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「こ、これでよかったのか……」


 足元に視線を落としながら、私は小さく呟いた。


 頬の奥がじんわり熱くなっていくのが分かる。耳の先まで火照っていて、きっと今、顔は真っ赤だ。


 隣では、晶くんが片手で口元を覆いながら、まだ笑いを堪えていた。


 でも肩が小刻みに揺れていて、どう見ても我慢できていない。


「……ていうか晶くん、あの二人のことも知ってるの?」


 私が拗ねたように問いかけると、晶くんは手を下ろして、笑いを引きずったまま答える。


「ふっ……まぁ、ほんの少しだけね。君たちの周りのことは、ある程度知ってるつもり」


「えっ……な、何で……?」


 胸の奥がヒュッと掴まれる。


 悪いことをしたわけじゃないのに、“知ってる”という言葉に少しだけ怖さを覚えた。


 晶くんの言う“知ってる”の中に、何が含まれているのだろう。


 だけど、晶くんはふっと息を吐きながら、目を細めた。


「だって、二人といると超面白いんだもん。本当、同じクラスになりたかった〜」


 その笑顔は、出会った頃のどこか作り物めいたものではなかった。


 ちゃんと心の底から笑っていて、見ているだけでこちらまで嬉しくなるような笑顔だった。


 私がカナタを見ると、やれやれと言わんばかりに肩をすくめる。それがまた可笑しくて、唇の端が緩んでしまう。


「まぁ、カナタと同室だし、学園生活中はカナタで遊んどこ。手始めに、武装演習部に入部しようかな?」


『うざ』


 間髪入れず、カナタが低く返す。


 そのあまりの速さに、晶くんは「ひどいな〜」と笑いながら返す。


「ふふっ……」


 思わず笑い声が漏れた。事件のことも、痛みも、まだ全部が終わったわけじゃない。


 だけど今、この穏やかな空気の中で笑えることが、何より嬉しかった。


 バス停に着くと、先に来ていた詩乃ちゃんたちの姿が見えた。利玖はその後ろで、目を細めながら玲央くんたちを観察している。


「ほぉ……あの子が玲央の好きな子か……」


 低く呟く声に、私は思わず笑ってしまった。どうやら詩乃ちゃんたちが、利玖にも事情を話していたみたい。


「……ふっ、あいつ、好きなこの前だとあんな感じなのか」


 いつものカラとした明るさがどこにもなくて、遠くから見ても分かるくらい頬が赤い。まるで別人みたいに大人しい玲央くんを、利玖はニヤニヤしながら見ている。


「全然違うよねっ」


 私が同意すると、利玖は頷き、わざとらしく顎に手を添えた。口元が緩んでいる。完全に面白がっている顔だ。


「これは“お兄様”として、一肌脱がないとなぁ」


『風邪を引きますよ、お兄様』


「じゃあ、袖だけまくっとくか!」


『賢いのかアホなのか分かりません』


 利玖とカナタの軽快なやり取りに、思わず笑いそうになる。


 そんな話をしていると、バスがゆっくりとロータリーへ滑り込んできた。


 それに気付いた玲央くんたちは慌てて走って来て、私たちはバスへ乗り込み学園へ向かった。



* * *



 利玖と連環の塔で利玖と別れた後、みんなそれぞれの教室へ行く。教室の扉を開けると、すでに拓斗が席に着いていた。


 中には私たちに気付いたクラスメイトたちが、それぞれの表情で声をかけてくれる。


「おはよう、昨日……大丈夫だった?」

「カナタくん、おはよー」


 心配してくれる声と、少し緊張した声が入り混じる。きっと、話しかけるきっかけを掴めなかったんだろう。


 カナタは戸惑ったように視線を彷徨わせて、小さく頭を下げた。


 その姿が少し可笑しくて、思わず笑ってしまいそうになる。


(そうだよね。こんな雰囲気で人に囲まれるの、多分初めてだもんね)


 玲央くんと一緒に席に向かい、鞄を置こうとしたその時だった。


 違和感に気付く。


 玲央くんの“後ろの席”が——無くなっていた。


(っ……!)


 思わず息を呑む。


 玲央くんと目が合った瞬間、お互いに察した。


 昨日の“あの事件”の、あの男子の席。


 机も椅子も、綺麗に消えている。


 まるで、最初からそんな人はいなかったみたいに。


 そこへ、後ろからカナタたちが近付いて来た。


 私たちの視線の先を見て、同じように立ち止まる。


「……無くなってる、ね」


 最初に声を出したのは詩乃ちゃんだった。


 クラスメイトの話し声で賑やかな教室に、その声が私の耳に響いた。


「まぁ……戻るのは無理だろうとは、思っていたけど……」


 優ちゃんが小さく呟く。


 その表情は、怒りでも同情でもなく、ただ現実を受け入れるようなものだった。


 私の胸の奥も、少しだけざらついた。


 あれだけのことをした。


 だけど、あの机のない空間を見ていると、何かがぽっかりと抜け落ちたような感覚に襲われる。


 教室には次々と人が集まり、ざわざわと声が重なり始めた。


「やっぱり、戻ってこれなかったね……」

「そりゃあ……ねぇ?」

「えっ、あいつ退学になったの?」


 誰も正確なことを知らない。


 でも、誰もが分かっていた——戻れない、ということを。


 カナタを見ると、無言でその空席を見つめていた。


 表情の奥に何があるのか、分からない。


 怒りなのか、哀れみなのか、それとも——ただの虚無か。


 息をひとつ呑んだその時。


 ガラッ——


 教室のドアが音を立てて開いた。


 その瞬間、ざわめいていた空気が一気に凍りつく。皆が振り向いた視線の先に、立っていたのは日向先生だった。


 まだチャイムが鳴ってもいないのに、日向先生が来るなんて珍しい。


 その顔はどこか緊張の面持ちで、それだけで、教室の空気がピンと張り詰めていく。


 注目が集まっているのに気付いた日向先生は、僅かに目を丸くしてから、慌てたように笑った。


「あっ……みんな、もう教室にいてくれたんですね。えっと……少し早いですが、座ってください」


 いつもの穏やかな声。だけど、その声音の奥に、ほんの少しだけ躊躇いのようなものが混じっていた。


 それでもクラスの皆は、促されるままに動き出す。椅子の脚が床を擦る音が、静かな教室に断続的に響いた。


 みんな、日向先生の言葉に従いながらも、心のどこかで分かっている。


 今から話されることは、昨日のことだと——


 私も席に戻る。後ろでは玲央くんが、真剣な表情で日向先生を見つめている。その視線に、私は思わず背筋を伸ばして座った。


 壁側の席を見ると、カナタたちも静かに日向先生の姿を見つめていた。


 その横顔には、どこか覚悟のようなものが宿っていて、胸が少しだけ締めつけられる。


 日向先生は教卓の前に立ち、全員が座ったのを確認すると、両手を軽く組んだ。


 一度だけ深呼吸をしてから、日向先生は静かに口を開いた。その仕草だけで、教室の空気がさらに静まり返る。


「……皆さんに、少しだけお話ししておきたいことがあります」


 柔らかいけど、どこか重みを帯びた声音だった。


 その声が、朝の静かな教室にゆっくりと沁み渡っていく。


 誰もが息を呑み、次の言葉を待っていた。


「えー……宵一九組は、本日から、生徒数四十九名になります」


 その瞬間、沈黙が弾けたように、教室中がざわめいた。


 椅子の軋む音、息を呑む気配、誰かの小さな戸惑いの声。


 そのどれもが、現実を受け止めきれない空気を映していた。


 胸の奥が、冷える。


 言葉にされることで、昨日の出来事が“過去”じゃなく“現実”として突きつけられた気がした。


「……もう、ほとんどの方が知っているとは思いますが——」


 先生は、一度視線を落としてから、静かに続けた。


「このクラスで、昨日、ある事件がありました」


 淡々と語られる説明。その一言一言が、私の胸に針のように刺さる。


 昨日の、あの光景。


 呆れた顔。引いて青ざめた顔。


 叫び声。


 震える手。


 そして——机が、なくなった席。


 視界の端で、誰かが小さく拳を握っているのが見えた。


 カナタは……顔を上げたまま、ただ静かに先生を見ていた。


 その表情が、まるで何かを受け止めるように静かで、少しだけ胸が痛んだ。


「クラスの人数は変わってしまいましたが、これまでと変わらずに学びに励み、そして——」


 先生は言葉を選ぶように少し間を置いた。


 その目には、悲しみよりも、願いのような光があった。


「人との繋がりを、大切にしていただきたいです」


 静かな声が、朝の空気に溶けていく。


 誰も返事をしなかった。


 だけど、誰もが胸の中で何かを噛みしめていた。


 “変わってしまった”という現実と、“それでも続けていく”という願い。


 その二つの狭間で、私たちは、ただ静かに座っていた。

ここまで読んでくださりありがとうございます。もし少しでも面白いと思っていただけたら、感想や評価で応援していただけると嬉しいです。

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