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 ——タッ、タッ、タッ、タッ、タッ。


 静かな廊下を駆ける足音が近付いてくる。教室の中にいた数人がそっと顔を上げた。すると——


「——ハァ、ハァ、っ……詩乃ちゃん!」


 勢いよく扉が開き、教室の入り口に飛び込んできたのは涙先輩だった。肩で大きく息をしながら、扉の縁に手をついて呼吸を整えている。


 部活の途中だったのか、黒いTシャツに杏色のツナギの作業着、上半分は脱いで腰に結ばれていて、額には細かな汗が光っていた。背中まで伸びた髪は、低い位置でスッキリとまとめられていた。


「涙先輩っ……!」


 詩乃ちゃんの顔がパッと明るくなる。もう泣いてはいないけど、心の底からホッとしたように、嬉しそうに瞳が和らいだ。


 涙先輩は扉の枠に手をついて肩で息を少し整えると、詩乃ちゃんの元へ近付いた。


「ごめんね、遅くなって……! 泣いてるって聞いて……大丈夫?」


 その問いかけに、詩乃ちゃんは力強く、でも柔らかく笑って頷く。


「はい、大丈夫ですっ。もう、泣いてません。優ちゃんと瑛梨香先輩が、そばにいてくれましたからっ」


 強がってるんじゃなくて、本当に安心してるんだって分かる笑顔だった。照れも隠さずに言ったその言葉に、涙先輩の肩の力が少し抜け、深く息を吐いた。


「そっか……よかった。本当に……よかった」


 涙先輩はそっと詩乃の肩に手を置いて、優しく頭を撫でた。詩乃ちゃんは目を細め、嬉しそうに目元を柔らげる。


 その様子を見て、隣に立っていた瑛梨香先輩がほんのり微笑んだ。


「詩乃さんが不安そうにしていたから……やっぱり、エスである涙を呼ばないとね」


 優ちゃんも頷きながら、にこりと笑う。


「瑛梨香さん、ありがとうございます。優さんも、ありがとう」


 涙先輩の息遣いだけが少し荒く残っていて——それが、真剣に駆けつけてくれた証のようだった。


 周りのクラスメイトの何人かが、小声で話し始める。


「ねぇ……あれが“エス”ってやつ?」

「初めて見た……あんな感じなんだ」

「わぁ……なんか、思ってたのと違うね。もっと堅い関係なのかと思った」


 言葉の端々には、戸惑いと、憧れと、ほんの少しの羨ましさが混じっていた。


 体育館で制度の説明を受けた時には、誰もピンときていなかったのかもしれない。


 だけど今、こうして目の前で見てしまうと——


 “エスとアプレンティス”という関係が、ただの役職じゃなくて、心の繋がりそのものだということが、みんなにも伝わっているんだと思う。


「そういえば、玲央も副会長のこと“俺のエス様”って言ってたよな?」


 クラスの男子が揶揄うように声をかけると、玲央くんは待ってましたとばかりに胸を張った。


「おうっ! 俺は利玖先輩のアプレンティスだぜっ!」


 快活な声が響いた瞬間、教室の空気がふっと明るくなる。笑いが溢れて緊張が解けていく。


 それはまるで、重たかった空気に一筋の風が吹き抜けたみたいだった。


 詩乃ちゃんと涙先輩を見つめるみんなの目に、少しずつ温かい光が宿っていく。


 “支え合う”ということが、ほんの少しだけ、遠いものではなくなった気がした。


「……それじゃあ、うちらは帰るかぁ」


 温かい空気にホッとしたように息を抜きながら、真耶が司の背中の上で脱力して言った。司は肩を揺らして小さく溜息を吐く。


「ねぇ〜、俺いつまで真耶をおんぶしてればいいの〜?」


「鏡の前までぇ」


「も〜……」


 口では文句を言いながらも、足取りはしっかりしていて、真耶の体を落とさないように支える司。ふたりが教室の出口に向かおうとしたその時、真耶がふと思い出したように顔を上げた。


「あ、そうだ、二人共」


 呼び止められて、私とカナタはふたりを見る。司も足を止め、真耶の頬が司の頭に押しつけられて、ムニっと少し潰れているのがちょっとおかしくて、微笑ましかった。


「利玖によろしく伝えといて。副会長、お疲れ〜って」


「副会長、めっちゃカッコよかったよ〜って伝えといて〜」


 さっきまで事件の真相を探っていた時の鋭さなんてもうどこにもなくて、ただの、いつも通りの真耶と司。肩の力が抜けたふたりを見て、胸の中がふわっと温かくなる。


「ふふっ。うん、ちゃんと伝えとくね」


 思わず笑って、私は手を振った。真耶も司の背中で脱力したまま、小さくひらひらと手を振り返してくれる。その姿が何だか可愛くて、少しだけ気持ちが緩んだ。


『……ありがとう』


 カナタが小さく息を吸って、ポツリとそう呟いた。その機械混じりの声には、少し照れが滲んでいるように感じた。


 真耶はその言葉を聞くと、目を細めてふっと柔らかく笑った。本当に安心したような、少し誇らしげな笑み。


 司はと言えば、背中に真耶を負ったまま、ニッと歯を見せて真っ直ぐに笑った。二人共、ちゃんとカナタのことを信じてくれている。それが伝わってきて、胸が少しだけ熱くなる。


「あ、えっと……玲央くん、だっけ? いいタイミングで利玖を呼んでくれたね。ありがとう」


 真耶がくるりと玲央くんの方へ顔を向け、少しだけ笑いを浮かべながらそう告げた。その言葉は軽い調子に聞こえるけど、本気の感謝が滲んでいた。


 玲央くんは一瞬目を瞬かせたかと思うと、すぐにニッと口角を上げた。腰に手を当て、片手の親指をグッと立ててみせる。少年らしい自信と照れ臭さの混ざった笑顔だった。


「じゃあ、みんなバイバーイ。何かあったらまた呼んでね〜」


 司が教室全体に向かってそう言うと、クラスのあちこちから小さな笑い声が上がる。「バイバーイ」と手を振り返す子もいて、空気は穏やかで優しい。


 さっきまでしんみりしていた教室が、ゆっくりと日常に戻っていく。その変化を感じながら、私は胸の奥でそっと、小さく息を吐いた。


「……詩乃ちゃんも帰る? 一緒に帰ろうか?」


「えっ!」


 涙先輩がそっと詩乃ちゃんに問いかける。心配の色がそのまま瞳に浮かんでいて、詩乃ちゃんは一瞬きょとんとした様子で目を瞬いた。


「でもっ、今やってる部活の課題、大事なところなんですよね?」


「そうだけど、でも……」


 涙先輩の声は迷いを含んでいて、詩乃ちゃんを置いて戻ることにも、ここに残ることにも踏ん切りがつかないようだった。


「大丈夫ですっ、部活に戻ってください! 私なら本当に大丈夫ですからっ」


 詩乃ちゃんは力強く微笑んでそう言ったけど、その笑顔の奥には、涙先輩を心から気遣う優しさがあった。


「詩乃ちゃん……」


 涙先輩の声が僅かに沈む。そのやり取りは、お互いを思いやる気持ちが強過ぎてかみ合わなくなっている感じで、このままだとずっと平行線のまま続いてしまいそうで——私は息を詰めた。


 その時——


「涙。今は優もいるし、こういう時は有り難く受け取りなさい。アプレンティスの心配りを受け止めるのも、エスの立派な努めよ」


 静かだけど芯のある声。瑛梨香先輩がふたりの間にそっと言葉を落とした。その表情は優しく、それでいて揺るがない。先輩として、そして“エス”としての誇りを感じさせる口調だった。


 涙先輩はハッとしたように目を伏せ、ほんの少し唇を噛む。迷いが静かに整理されていくように見えた。


「……詩乃ちゃん、ありがとう。……実は今、すごくいいところだったの。もう少しだけやらせてくれる?」


「はいっ! またお話、聞かせてくださいね!」


「うんっ」


 詩乃ちゃんの笑顔は、さっきよりも柔らかく、安心と信頼が滲んでいた。涙先輩も、そんな詩乃ちゃんを見て、嬉しそうに微笑みながら答える。


「優さん、詩乃ちゃんをお願いしてもいいですか?」


 涙先輩は優ちゃんの方を向き、真っ直ぐに頼んだ。


「えぇ、お任せください」


 優ちゃんは落ち着いた声で、ゆっくりと頷いた。その横顔には、頼られたことへの責任感と、静かな誇りが宿っているように見えた。


 詩乃ちゃんたちが涙先輩を見送ると、教室の空気がまた少し柔らかくなる。誰もが、何となく、胸の奥がじんわり温かくなるような——そんな空気だった。


 教室の空気も、少しずつ帰る雰囲気になり、クラスメイトが一人また一人と教室を出て行く。


「莉愛ちゃん、バイバイっ」

「カナタ、またな」


 教室を出ていくみんなが、私やカナタの方をわざわざ振り返って笑って挨拶をしてくれる。思っていたよりずっとたくさんの人が声をかけてくれて、胸の奥がポッと温まる。


 こんなふうに名前を呼ばれて、手を振られるのが、なんだか不思議で、でもすごく嬉しかった。


 チラリと隣を見ると、カナタは少し固まったみたいに驚いて、だけど真面目な顔で一人ずつに手を振り返していた。


 ぎこちないのに、丁寧で、どこか必死。それが何だか可愛らしくて、私は思わずふっと笑ってしまった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。もし少しでも面白いと思っていただけたら、感想や評価で応援していただけると嬉しいです。

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