナタくんもよかったら一緒に帰って来て、一緒に食事でもどうだい?」
『……いいんですか?』
「あぁ。あの創駆、詳しく話を聞きたいと思ってたんだよ」
お父さんは、少し照れたように笑った。その笑みは、どこか子どもっぽかった。
(お父さんも、子供っぽいところがあるんだ……)
そう思うと、胸の奥にあった張りつめた糸が少し緩んだ。
涙でぐちゃぐちゃになっていた心が、ゆっくりと静けさを取り戻していく。
深呼吸をひとつ。冷たい空気が鼻を抜けて、胸の奥まで届く。
呼吸を整える度に、少しずつ「いつもの私」が戻ってくる気がした。
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お父さんと利玖が乗った車が、ゆっくりとバスロータリーを抜けていく。
藍色の車体が、夕焼けの光を反射してキラリと光った。
私はその後ろ姿を、三人で並んで見送った。
胸の奥が、少しだけキュッと締めつけられる。
でも——涙は出なかった。
詩乃ちゃんとカナタが、すぐ隣にいてくれるから。その温もりが、静かに心を支えてくれている気がした。
「さてっ、それじゃあ、私たちも帰ろっかっ!」
詩乃ちゃんが両手を伸ばしながら明るく声を上げる。その声は、茜色の空に吸い込まれていくように響いた。
「うんっ。帰ってケーキ食べないとね」
「そうだよ〜! ホイップクリームうっかりたっぷりプレーンシフォンケーキが待ってるよ!」
『……それだと、ホイップクリームだらけのシフォンケーキってことになるよ?』
カナタがいつもの調子で冷静に突っ込む。
詩乃ちゃんは「えっ、あれっ!?」と目をまん丸にして、自分で言った言葉に気付いた瞬間、頬をほんのり赤く染めた。
その表情があまりに可愛くて、私は思わず吹き出してしまう。
さっきまで胸の奥で沈んでいたものが、ふっと軽くなるのを感じた。
夕焼けがバス乗り場を包み込み、影が長く伸びていく。
三人の声が重なって、橙色の風の中に溶けていった。
その音が消える頃、空には一番星が瞬いていた。
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