19
「こ、これでよかったのか……」
足元に視線を落としながら、私は小さく呟いた。
頬の奥がじんわり熱くなっていくのが分かる。耳の先まで火照っていて、きっと今、顔は真っ赤だ。
隣では、晶くんが片手で口元を覆いながら、まだ笑いを堪えていた。
でも肩が小刻みに揺れていて、どう見ても我慢できていない。
「……ていうか晶くん、あの二人のことも知ってるの?」
私が拗ねたように問いかけると、晶くんは手を下ろして、笑いを引きずったまま答える。
「ふっ……まぁ、ほんの少しだけね。君たちの周りのことは、ある程度知ってるつもり」
「えっ……な、何で……?」
胸の奥がヒュッと掴まれる。
悪いことをしたわけじゃないのに、“知ってる”という言葉に少しだけ怖さを覚えた。
晶くんの言う“知ってる”の中に、何が含まれているのだろう。
だけど、晶くんはふっと息を吐きながら、目を細めた。
「だって、二人といると超面白いんだもん。本当、同じクラスになりたかった〜」
その笑顔は、出会った頃のどこか作り物めいたものではなかった。
ちゃんと心の底から笑っていて、見ているだけでこちらまで嬉しくなるような笑顔だった。
私がカナタを見ると、やれやれと言わんばかりに肩をすくめる。それがまた可笑しくて、唇の端が緩んでしまう。
「まぁ、カナタと同室だし、学園生活中はカナタで遊んどこ。手始めに、武装演習部に入部しようかな?」
『うざ』
間髪入れず、カナタが低く返す。
そのあまりの速さに、晶くんは「ひどいな〜」と笑いながら返す。
「ふふっ……」
思わず笑い声が漏れた。事件のことも、痛みも、まだ全部が終わったわけじゃない。
だけど今、この穏やかな空気の中で笑えることが、何より嬉しかった。
バス停に着くと、先に来ていた詩乃ちゃんたちの姿が見えた。利玖はその後ろで、目を細めながら玲央くんたちを観察している。
「ほぉ……あの子が玲央の好きな子か……」
低く呟く声に、私は思わず笑ってしまった。どうやら詩乃ちゃんたちが、利玖にも事情を話していたみたい。
「……ふっ、あいつ、好きなこの前だとあんな感じなのか」
いつものカラとした明るさがどこにもなくて、遠くから見ても分かるくらい頬が赤い。まるで別人みたいに大人しい玲央くんを、利玖はニヤニヤしながら見ている。
「全然違うよねっ」
私が同意すると、利玖は頷き、わざとらしく顎に手を添えた。口元が緩んでいる。完全に面白がっている顔だ。
「これは“お兄様”として、一肌脱がないとなぁ」
『風邪を引きますよ、お兄様』
「じゃあ、袖だけまくっとくか!」
『賢いのかアホなのか分かりません』
利玖とカナタの軽快なやり取りに、思わず笑いそうになる。
そんな話をしていると、バスがゆっくりとロータリーへ滑り込んできた。
それに気付いた玲央くんたちは慌てて走って来て、私たちはバスへ乗り込み学園へ向かった。
* * *
利玖と連環の塔で利玖と別れた後、みんなそれぞれの教室へ行く。教室の扉を開けると、すでに拓斗が席に着いていた。
中には私たちに気付いたクラスメイトたちが、それぞれの表情で声をかけてくれる。
「おはよう、昨日……大丈夫だった?」
「カナタくん、おはよー」
心配してくれる声と、少し緊張した声が入り混じる。きっと、話しかけるきっかけを掴めなかったんだろう。
カナタは戸惑ったように視線を彷徨わせて、小さく頭を下げた。
その姿が少し可笑しくて、思わず笑ってしまいそうになる。
(そうだよね。こんな雰囲気で人に囲まれるの、多分初めてだもんね)
玲央くんと一緒に席に向かい、鞄を置こうとしたその時だった。
違和感に気付く。
玲央くんの“後ろの席”が——無くなっていた。
(っ……!)
思わず息を呑む。
玲央くんと目が合った瞬間、お互いに察した。
昨日の“あの事件”の、あの男子の席。
机も椅子も、綺麗に消えている。
まるで、最初からそんな人はいなかったみたいに。
そこへ、後ろからカナタたちが近付いて来た。
私たちの視線の先を見て、同じように立ち止まる。
「……無くなってる、ね」
最初に声を出したのは詩乃ちゃんだった。
クラスメイトの話し声で賑やかな教室に、その声が私の耳に響いた。
「まぁ……戻るのは無理だろうとは、思っていたけど……」
優ちゃんが小さく呟く。
その表情は、怒りでも同情でもなく、ただ現実を受け入れるようなものだった。
私の胸の奥も、少しだけざらついた。
あれだけのことをした。
だけど、あの机のない空間を見ていると、何かがぽっかりと抜け落ちたような感覚に襲われる。
教室には次々と人が集まり、ざわざわと声が重なり始めた。
「やっぱり、戻ってこれなかったね……」
「そりゃあ……ねぇ?」
「えっ、あいつ退学になったの?」
誰も正確なことを知らない。
でも、誰もが分かっていた——戻れない、ということを。
カナタを見ると、無言でその空席を見つめていた。
表情の奥に何があるのか、分からない。
怒りなのか、哀れみなのか、それとも——ただの虚無か。
息をひとつ呑んだその時。
ガラッ——
教室のドアが音を立てて開いた。
その瞬間、ざわめいていた空気が一気に凍りつく。皆が振り向いた視線の先に、立っていたのは日向先生だった。
まだチャイムが鳴ってもいないのに、日向先生が来るなんて珍しい。
その顔はどこか緊張の面持ちで、それだけで、教室の空気がピンと張り詰めていく。
注目が集まっているのに気付いた日向先生は、僅かに目を丸くしてから、慌てたように笑った。
「あっ……みんな、もう教室にいてくれたんですね。えっと……少し早いですが、座ってください」
いつもの穏やかな声。だけど、その声音の奥に、ほんの少しだけ躊躇いのようなものが混じっていた。
それでもクラスの皆は、促されるままに動き出す。椅子の脚が床を擦る音が、静かな教室に断続的に響いた。
みんな、日向先生の言葉に従いながらも、心のどこかで分かっている。
今から話されることは、昨日のことだと——
私も席に戻る。後ろでは玲央くんが、真剣な表情で日向先生を見つめている。その視線に、私は思わず背筋を伸ばして座った。
壁側の席を見ると、カナタたちも静かに日向先生の姿を見つめていた。
その横顔には、どこか覚悟のようなものが宿っていて、胸が少しだけ締めつけられる。
日向先生は教卓の前に立ち、全員が座ったのを確認すると、両手を軽く組んだ。
一度だけ深呼吸をしてから、日向先生は静かに口を開いた。その仕草だけで、教室の空気がさらに静まり返る。
「……皆さんに、少しだけお話ししておきたいことがあります」
柔らかいけど、どこか重みを帯びた声音だった。
その声が、朝の静かな教室にゆっくりと沁み渡っていく。
誰もが息を呑み、次の言葉を待っていた。
「えー……宵一九組は、本日から、生徒数四十九名になります」
その瞬間、沈黙が弾けたように、教室中がざわめいた。
椅子の軋む音、息を呑む気配、誰かの小さな戸惑いの声。
そのどれもが、現実を受け止めきれない空気を映していた。
胸の奥が、冷える。
言葉にされることで、昨日の出来事が“過去”じゃなく“現実”として突きつけられた気がした。
「……もう、ほとんどの方が知っているとは思いますが——」
先生は、一度視線を落としてから、静かに続けた。
「このクラスで、昨日、ある事件がありました」
淡々と語られる説明。その一言一言が、私の胸に針のように刺さる。
昨日の、あの光景。
呆れた顔。引いて青ざめた顔。
叫び声。
震える手。
そして——机が、なくなった席。
視界の端で、誰かが小さく拳を握っているのが見えた。
カナタは……顔を上げたまま、ただ静かに先生を見ていた。
その表情が、まるで何かを受け止めるように静かで、少しだけ胸が痛んだ。
「クラスの人数は変わってしまいましたが、これまでと変わらずに学びに励み、そして——」
先生は言葉を選ぶように少し間を置いた。
その目には、悲しみよりも、願いのような光があった。
「人との繋がりを、大切にしていただきたいです」
静かな声が、朝の空気に溶けていく。
誰も返事をしなかった。
だけど、誰もが胸の中で何かを噛みしめていた。
“変わってしまった”という現実と、“それでも続けていく”という願い。
その二つの狭間で、私たちは、ただ静かに座っていた。
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