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16.17 真耶、司 side

 カナタたちの教室を出たふたりは、静まり返った廊下を並んで歩いていた。


 午後の光が窓から差し込み、淡く照らされた床の上を、司の足音と真耶の短い息遣いが重なる。 


「西陽が眩しいね〜。真耶、眩しくない?」


「うん、大丈夫」


 中性的な声が、司の肩越しに静かに落ちた。


 体の色素の薄い真耶は、日中は七賢者のリョクに作ってもらった遮光コンタクトレンズを着用し、触覚魔法で肌を常に守り、それにより他の人と何ら変わらない日常を送れている。


 アーモンドアイから覗く、黒曜石のような深い黒色のコンタクトレンズの瞳が、廊下の窓から差し込む光を、目を細めて眺めている。


「今日のやつは、さすがに俺でも分かった事件だったね〜」


「そりゃそうだ。あんなお粗末」


 真耶は不機嫌そうに鼻を鳴らした。言葉は冷たくても、声の奥に残る疲労は隠しきれない。


「カナタはもちろん、今回の件の道筋も分かっていただろうけど、被疑者の言い分なんて伝わらないからね……」


「だから、俺たちを呼んでくれたんでしょ。嬉しいね〜」


 司はいつもの調子で笑った。その明るさが、この静かな廊下の中で小さく弾ける。真耶はその笑い声に、ふっと力を抜いた。


 真耶は司の頭にそっと頬を預けた。柔らかな髪の感触と、体温がほんのりと肌に伝わってくる。


 歩く度に微かに揺れるその温度が、現実を確かめるように胸の奥を落ち着かせた。


「……カナタも、変な奴に目を付けられちゃったね〜。でも、あいつどうなるんだろう?」


 司の声はのんびりしているようでいて、その奥にはかすかな緊張があった。


 真耶は、司の言葉の向かう先を理解していた。その心配は、犯人のためじゃない。


「まぁ、カウンセリング室登校か、最悪退学か……いずれにせよ、あのクラスには戻らないでしょ」


 真耶の声は淡々としていたが、その響きの奥には確かな願いがあった。


 これだけの問題を起こした以上、何事もなかったように済まされることはない——そう思いたい。


「だといいね」


 司はポツリと呟き、少しだけ背中の重みを感じ直すように、姿勢を整えた。その声音には、優しさと無力さが入り混じっていた。


 あくまで、心配の矛先はカナタだ。養護施設で一緒に育った、ふたりの大切な家族。


 彼がもうこれ以上、過去の傷を抉られないように。これ以上、誰かの悪意に触れなくて済むように。


 廊下を歩く足音が、磨かれた床に淡く響く。沈みかけた陽が、ふたりの影を長く伸ばしていた。


「……そう言えばさ〜」


 話を変えるかのように、司が口を開いた。その気の抜けた声に、真耶は背中の上で小さく反応する。


「ん?」


「あいつ、莉愛のタオルとハンカチ、捨てたって言ってたけど……本当かな〜?」


 その言葉に、真耶は一瞬だけ目を細めた。僅かに間を置いて、司の頭に顎を乗せながら静かに答える。


「……いや、手元にあるだろうね。あいつ、ナットを肌身離さず持ってたくらいだし」


「だよね〜」


 司ののんびりとした相槌が、光と影が淡く溶けた廊下に落とされる。その中で真耶の瞳は、黒いコンタクトレンズの奥で冷静に光っていた。


 ——あの犯人が、そんな簡単に手放すはずがない。


 カナタを陥れるために使った、莉愛の私物。それは単なる“証拠”ではなく、奴にとっては“戦利品”だった。


 己の優越感を確かめるための、歪んだトロフィー。


「何でそれ、言わなかったの?」


 司は頭上を見るように目線を上げて尋ねた。真耶は僅かに息を吐いて、複雑な顔を浮かべる。


「そこも深掘りしたかったけど……捨てたってことにしておいた方が、莉愛のためだと思っちゃって」


「何で〜?」


 司の素朴な問いに、真耶はしばらく黙った。夕焼けが白髪を透かして、柔らかく橙に染める。


「……莉愛のことだもん。きっと、自分のせいでカナタに迷惑かけたって、責めてると思うよ。あの子がそんな物を、今後も大切にできると思う?」


 その声には、感情を抑えた分だけ、重い現実味が滲んでいた。


「……確かに」


 司は小さく頷き、言葉を失った。


 ふたりの間に沈黙が落ちる。窓の外で、放課後の風がゆっくりと流れていた。


 ——莉愛。


 いつだって誰かの痛みに寄り添う子だ。だからこそ、今回の事件で自分を責めてしまうだろう。


 まだ初等部に上がる前。真耶と司がカナタとどう接すればいいのかも分からなかったあの頃、その沈黙をそっと破ってくれたのは、莉愛だった。


 ふたりの間に、莉愛は迷いもせず、真っ直ぐに踏み込んでくれた。


 誰よりも優しく、誰よりも繊細に——カナタの笑顔を誘い出してくれた人。


 その彼女が今、自分の私物を、誰かを陥れるための道具に使われている。


 どれほど胸を痛めているだろう。どれほど自分を責めているだろう。


 そう思うだけで、ふたりの胸の奥が酷く重くなった。


「菊理の件も……取ったその場でカナタの机に入れずに持ち帰ったってことは、一度自分の部屋で“盗んだ余韻”を味わってたんだろうね」


「うわぁ……」


 司は思わず顔をしかめた。


「気持ち悪い話だけど、そういうものなんだ。自分の“罪”を勲章に変える奴、世の中よくいる」


 真耶は頭に顎を乗せたまま肩をすくめて、鼻を鳴らす。


「まぁ……カナタが被疑者で、莉愛が被害者になった時点で、犯人に勝ち目はないよね〜」


「それな」


 司が淡々と口にすると、真耶は笑って頷いた。


 ふたりの息が、同時に小さく鼻を鳴らす音に混じる。夕暮れの光が差し込む廊下に、ほんの一瞬、柔らかな空気が戻った。


「運が無かったよ、あいつ。“忠犬”が“飼い主”に噛み付くわけないんだから」


 その比喩に、司はくすりと笑う。


「忠犬って、カナタのこと〜?」


「言い得て妙でしょ? うちにはもう、あのふたりはそうとしか見えない」


 真耶も釣られるように笑い、司の背中で軽く体を揺らした。思い出したのは、あの何気ない日常の光景。


 事件も何もなかった頃、穏やかに流れていた緑の教会での時間。


「それってあれ? 俺たちがカナタに助言をもらいに行った時の話し〜?」


「そうそう。難事件だからって聞きに行くと、カナタ、いつも乗り気じゃない顔するくせに……莉愛の“お願い”一つで、急にやる気出すんだよ」


「ははっ、あれは面白かったね〜!」


 司が笑い声をあげると、真耶も目を細めた。


 思い返せば、あの瞬間のカナタは、誰よりも分かりやすかった。理屈ではなく、本能で動くように、莉愛のために息をしているようだった。


 “忠犬”という言葉は、皮肉でも侮蔑でもない。ただ、ふたりの間に流れる絶対的な信頼と、壊れそうで壊れない絆を、真耶なりの言葉で表しただけだ。


 そのことを、司も分かっていた。


 廊下に響く笑い声は、やがて小さくなり、黄昏色に溶けていった。


 それはまるで、長い一日を締めくくるような、静かな余韻だった。


ここまで読んでくださりありがとうございます。もし少しでも面白いと思っていただけたら、感想や評価で応援していただけると嬉しいです。

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