幼き地獄
「キモいんだよ」「なんで生きてるの? 」「死ねよ、消えろ」「誰だっけ、お前?」
小学校の頃からずっと、佐藤タダシはその言葉に苛まれてきた。
同じような罵声を聞くたびに、胸の奥に鈍い痛みが広がる。それは、怒りでも憎しみでもない。彼にはそんな感情を抱く余裕すらなかった。ただ、傷つき、すり減っていくだけだった。
田舎の小さな町に住んでいた彼には逃げ場がなかった。学年ごとに集まる子どもたちは決まった顔ぶれ。小学校、中学校、高校と同じメンバーがそのまま続く。
家は裕福ではなく、父も母も「遠くの高校なんて贅沢だ」と耳を貸さなかった。いつもの顔ぶれに囲まれたまま、同じ地獄が繰り返されていった。
だが、彼はどうにかその地獄から抜け出そうと、必死に勉強した。奨学金を借り、ようやく大学への進学を果たした。
「これで自由になれる。もう、誰にも怯える必要はない」
だが、それは幻想だった。
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春の柔らかな日差しがキャンパスを照らす頃、講義の選択もひと段落したある日のことだった。
廊下を歩いていた彼の耳に、馴染み深く、それでいて悪夢のような声が響く。
「おい、タダッシ!お前もここの大学かよ!」
体が飛び跳ねるように反応した。振り向けば、そこに立っていたのは高校時代、いや、小学校からずっと彼を虐め続けてきた男――関口ツトムだった。
金髪に染めた髪、顔中に開けられたピアス。だらしないTシャツにジーンズという見慣れた姿が目に入る。
「な、なんで、なんでお前がここにいるんだ……!」
心臓が音を立てて暴れ、手足がすくむ。ツトムの姿を目にしただけで、タダシの心はあっという間に過去へ引きずり戻されていった。
「なあ、久しぶりだな。ちょっとこっち来いよ」
ツトムに腕を掴まれ、タダシは引きずられるように校舎裏へと連れて行かれた。
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校舎裏に響いたのは、鈍い音と痛みだった。
ツトムの蹴りがタダシの顔面を襲い、口の中で歯が折れる音がした。血の味が広がり、頭がくらくらする。
「講義の課題、お前にやらせっから。連絡先、消しただろ?戻しとけよ」
ツトムは、地面にタバコを押し付けて消すと、まるで日常の挨拶のようにそう告げて去っていった。
地面に倒れ込んだタダシは、痛みで霞む視界の中、自分の拳を握りしめた。
「変われると思ったのに……何も変わらない」
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体を引きずるようにして下宿先のアパートへ向かう途中、街角で一人の男がチラシを配っていた。
見るからに洗練された姿。年齢は30代前半ほどだろうか。男は目ざとくタダシを見つけ、声をかけてきた。
「大学生? 専攻は?」
「……理学部です」
男はにっこりと微笑みながらチラシを差し出す。
「いいね。きっと君にぴったりだよ。このセミナー、人生を変えるきっかけになるかもしれない」
手渡されたチラシには、奇妙な文字が並んでいた。
『真の会 真実の眼セミナー』
『貴方の人生を変える』
『この世のあるべき姿を、私たちで変えよう』
怪しいと感じながらも、タダシの胸には奇妙な期待が芽生えていた。
「僕が求める世界……それが見つかるかもしれない」
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セミナーの始まり
指定されたホールに足を踏み入れると、そこには様々な年齢層の参加者がいた。
受付の女性に名前を伝え、配られた紙にはこう書かれていた。
『名前』
『貴方の求める真の世界とは?』
どこか不気味な空間に、タダシの心はざわつく。
「間に合った!」
ホールに響く元気な声に振り返ると、ボーイッシュな雰囲気の若い女性が駆け込んできた。短い髪を揺らしながら席を探す彼女の姿が、周囲の緊張を一瞬だけ和らげた。
彼女は隣に座ると、にっこり笑って声をかけた。
「初めの人? わからないことがあれば聞いてね」
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やがて、壇上に現れたのは一人の青年だった。
黒髪を整え、背広を見事に着こなしたその姿には、年齢を超えた威厳とカリスマが漂っていた。
彼の名はハイネ――真の会の代表。
その声は穏やかでありながら、言葉一つ一つが深く胸に響く力を持っていた。
「真……それは嘘偽りのない世界。その実現のため、私たちはここに集まりました」
ハイネの視線がタダシに向けられた瞬間、タダシは背筋が凍るような感覚を覚えた。
「イジメのない世界。素晴らしいですね。それを書いたのは……あなたですか?」
タダシの心に広がったのは、恥じらいと安堵、そしてハイネという人物への奇妙な憧れだった。
彼の言葉には、すべてを見透かしてしまうような力があった。
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セミナーが終わり、片づけを手伝いながらタダシは隣にいた女性と話を交わした。
「君、入会する気ある?」
気軽に問いかけられたその言葉に、タダシは曖昧に笑ってみせた。
だが心の奥では、既に答えは決まっていた。
「僕は……この場所で生まれ変われるかもしれない」
その時、彼はまだ知らなかった。
ハイネと真の会がもたらすものが、美しい仮面の裏に隠された恐怖そのものだということを――。