3-3
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「ねえ」
太陽が西に傾いて、辺りが色の濃い蜂蜜色に染まってきた頃、はす向かいの机から美月は僕を呼んだ。
「なに?」
「夜道、今日も来ないのかな」
「そうかもしれない」
彼女の遠い物思いにふけるような表情は、遠いところにいる恋人へ恋慕の情を募らせる少女のようないとしさが含まれていて、その幼い恋心は人へ伝播する類のものだった。近くにいる僕はその物思いの甘い熱に浮かされて、彼女の手でも握りたいような気持になった。
しかし彼女の心は僕には向けられたはいない。その恋心の先にあるのは、夜道の存在なのだ。それが少しだけ侘しい。ただ、そんな淡い恋に包まれた空間は、なんとも言えない情緒があって、この静かな会話が心地よくもあった。
その情緒の余韻が消えかけた頃、美月は言う。
「私の手首の話し、聞きたい?」
この穏やかな空気が彼女にそんな話しをさせる気になったのだろうか。僕はその先を聞いてみたいと思った。僕は今まで彼女の傷の美しさに憧れているだけで、その理由を知らなかった。彼女が不幸について話し、僕も自分の不幸について語る。そんな行為の中で、僕らの関係は少しだけ近づくことができるかもしれないと思っていたし、そうなれることを願っていた。だからこれは僕にとって望んでいた展開だった。
「聞かせてほしいな」
僕が言うと、美月は語りだす。
「私ね、昔いじめられてたの。階段から突き落とされたり、用具入れの中に閉じ込められたり、ノートを捨てられたり。それくらいのこと」
美月は痛々しく、それでいてやさしく笑う。
「でもね、誰が悪いっていうわけじゃなかったんだよ。私はそれによって生きづらくなったんじゃないんだ。たぶんそれをやった子たちだって生きづらかったんだよ。だから手首の傷はそれが原因じゃないんだ。高校受験、親との関係、気に入らないけどいじめたら自分が罰を受けなくちゃいけない子との友情ごっこ。みんなそんなことを抱えてた。逃がれられない『関係』への仕返しに、何も言わない、何もやり返さない私みたいな人間への架空の憎しみが必要だったんだよ。みんな生きづらかった。みんな被害者。だから誰も悪くないの」
僕は最低だから、その話しを聞いていて、彼女のことが前よりもっといとしくなった。階段から突き落とされたり、ノートを捨てられて、「それくらいのこと」って、泣くことすら奪われて。でもだからかわいそうっていうことではなくて、笑ってしまう彼女がいとおしかった。
「誰も悪くなにのにね。誰も悪くないのに思い出すと悲しくなっちゃうの。だから私の不幸はいじめられたことじゃない。敵がいなかったことだよ」
ニヒルに笑う彼女の細い体を抱きしめたい気持ちになった。僕は夜道じゃない。だから彼女の期待する抱擁なんてできないだろう。それでも君は一人じゃないっていう熱を伝えたかった。たぶんそれは僕の独りよがりだろう。自己満足なんだろう。それでもそうせずにはいられないような気持になった。
椅子から立ち上がって美月の傍へ寄る。抱きしめようと思って、やっぱりやめる。その選択はたぶん正しくないような気がして。
「なに、どうしたの?」
美月は僕の不審な行動に、今度はいつもの笑顔で言う。
「いや、抱きしめたくなってね」
夜道のように何のためらいもなく、素直な気持ちで言うことができた。偶然だけれど。
「ありがと」
その言葉に、僕の選択は正しかったと言われた気がして、晴れやかな気持ちになった。少しは夜道に近づけたかな、という感覚に、少しだけ自分を許してやりたいような気がした。
「それで手首、そうなっちゃったんだ」
「うん。そんなとこ。あとはごめんなさいって」
「それは何に対して?」
「なんにもできない自分に対して」
「そんなことないさ」、と言いたかった。「君の存在によって僕は生きている」と言いたかった。いや、本当に言ってしまおうか。そんなことを考えたけれど、やっぱりやめておくことにした。彼女の不幸を、悲しみを、今の僕には背負うことができないから。あれだけの不幸を僕は経験したことがない。だって僕の不幸は彼女の不幸に比べたら、笑ってしまうようなものだから。悲しみは、同じだけの悲しみを持った人にしか背負えない。何も分かっていないのに、分かったような顔をして人を救おうとするのは偽善にも似ている。
僕は夜道のように大切な人を亡くしたわけじゃない。美月のように酷いいじめを受けたわけでもない。どちらかと言えば恵まれているんだろう。それなのに「僕は不幸だ」と言っている。それはただのわがままかもしれない。
僕は美月と「一緒に泣く」ことができないのだ。できることと言えば、彼女の不幸のことを思って「独りよがりに泣く」ことくらいだ。僕が泣くのは不幸を共有して泣くのではなくて、彼女の話しを聞いて悲しくなった僕自身のために泣くということだ。自分本位な悲しみのために、半端ななぐさめはしてはいけないと思った。
だから、ただ「そっか」という言葉を、小さなため息のように吐くことが僕にできる唯一のことだった。
美月はいたずら気味に「傷、見たい?」と言う。僕は、「うん」と頷く。
彼女が控えめに袖をめくると、その裾からちらりと見える傷はゆうやけの中で、彼女のやさしさの分だけ輝いて存在していた。その傷は、彼女が誰かを許した証だ。その傷の分だけ、彼女がどれだけやさしいのかということを証明しているのだ。
「もう誰も許さなくていいんだよ」と言ってあげたいと同時に、僕は最低だから、初めてまじまじと見るそのやさしさの証があまりにもきれいで、賛美してしまいたくなる。