08
「えっ、なになに?」
「あれって、莉愛さんの菊理なの?」
「結局、カナタくんが持ってたの?」
まだ帰っていなかったクラスメイトたちが、ざわめきながら私たちの方を振り返った。
椅子を引く音、机を叩く音、笑い声の混ざったざわつきが、じわじわと重くなっていく。
そのざわめきの中心に、私と、そして——カナタがいた。
私が菊理を無くしたなんて、大きな声で言った覚えはない。でもきっと、私たちの朝のやり取りや、みんなの視線の集まり方で察した子もいたんだろう。
「知ってる人」と「知らなかった人」の視線が、好奇心と不安の間で揺れながら交差していた。
カナタは、手の平の上の菊理を黙って見つめていた。
表情は見えない。だけど、ほんの僅かに肩が震えていた。それは怒りでも動揺でもなく——ただ、戸惑いに飲まれているような小さな震え。
「え、えっと……り、莉愛ちゃんのじゃない菊理かもしれない……!」
詩乃ちゃんが慌てて声を上げた。必死にフォローしようとしてくれているのが伝わる。
だけどその言葉は、拓斗の一言であっさりと打ち砕かれた。
「いや、それはそれで問題だろ」
「あ、そっか……」
詩乃ちゃんはシュンと肩を落とし、小さく項垂れた。
すると——
「……て言うか、カナタじゃないだろ」
玲央くんの低い声が、教室のざわめきを一瞬だけ止めた。優ちゃんが頷きながら言葉を重ねる。
「そうね。それはあたしも同感よ」
拓斗も腕を組んで、短く「俺も」と頷いた。
詩乃ちゃんはというと、もはや首が取れそうな勢いでコクコク頷いている。
「そ、そうだよっ! だっていっぱい調べたもんっ!」
そう。
朝のホームルームの後、詩乃ちゃんが連絡してくれた時、確かに音はしなかった。
カナタは何度も確認してくれたし、私たちの前で鞄の中まで見せてくれた。
「うーん、カナタがそんなことする意味がないしな」
「頭良い人がこんなヘマするとは思えない」
「えー、じゃあ濡れ衣!?」
周りの何人かが笑い混じりに言ってくれて、少し救われる。だけど、その中に別の声が混ざった瞬間——教室の空気がまた変わった。
「でも、鞄から出て来たんでしょ……?」
「うーん……いくらでも誤魔化しようはあるしなぁ」
「いやいやっ、それが何よりの証拠だろっ」
その言葉が放たれた瞬間、胸の奥に冷たい針が刺さったような痛みが走った。
ざわめきが再び広がる。足元の床が僅かに揺れるような錯覚を覚えた。
私は息を詰め、カナタの方を見た。
カナタは、まだ何も言わなかった。ただ、自分の手の中の菊理をジッと見つめている。
その指先がほんの少し震えているのを、私は見逃さなかった。
教室のざわめきが、少しずつ大きくなる。
カナタを庇う声と、疑う声。どちらも、正しさを主張するように重なっていく。
——空気がざらついていく。
「——やめろよ」
玲央くんが、机に右手を付きながら声を落とした。いつもは軽口を叩く彼が、珍しく真剣な声をしている。
「お前ら、見たのか? カナタが盗るところを」
その一言に、クラスのざわめきが一瞬止まる。皆、息を呑んで顔を見合わせた。
「……そ、それは……でも現に、鞄から出てきたし」
誰かが言い返す。でも、その声はどこか弱々しい。
拓斗が低く息を吐いてから、言葉を続けた。
「俺たち、朝から一緒に探してたんだ。カナタの鞄の中には無かった。つまり、誰かが入れたって考えるのが普通だろ。そもそも、カナタがそんなことする人間だと思うか?」
玲央くんの言葉に、周りのクラスメイトは納得した様子が伺えた。
その様子に、私は胸が熱くなった。
みんながカナタを信じてくれている——
だけど、その空気を切り裂くように、窓側の席の方から笑い声が上がった。
「へぇ〜、庇うんだ? 優しいねぇ」
揶揄うような声が、ざわめく教室の中でも妙に響いた。
窓側の一番後ろの席に腕を組んだ男子が、机に寄りかかりながら立っていた。挑発的な笑み。わざとらしいその口元が、胸の奥をざらつかせる。
「でもさ、結局カナタくんの鞄から出てきたのは事実でしょ? そんな人じゃないとか、言い訳にしか聞こえないけどな」
教室の空気が、スッと冷たく沈んだ。
誰も、息を呑んだまま動けなくなる。
さっきまで響いていた笑い声や雑談の残響が、遠くへ引いていくみたいだった。
私は、胸の奥がギュッと痛むのを感じながらカナタを見た。
やっぱり表情は読み取れない。手の中の菊理を、ただ静かに見つめ続けていた。
その沈黙が、却って痛かった。
窓際の席で腕を組んだ男子が、挑発的に笑いながら続けた。
「……カナタくんさぁ、随分手の込んだ事件を起こしたね」
その声は、まるで勝ち誇ったみたいに響いた。
カナタの視線が、ゆっくりとそちらに向く。
「最初っから心配してるフリをして、あたかも犯人じゃありませ〜んって顔しといて、んで最後に自分の鞄から出てくる演出をして、さらに自分が疑われないようにしたんだろ? やっぱり賢い人は考えることが違うねぇ」
その一言で、空気が一気にざわついた。
机の間をざわめきが走り、誰かが息を呑む音が聞こえる。
カナタは腕を組んだ男子に目を向けながら、微動だにしない。
「——おい。言葉、選べよ」
低く、鋭い声。
その瞬間、教室のざわつきがピタリと止まった。
玲央くんだった。
机に右手を付き、左手はだらんと前に垂らしている。その目は、獣みたいに光っていた。
男子が一瞬たじろぐ。でも、すぐに笑って誤魔化すように肩をすくめた。
「いやいや、俺はあり得る可能性を言っただけだよ? だってさ、君たちが揃いも揃って、一番怪しいカナタくんを庇うからさ」
その言葉がまた、教室の空気を揺らす。
「——おい、それ以上言うな!」
玲央くんの声は、さっきよりもさらに低く、鋭さを増していた。
男子は一瞬眉をひそめ、挑発の笑みを消すこともなく睨み返す。だけど、玲央くんの目の光に、僅かにたじろいだような動きが見える。
「お前さ、証拠もなしに決めつけて、よくそんなこと言えるな?」
拓斗が声を上げる。
両手を制服のスラックスのポケットに入れて睨みつけるその姿は、教室の空気を圧迫する。
声には怒りが滲み、周囲のざわつきがピタリと止まった。
男子は笑みを浮かべながらも、少しずつ後ずさる。
「いや、あの——」
言い訳しようとする声を、優ちゃんがすぐに遮った。
「言い訳なんていらない。ちゃんとした証拠もないのに、人を犯人扱いするなんて最低よ」
優ちゃんの冷たい声が、教室のざわめきの中で凛と響く。その視線は男子を貫き、微動だにさせない。
「そ、そうだよっ!」
詩乃ちゃんも声を上げた。小さな体を精一杯背伸びさせ、怒りと心配が混じった声で男子を睨む。
教室のざわめきが、再び沈み、みんなの視線が四人に集まった。
私はその四人を見て、胸の奥がギュッと熱くなるのを感じた。体の中で小さな震えが広がり、涙腺がじんわりと刺激される。
ずっと抱えていた不安や、カナタが誤解されるかもしれないという焦燥が、一気に押し流されていくようだった。
喉の奥がヒリつき、言葉が自然に溢れそうになる。息を飲む度に胸が高鳴り、体全体で嬉しさと安堵が波打っていた。
「……私たちは、庇ってるんじゃない。ただ、信じてるだけっ!」
怒りに震える玲央くん、毅然とした拓斗、冷静で力強い優ちゃん、怖くても声を上げてくれる詩乃ちゃん——四人が、迷わず、力強く、カナタを守ろうとしてくれる姿。
その光景を目の前にして、私の胸は誇らしさと安心感でいっぱいになった。
思わず、自然と声を上げずにはいられなかった。
それは、誰かを信じることの温かさと力強さを、初めてこんなにも実感した瞬間だった。
『……いいよ、皆……ありがとう』
ずっと黙っていたカナタが、ゆっくりと口を開いた。
その声は、どこか落ち着いた確信を帯びていて、私の胸の奥にじんわりと安心を広げた。
カナタは首から菊理を外し、真ん中の魔法石をトントンとタップすると何かを話し始める。
『——うん、そう。ちょっと十九組まで来てくれる? ……事件だよ』
短い言葉だけど、そこには焦りや混乱はなく、冷静で的確な響きがあった。
話し終えると、カナタは再び菊理を首にかけてそれを服の中に入れる。
「……何するつもり? まさかこの状況を挽回する何かあんの?」
男子は余裕を取り戻したのか、ニヤついた笑みを作る。
でも、どこかぎこちなくて、緊張と油断の狭間に揺れる様子が滲んでいた。
『君の言う通り、今一番怪しいのは僕だ』
「っ……!」
その言葉に、私の胸はズキンと疼いた。
その私の様子に気付いたのか、カナタの目が一瞬だけ柔らかく私に向けられた。
まるで『大丈夫だよ』と、私に伝えてくれたかのようだった。
『だから、疑われてる僕がこの状況を打破すればいい。……幸い、こう言うのを収めるのが得意な人を知ってるから、ちょっと待っててよ。人脈だってさ、上手く使えば自分の力のひとつみたいなもんでしょ?』
カナタはそう言うと、男子と同じように机に寄りかかり、腕を組む。
その落ち着いた佇まいは、まるで嵐の中でも揺るがない堤防のようで、男子の挑発の空気を少しずつ押し返していた。
私はただ、カナタのその静かな自信と、頼もしさに胸を熱くしながら、両手をギュッと握った。
周囲のざわつきも、男子の挑発的な態度も、今は遠くに押しやられるように感じる。
男子は一瞬、僅かに顔を歪めた。
だけど、すぐに余裕の表情を取り戻そうと肩を揺らし、無理やり笑みを貼り付ける。
すると、教室の外からバタバタと駆け足の音が聞こえてきた。床を蹴る軽快な音と、荒い息遣いが廊下に響く。
誰かが駆け寄ってきてくれる気配に、少しだけ心が跳ねる。
その音は、教室の前で止まった。
そして息を切らした声が流れ込む。
「カナター! 来たよー!」
「ハァ、ハァ、……速いよ、司……」
教室の入り口には、カナタと同じ養護施設で過ごしている二人が立っていた。
司は元気いっぱい、キラキラ笑顔でカナタに突進してくる。一方の真耶は、膝に手をつきながら息を整え、呆れた顔で司を見ていた。
『ありがとう、二人共。何か用事あった?』
「無いよー、暇だったから助かるー!」
「はぁ……まったく」
真耶は少し乱れたスラックスを整えながら、司に続いてカナタの元へ歩み寄る。
その落ち着いた動きに、空気まで引き締まるような力強さを感じた。
「あっ、二人を呼んだんだ?」
カナタは小さく頷く。
——この二人なら、この状況もなんとかしてくれそうだ。
「それで——」
真耶が静かに言葉を紡ぐ。中性的な印象を漂わせるその顔立ちと、色素の薄い肌と髪色が相まって、教室のざわめきが一瞬で止まったように感じた。
「——事件はどこ?」
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