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06

 放課後の部活も終わり、私と詩乃ちゃんは寮の部屋へ帰って来た。


「「ただいま〜!」」


 弥生寮の私たちの部屋に入ると、ホッとするような安心感が胸に広がる。


 ここなら、誰にも見られずに一息吐ける——そんな空気が私の肩の力をゆっくり溶かしていった。


 私は勉強机に鞄を置き、制服の羽織を脱ぎながら、詩乃ちゃんと並んで着替えを始める。


 部屋着用のキャミソールにガウチョパンツ、そしてお気に入りの薄手のカーディガン。


 袖を通す度に、肌に触れる柔らかい布の感触が、一日の疲れや少しの緊張を吸い取っていくように感じられた。


 着替え終えてベッドに腰かけると、胸の奥に小さな違和感が広がった。


(あれ……菊理がない)


 毎日、着替える時に机のペン立ての隣に置くのがルーティン。だけど、さっき着替えた時に、首から外した記憶がない。


 机の上のペン立てを見ると、やっぱりいつものところに菊理は無かった。


 その瞬間、心臓の奥がひやりと冷たくなる。


 自分のうっかりに気付くと、どうしてこんなに胸がドキッとするんだろう——


「莉愛ちゃん、どうしたの?」


 ベッドの上で胸元に手を当て、固まっていた私に、詩乃ちゃんが首を傾げて声をかける。


 その無邪気な心配そうな表情を見ると、胸のざわつきが少しだけ和らいだ。


「あっ、菊理がなくて……学校に忘れちゃったのかな……?」


 唇に指を添えながら、頭の中で今日の出来事を追ってみる。すると——


「あっ! きっとロッカーだよ! 今日、体育があったからっ」


「あぁっ!」


 私は詩乃ちゃんの気付きに、同意の気持ちが強く湧いた。


 いつも体育の時間は、落としたり壊したりしたら大変だからと、菊理は必ずロッカーにしまってから授業に出る。


 でも今日は汗がすごくて、汗ばんだ首に菊理をかけるのは少し気が引けた。


 連絡もあまり来ないし、少しくらい持ち歩かなくても大丈夫だろう——と軽く考えて、そのままにしてしまったんだ。


「そうだ、体育の授業があるからロッカーに入れっぱなしだ……」


「でもロッカーなら安心だねっ!」


 詩乃ちゃんの明るい励ましに、心の中の不安の色が少しずつ薄くなっていく。


 泣かずに済みそう——そんな小さな安堵が、胸の奥でじんわり温かく広がった。


「そうだね、誰からも連絡が来てないといいけど……」


 少しモヤモヤは残るけど、それ以上に胸を占めていた心配が和らぐ。


 明日、無事に菊理が戻ってくることを願いながら、私は深く息を吐いた。



 * * *



 朝の学園は、私の胸の中に残る小さな不安なんて気にも留めないように、大分早い夏の青空が広がっていた。


 まだ梅雨前なのに、空の向こうには大きな入道雲、夏の日差しが窓の縁で弾ける。こんなに清々しいのに、どうして胸の奥がこんなにざわつくんだろう。


「莉愛ちゃんっ! 急がなくても大丈夫だよー!」


 後ろから詩乃ちゃんの声が追いかけてくる。


「うんっ、そうなんだけど……!」


 返事をしながらも、足は止まらなかった。


 あるって分かってる。分かってるのに、胸の中に引っかかった不安が、靴の底を押し上げるみたいに私を急かす。


 私は駆け足で、一番星が輝く宵を映す鏡へと飛び込み、淡い光に包まれながら階段の踊り場へと抜けた。


 息を整える間も惜しんで、階段を一段飛ばしで駆け上がる。


 少し捲れ上がったタイトスカートを軽く払いながら教室前の廊下に辿り着くと、魔械(マギア)義肢を鳴らす。金属音が「キンッ」と響き、私のロッカー“48”の扉の取手に右手を添えると、軽い音を立てて鍵が開いたことを知らせる。


 勢いよく扉を開けると、そこに——菊理は、なかった。


「…………無いっ!!」


 息が止まった。視界が一瞬だけ白く霞む。


「えっ!?」


 詩乃ちゃんが私の声に驚いて駆け寄り、ロッカーの中を覗き込む。


「……本当だ、いつものところにないね」


 ロッカーの中は、まるで最初から“何も置かれていなかった”みたいに整っていた。


 いつも教科書を立てかけている手前に、あのハンカチ——お気に入りの、孔雀色の絹の布に包まれた小さな塊——があるはずなのに。


 それが、丸ごと消えていた。


 絹のハンカチは、菊理をしまうためにロッカーに常に置いていたもの。


 それがないということは——


(……誰かに、取られた……?)


 心臓が、ドクンと鳴った。


 空気が一瞬で重たくなって、夏の暑さすら息を潜めた気がした。


「こ、こういう時って、どうすればいいのかなっ!? 取られたんだったら、先生に言えばいいのかな……」


 詩乃ちゃんの声が、少し震えていた。ロッカーの前で立ち尽くす私よりも、ずっと動揺している。


「そうだね、後で日向先生に言わないと」


 自分の声が、思ったより冷静に聞こえて少し驚いた。心の中では、鼓動がやかましいくらいに鳴っているのに。


「でっ、でっ、でも……怒られちゃうかなぁ……?」


 詩乃ちゃんは眉を下げ、まるで自分のことみたいに不安そうな顔をした。


 そんな表情を見たら、こっちまで泣きたくなってしまいそうで——私は無理やり笑った。


「まぁ、それはしょうがないよ。ロッカーに置き忘れた私が悪いんだしっ。でも大丈夫だよっ」


 口角を上げる。だけど、その笑顔は自分でも“嘘っぽい”と分かる。喉の奥がキュッと締まって、心臓の奥が冷たいままだ。


「うぅ……でも、莉愛ちゃんがそんな忘れ物するなんて、珍しいね?」


「……うん、そうなんだよ……」


 そう。

 菊理をロッカーに置くのは、これが初めてじゃない。


 体育の授業の時はいつもそうしてきたし、放課後は寮に帰ってから予習をするから必ずロッカーを開ける。


 だから——忘れるはずなんて、ない。


 なのに、ない。


 “置いた”記憶は確かにあるのに。誰かが触れた気配すら、昨日の私には感じ取れなかった。


 胸の奥に、じんわりとした違和感が広がっていく。不安が、じとりと肌に張り付いて離れない。


 それはまるで、見えない手が心の中をゆっくり掻き回しているようで——


(うぅ……気持ち悪い……)


 忘れただけ。そう自分に言い聞かせるのに、心が納得してくれない。


 頭の隅に、何か“見えないもの”がまだあるような気がして——


 私は思わず、一歩後ずさった。


『莉愛?』


 聞き慣れた、機械の響きを含む低い声が私を呼んだ。


 その声が耳に届いた瞬間、胸の奥で張りつめていた何かが、ふっと緩んだ気がした。


 いつもの、カナタの声だ。機械と魔力の共鳴音が少し混ざるその響きは、どうしてだろう、私にとっては“安心の音”になっていた。


『おはよう。二人共、今日は早いんだね。……どうしたの?』


 私と詩乃ちゃんの顔色を見たカナタは、すぐに気付いたらしく、優しく問いかけてくれた。


 詩乃ちゃんが私の方にチラリと目を向ける。その視線には「どうする? 言う?」という小さな合図が込もっている。


 私は小さく息を吸って、覚悟を決めた。


「……あのね、私の菊理が……多分、誰かに取られちゃったの」


 本当は“多分”なんてつけたくなかった。


 だけど、決めつけたくなかった。まだ、私の勘違いかもしれない——そう思いたかった。


『っ……!?』


 カナタの瞳の奥が、一瞬だけ鋭く光った。


 次の瞬間、カナタは右手を軽く握り、マスクの口元へ添えた。


 ——考え込む時の、あの癖。


 指先がマスクの縁を掠めるその仕草が、妙に静かな緊張を孕んで見えた。


(……カナタ、もしかして何か思い当たることがあるの?)


 私が胸の奥で呟くよりも早く、カナタは動き出した。


 自分のロッカーを開け、机を覗き、鞄を掻き回す。動きに無駄がなくて、まるで何かを確かめるようだった。


「カナタ? どうしたの?」


 私と詩乃ちゃんは顔を見合わせ、声をかける。


『いや、何かの間違えで僕のところにあるかなって思って……』


 そう言いながら、カナタは制服の上からワイシャツ胸ポケット、スラックスのポケットを軽く叩き、羽織の内側まで手探りして見せた。


 律儀過ぎるその姿に、私は思わず息が漏れる。


「それは流石に無いよぉ……」


 自分でも苦笑いしているのが分かった。でも、その優しさが少しだけ救いだった。


「私も確認してみるねっ!」


 突然詩乃ちゃんが言って、パタパタと自分のロッカーへ走って行った。


「へっ!?」


 私は思わず間の抜けた声を上げる。


 そんな詩乃ちゃんの背中を見つめながら——少しだけ、心の奥が温かくなった。


 心配してくれる人がいる。

 それだけで、ほんの少しだけど、“怖さ”が薄れた気がした。


ここまで読んでくださりありがとうございます。もし少しでも面白いと思っていただけたら、感想や評価で応援していただけると嬉しいです。

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