05
二組のエスとアプレンティスのペアが誕生して、私たちの周りの空気は日ごとに明るくなっていた。
誰かの笑い声が響けば、別の誰かが応じて笑い、そんな連鎖が毎日のように起こっていた。
——そんな中で、玲央くんが学校を休んだ。
何てことはない。ただの風邪。
朝、利玖から菊理で連絡が来て「玲央が風邪引いたから休むわ」と、さらりと教えてくれた。
学校にはすでに連絡済みらしく、どうやら私にも知らせておこうと思ってくれたらしい。
[俺のアプレンティスだからなっ!]
菊理越しのその声は、少し鼻にかかったように弾んでいて、何だか嬉しそうだった。
本当に仲がいいんだな。二人の関係が、自然と伝わってくる。
そして今は——。
四時間目の体育を終えて、玲央くんを除いたいつもの五人で教室へと戻る途中。そういえば——と、ふと羽織の袖口に目を落とす。
ここ数日、暑い日が続いていて、私たちの羽織も“絽羽織”と呼ばれる夏仕様に変わっていた。
生地には大きな透かし目が織り込まれ、風が通り抜ける度に、微かな涼しさを運んでくれる。
(とは言え、暑い……)
肩にかけたタオルで顔を拭きながら歩いていると、窓から吹き込むぬるい風が、まだ少し汗ばんだ肌を撫でていった。
「玲央くんがいないと、休み時間以外はつまらないなぁ」
ふと口に出してから、自分でも驚く。
授業中のほんの少しの小言や、授業と授業の間の時間に交わすささやかな会話。
それが、私にとってどれだけ楽しい時間だったかを、今になって思い知った。
「莉愛ちゃんたちと私たちの席、離れちゃってるもんねぇ……」
詩乃ちゃんが、体操着入れを抱えたまま、少しだけ肩を落とすように言った。
玲央くんがいないだけで、こんなにも空気が静かに感じるなんて。やっぱり玲央くんは、場の空気を照らす太陽みたいな人だ。
「優ちゃん『ユ』でしょ〜。こっちの席来てよ〜」
今の席順は、まだ席替えをしていないから出席番号順。私と玲央くんは、窓側の後ろから二番目と三番目というなかなかの良ポジション。
それでも退屈には勝てなくて、軽口で優ちゃんに言ってみた。
「あたし、本名『スグル』よ」
「そうだった〜」
知ってたけど、つい冗談を言いたくなる。
——だって、私の席の周りには、まだ気軽に話しかけられるような友達が少ないから。
「じゃあ拓斗でいいや。今日だけ『リクト』になって玲央くんの席にいてよ」
「何言ってんだよ……」
拓斗が呆れたように言いながらも、ほんの一瞬、口元に笑みが浮かぶ。
「……てか、それこそカナタや詩乃にお願いするんじゃねーの?」
「カナタと詩乃ちゃんに、そんな我儘言うわけないでしょ!」
即座に否定してしまう。
この二人には、できるだけ迷惑をかけたくない。どこかで、そう決めていた。
「俺はいいのかよ……」
「あたしにも我儘言ってない?」
優ちゃんが、わざと少し意地悪そうに笑う。
私は両手を合わせて、左の頬にそっと添えながらおどけて答えた。
「優ちゃんには、親しみを込めて我儘を言います」
「あらっ、喜んでいいのかしら」
優ちゃんがふふっと笑い、肩をすくめる。笑い声が、午後の日差しの中に優しく溶けていった。
教室に入って自分の席へ行くと、空っぽの後ろの席に少しだけ寂しさを感じる。
そこに誰もいないだけで、教室の空気が少し薄く感じる。いつもなら聞こえてくる小さな冗談や笑い声がなくて、まるでひとつ色を抜かれたみたいだった。
(……やっぱり、玲央くんってすごいな)
静かな教室の中、改めてそう思う。
私は肩に掛けていたフェイスタオルをそっと椅子の背にかけた。
体育の授業の後に汗を拭いたせいで、ほんのり湿っていて、何だか自分の不器用さまで滲んでいる気がする。
「莉愛ちゃーんっ! ご飯、行こ〜!」
明るい声が響いた。
振り返ると、詩乃ちゃんが笑顔で手招きしている。
「うんっ、行こっか!」
私も自然と笑って、詩乃ちゃんの元へ行く。その後ろには、カナタが席に座り鞄から流動食のパックを取り出すところだった。
「カナタも、食堂行く?」
カナタは鞄を漁りながら、私に目を向ける。
鋼鉄のマスクが日の光を受けて淡く光り、まるで表情を映す代わりに感情の温度だけを返してくるみたいだった。
『あ、行こうかな。何か飲も』
機械混じりの声。だけど、その響きはどこか柔らかくて——少しだけ安心する。
「行こ行こっ!」
詩乃ちゃんが嬉しそうに手を振り、私の背中を軽く押した。
私はカナタの方をチラリと見て、小さく笑う。
——三人で過ごす、ただの昼休み。
でも、こうして笑い合える時間が、思っている以上に大切なんだと、胸の奥が静かに教えてくれた。
私たちはそのまま食堂へ向かった。
* * *
キーン、コーン、カーン、コーン——。
六時間目の終わりを告げるチャイムが、少し眠気を誘う午後の空気を震わせた。教室中に広がっていたペンの音が止み、誰かの「終わったぁ〜」という小さな叫びが混ざる。
今日の授業もようやく終了。私たちは教科書を手に、いつもの四人で教室までの廊下を歩いていた。
列の真ん中には、私と詩乃ちゃん。外側には、カナタと優ちゃん。四人並ぶと、他のクラスの子たちがチラッと視線を向ける。だけど、そんなことにはもう慣れっこだ。
「今日の……『黄』も……わけが分からなかった……」
詩乃ちゃんが、机に突っ伏した時みたいな声を出す。
六時間目は選択授業、『黄』——術理言語学。相変わらず難しくて、黒板に書かれた魔法式の文法が、まるで別の言語の詩みたいに並んでいた。
「お疲れ様」
私は笑って声をかけた。
詩乃ちゃんのふくれっ面が少しだけ和らぐ。
「莉愛ちゃんは、ついていけてるの〜?」
「ん〜……理解はまだだけど、面白いなって思ってるよ」
「うぇ〜……」
詩乃ちゃんが肩を落とす。その反応が可愛くて、思わず笑ってしまう。
「カナタは、理解できてるの?」
右隣を歩くカナタに目を向ける。
カナタはいつもの無表情で、それでも少しだけ目線を上に向けた。
『いや、今日は帰って復習しようかなって思ってるよ』
穏やかな声が、チョーカーを通して響く。無機質なのに、なぜか温かい声。
「カナタくんでそのレベルなんだから、私が分かる訳ないよぅ!」
詩乃ちゃんの嘆きに、優ちゃんが吹き出した。その笑い声が、窓の外の夕陽のように軽やかに広がる。
……だけど。
「……あらっ?」
優ちゃんが急に足を止めた。
視線は真っ直ぐ、廊下の先。
拓斗が見知らぬ女の子と並んで歩いていた。
女の子の方がよく喋っていて、拓斗は少し困ったように、でも拒まないように、歩調を合わせていた。
「誰かしら? 違うクラスよね」
優ちゃんが小首を傾げる。
私は曖昧に頷いた。確かに見覚えがない子だった。
『あー……』
カナタが少し考えるような声を出した。
「カナタ、何か知ってるの?」
『いや、本人から聞いたわけではないけど、最近よく一緒にいる子だよ』
「「へぇ……」」
私と詩乃ちゃんの声が、ぴったり重なった。偶然のハーモニーに、少し笑いが込み上げる。
「……彼女かしらね」
優ちゃんがポツリと呟いた。その一言に、空気がピンと張りつめる。
「おぉっ!」
詩乃ちゃんが驚きの声を上げた。
確かに、そう言われてみると妙に納得してしまう。
拓斗のあの表情。あの子の距離感。何となく、ただの友達って感じじゃなかった。
「双輪試走から、拓斗、結構モテ出したのよ」
優ちゃんがさらりと言う。
そういえばそうだった。あのレースで、拓斗とカナタのペアは先生からも生徒からも一目置かれた。
それからというもの、休み時間に違うクラスの女子が拓斗を呼び出す姿を何度か見た気がする。
思い返してみると、確かにモテ出していた。
(……と言うことは)
「カナタも、話しかけられたりする?」
何気ないふりをして聞いたけど、胸の鼓動がほんの少しだけ早くなる。
横目でカナタを見ると、私と視線を合わせて、少し考えるように首を傾けた。
『んー、そうだね。勉強教えてって来るよ。でも殆どは先生か、教会の人だよ』
教会の人。つまり、賢者の下で働いている人たち——
あの人たちの目に留まるほど、カナタの技術はすごいってことだ。
胸の奥が、チクリと痛む。誇らしいのに、少しだけ距離を感じてしまう。
「……何だか、カナタが遠くの存在になっちゃったなぁ」
冗談めかして言ったつもりだったのに、声が少しだけ寂しげに響いた。
その瞬間——カナタのチョーカーが『ヒュッ』と小さく鳴る。
『っ!?』
驚いたような息遣い。
だけど、それをかき消すように反対側から賑やかな声が飛んできた。
「えぇー! 莉愛ちゃんがそれ言うー!?」
「ねぇ〜!」
詩乃ちゃんが私を見て大袈裟に言って、優ちゃんがそれにはっきりと同意する。
笑い混じりの抗議に、思わずキョトンとする。
「えっえっ? 何で?」
私が慌てると、優ちゃんが溜息混じりに笑った。
「いやいや……中一のこんな早い段階で、視覚魔法の応用魔法レベルをあんなあっさりできるのだって、十分雲の上の存在よ」
「そ、そうなの……?」
意外すぎて、思わずカナタの方を見る。
すると、カナタは無言で——でも、はっきりと頷いた。
その仕草に、胸の奥がじんわり熱くなる。
「えー、でも私、誰にも話しかけられないよ?」
思わず口を尖らせると、優ちゃんがニヤリと笑う。
「あらっ、話しかけられたいのかしら?」
「ち、違うよっ! 本当だよ!」
慌てて否定するけど、顔が熱くなっていくのを止められない。
そんな私を見て、ニ人がクスクス笑う。この瞬間が、何だかとても心地いい。
笑いながら歩くこの時間が、当たり前じゃないと気付いたのは、多分この日が初めてだった。
カナタも、詩乃ちゃんも、優ちゃんも、私の隣にいてくれる。
ただそれだけのことなのに、胸の奥がじんわり温かくなる。
笑い声や小さな冗談が、昨日までは気にも留めなかったはずなのに、今は特別に感じられる。
——私、少しだけ変わったのかもしれない。
少しだけ、みんなの中で自然に笑えて、楽しめる自分になれた気がする。
それでも、どこかに小さな不安は残る。
明日も、みんな笑っていられるかな——って。
でも、そんなことを考えながらも、歩く足は止まらない。
今日の放課後が、この先も少しずつ私を強くしてくれる——そう信じて。
ここまで読んでくださりありがとうございます。もし少しでも面白いと思っていただけたら、感想や評価で応援していただけると嬉しいです。




