10
「タオルがないっ!!」
思わず声が裏返った。胸の奥から突き上げるように出たその言葉に、教室の空気が一瞬で止まる。
「…………」
「…………」
「…………」
誰もが言葉を失い、目を瞬かせたままこちらを見ている。時間が止まったみたいに、ただ沈黙だけが広がっていた。
「……タオル?」
そんな張りつめた静寂を、司が首を傾げながら破った。その呑気そうな声が響いた瞬間、ようやく息を吐くことができた。
「うんっ、そう! 体育の後、椅子にかけてたやつっ!」
言いながら、記憶が鮮明に蘇る。汗を拭いたタオルを椅子の背にかけ、窓から入る風で乾かしていた。
それを、今まで——全然思い出せなかった。まるで、誰かに記憶のスイッチを切られてたみたいに。
「……なるほど、それでか」
不意に聞こえた真耶の声が、静かに空気を震わせた。顎に手を添えながら、その目はどこか遠くを見ている。すでに何かに辿り着いているような、そんな光を宿していた。
「……タオルが、何か意味あるのかよ?」
拓斗が怪訝そうに尋ねると、真耶は腰に手を当て口元を吊り上げた。
「うん、ものすごく。莉愛、いいこと言ってくれたね」
その笑みには確信があった。まるで真実を暴くことに小さな愉悦を感じているような、探偵の笑み。
褒められても、何がどう良かったのかは全く分からない。でも、真耶の目の奥に宿る輝きを見て、私は何となく理解した。
——“何か”が、今、繋がったのだと。
真耶は、教室にいる全員をゆっくり見渡すと、まるで授業でも始めるかのように軽い口調で話し出した。
「この間、すごく面白い推理小説を読んでたら朝になっててさ、徹夜で学校に来たことがあるんだけど、その時に——」
「何の話してんだよっ! 今関係あんのかよ!」
怒鳴り声が教室に響く。
声の主は、さっきからカナタを疑っている男子。顔が赤く、息が荒い。
だけど真耶は、その怒りを正面から受けても、まるで心に響かないかのように柔らかく笑った。
「まぁまぁ、焦んないでよ。早死にするよ?」
腕を組みながら軽口のように言い放ったその一言が、やけに冷たく響いた。
男子の顔がさらに引きつる。真耶は気にも留めずに話を続けた。
「それでさ、もちろん超眠いわけだよ。大あくびしながらロッカーの取手を引っ張るじゃん。そしたらさ……ロッカー開いたんだよ」
「……普通じゃない?」
優ちゃんが首を傾げて言う。
「ここだけ聞くとね。でもその時、うち……義足鳴らしてなかったんだ」
「えっ……」
その一言で、空気がピタリと止まる。
誰かの喉が小さく鳴った音が、やけに響いた。
この学校のロッカーは、魔械義肢を鳴らすことで持ち主の魔力を感知し、鍵が開く仕組みになっている。閉めれば自動で施錠されるオートロック式。
その鍵が——魔械義肢を鳴らさずに開いた。
「それは……」
「えっ、なんで?」
「壊れてたとか……?」
ざわめく声が次々と上がる。だけど真耶は、その動揺を楽しむように、唇の端をゆっくり上げた。
「それでね、魔械工学棟に行って色々聞き込みしたり、技術管理委員の人に聞いてみたんだ。そしたらさ、面白いこと聞いてね」
笑顔のままなのに、声の温度がスッと下がる。
真耶の言葉は、もう教室全体ではなくて、一人の犯人へ向けているようだった。
「このロッカーはね、魔械義肢からのその人の魔力反応と、“嗅覚魔法”の二重ロックになってるんだって」
「……二重ロック?」
誰かの掠れた声が、静まり返った空間に落ちた。
「まず、魔械義肢からの魔力を感知する。その後、ロッカーの取手部分に施されている嗅覚魔法で、その人の匂いを感知する。——取手はみんな、生身の手で触れるはずだからね」
真耶が、利き手である右手を軽く掲げながら淡々と告げた瞬間、誰かが息を詰めた気配がした。いつも無意識にやっている動作だから、誰も疑問に思わなかっただけで、今初めて、その“当たり前”が、逆に恐ろしく鮮明に浮かび上がってくる。
確かに、義足の人は関係ないかもしれない。でも、私のように義手を持つ者たちは、生身の方の手が利き手になる。だから、自然とロッカーの取手に触れるのも、生身の手になる。
つまりその手から漂う“個人の匂い”で、ロッカーの持ち主を識別しているということ。
「じゃあ……莉愛ちゃんのタオルについた匂いで、嗅覚魔法のロックを解除したってこと?」
詩乃ちゃんがおずおずと尋ねる。その声には、どこか怯えが混ざっていた。
真耶は片手を腰に当て、笑顔のまま少しだけ目を細め、静かに頷く。
その瞬間、私の背筋を冷たいものが駆け抜けた。
嗅がれたわけじゃない——分かってる。
それでも、自分の匂いを“使われた”という事実が、喉の奥に重くのしかかる。胸の奥で何かがぐるぐると渦を巻いて、息を吸う度に気持ち悪さが広がっていく。
気付けば私は、両手を胸の前でギュッと握っていた。指先に力が入り過ぎて、義手の接合部が小さく軋む音がした。視界が少し滲む。
『……莉愛、大丈夫?』
隣にいるカナタの声が、心の奥に直接落ちてくる。
いつものように機械を通した少し籠った声。それが、今はいつもより優しく感じた。
私は顔を上げられないまま、小さく頷いた。何も言葉にできなかった。ただ、カナタの声がそこにあるだけで、かろうじて心が繋ぎ留められている気がした。
「じゃあ、莉愛の魔力はどうやって感知させるんだ?」
玲央くんの落ち着いた声が、静まり返った教室の中に響いた。その冷静さに、張り詰めていた空気が一瞬だけ緩む。
玲央くんは腕を組み、真耶を真っ直ぐ見つめている。その横顔には迷いがない。
確かに——匂いのことは分かったけど、魔力の方は?
匂いだけじゃ、ロックは解除できないはず。
「それは——カナタ」
真耶が、軽く指を鳴らしてカナタを呼んだ。パチンッ、という乾いた音が教室に響く。
呼ばれたカナタは、私から真耶へとゆっくり視線を移した。その一連の動きが、何だか儀式のように静かだった。
「人の魔力の物質化について、簡単に説明して」
真耶の声は淡々としていたけど、どこか信頼の響きを含んでいた。
命令口調だけど、雑ではない。
今、真耶が本当に頼れるのは、カナタの言葉だから——それが分かる。
『魔力の物質化は主に二つ。一つは“人工魔法石”。意図して自分の魔力を結晶化させたもの。もう一つは“漏出魔力”。人の魔力は、生きているだけで常に微量に流れ出ている。それは主に、呼気と唾液と、皮脂と…………汗』
「「「!?!?」」」
「っ!?」
その瞬間、空気がざわめいた。
クラス全体が一斉に息を呑む音がした。
私も、反射的に後ずさる。
(気持ち悪いっ……! 匂いだけじゃなくて、汗まで……!?)
皮膚の上に、誰かの視線がまとわりつくような感覚。まるで、自分の体を誰かに触れられたような気持ち悪さだった。
心臓がバクバクと速くなる。呼吸が上手くできない。
その時——背中に、そっと何かが触れた。
優しくて、でも確かに支えてくれる感触。
『莉愛、ごめん』
カナタの声。機械混じりなのに、そこに込められた痛みが伝わってくる。
カナタの顔を見ると、まるで自分が悪いことをしたみたいに苦しそうだった。
違うのに。——カナタは、何も悪くないのに。
私は小さく首を振って、それ以上言って欲しくなくて唇をギュッと結んだ。
でも、胸の奥にある鈍い痛みで、どうしても涙が滲みそうになる。
誰よりも私を思って苦しむカナタが、何よりも切なくて——痛かった。
「……犯人は、莉愛の体育後のタオルを使うために、忘却魔法が彫られた人工魔法石を莉愛の鞄に忍び込ませた。それによって莉愛は、ほんの身近で気をつけていたことを忘れた——認識できなくなった。それが椅子にかけたタオルと、ロッカーの菊理だった」
真耶は静かに、しかし確信に満ちた声で推理を語り出した。
その落ち着いたトーンに、教室のざわめきがすっと引いていく。
「でも、莉愛の菊理がロッカーにあるなんて、犯人は何で知ってたのかしら?」
優ちゃんが、眉を僅かに寄せながら言う。
確かに——体育の時に私が菊理をロッカーにしまっていたことを知っていた人なんて、数えるほどしかいない。
詩乃ちゃんと優ちゃんくらい。
……もしくは、誰かに見られていたとか?
胸の奥がぞわりと冷たくなる。誰かに、見られていた。そんな想像をしただけで、鳥肌が立った。
「いや、菊理を盗ったのは偶然だね」
真耶は腕を組みながら、その不安を軽く切り裂く。あまりにもあっさりしていて、逆に安心する。
「元々の狙いは、教科書とか、体操着とか、ロッカーにある物なら何でも良かったんだと思う」
「どうしてそう思うの?」
気付けば、私は口を開いていた。自分でも驚くくらい、声が震えていた。
真耶は私の方を見て、私を安心させるかのようにふっと口角を上げた。
「菊理ってね、無くしても放課後に学園長が見つけてくれるんだよ。学園長は、菊理の場所が分かるみたい」
「へぇ……よく知ってるね」
思わず感心の声を漏らす。
だけど真耶は、おちゃらけたように笑って、視線を逸らした。その仕草がちょっと怪しい。
『……真耶、何回無くしたの?』
すぐ隣から、カナタの機械混じりの声が聞こえた。その響きには呆れと優しさが混ざっていた。
「ん〜と、五回くらいかな?」
顎に手を当てて、考えるそぶりをしつつ、とぼけるように言う真耶。
その瞬間、すかさず司が笑顔でツッコミを入れる。
「十五回だね〜」
「えぇぇ!? そんなに!?」
教室の空気が一気に和む。
さっきまでの張りつめた緊張が、まるで風船の空気が抜けるみたいに消えていった。
——そう、真耶は推理力は天才的だけど、現実的な「探す力」はまるでダメなのだ。
司が見つけてくれるのがもはや日課。天律学園に来てまだ三ヶ月なのに、すでに十五回も菊理を無くしているという伝説を更新中。
私は思わず、ふっと笑ってしまった。
こんな状況なのに——いや、こんな状況だからこそ、少しでも笑えたことが救いだった。
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