3-1
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次の日の部活、また夜道は来ていなかった。僕は美月と二人きりが気まずかった。六月の晴れた日のまどろみと風の詩があんまりにもやさしいから、僕はそのまどろみと詩の物思いに身を任せて、気まずさを忘れようとしていた。それでも忘れることは無理に近かった。
「ねえ、美月」という言葉が喉まで出かかって、またお腹の底に落ちていく。それを何度も繰り返す。昨日はあんなにひどいことを平然と言えたのに、なんで今日は言えないんだろうか。「昨日はごめん」と言ってしまえば簡単なのに。僕はそれができない。言ってしまえば、また彼女を傷つけるかもしれないということが怖かった。美月はきっと「何のこと?」と言うだろう。そう言われてしまえば、結局僕は「何でもない」と言うしかない。「夜道のことを好きだって言わせたこと」なんて言えば、また彼女は傷つくだろう。「何でもない」か、「傷つける」ことしか僕にはできないのだ。
どうしようもなくて、窓の外の雲の流れを追っている。六月は、僕らのことなんてお構いなしに、その存在感を増してきている。しばらくの沈黙が過ぎた頃、美月は「ねえ」と僕を呼ぶ。
それに応えようとすると、入り口の扉が開く音がした。
「二人ともいるか?」
顧問の宮下だった。ほとんど部室に顔を出さない彼を、僕らはよく知らない。部活の活動報告だってちゃんと出していたし、問題が起こったわけでもない。まあ美月と僕のすれ違いは問題だったけれど。でもそれは顧問が絡むような問題じゃない。だから僕は彼がわざわざ部室に顔を出したことで、何かあったのだろうかと疑った。美月も同じだったのだろう。「何かあったんですか?」と尋ねる。
「ちょっとな」
そう言うと、彼は手近にあった椅子に腰かけると、ゆっくりと言う。
「最近唐沢のことで変わったことなかったか?」
「夜道ですか?」
僕と美月は同時に聞き返した。
「その様子だと二人とも知らないみたいだな」
「それならいいんだ」と言って彼は席を立とうとしたから、僕は引き留める。
「待って下さい。夜道に何かあったのなら、僕らにも知る権利があるはずです。友人が、それもごく親しい友人のことなら、知って、できることなら何かをなすべきではないですか」
そう言うと、宮下は少し考えた後椅子に座りなおした。そして静かに語りだす。
「唐沢なんだけどな……」
僕は次の言葉を待ちながら、夜道の「物語になりたい」という言葉を思い出していた。それと何か関係があるのだろうかと。
「どうもたばこを吸っているらしいんだ」
「そんなこと……」と僕が言いかけると、「やってません!」と美月。
「夜道に限ってそんなことしません!」
「まあ、普通そう思うだろう。あいつは今まで模範的な生徒だったからな」
「それが分かっているのなら……」
「制服からたばこの匂いがするんだ。昨日はそれで呼び出してた」
「でもそれだけじゃ」という美月に宮下は「自分で認めてる」と冷たく告げた。
夜道の言っていた物語とはこのことなのだろうか、と僕は考える。そんな不良ぶった中学生みたいな行為がはたして物語になるのだろうか。分からない。分からないけれど、夜道がたばこを吸ったことを認めたのなら、それは事実なのだろう。しかし、彼の詩はもっと高貴なものだったはずだ。だからそこには何らかの理由が存在しているのだろう。
「そういえば」
「何か知ってるのか」
「彼、最近咳込むんです。もしかしたらたばこを吸っていたからかもしれません」
そのやり取りを聞いていた美月は僕の方を睨む。あえて夜道が不利になるようなことをどうしてわざわざ言うのかという目で。しかし僕は正直者だからそうしたわけじゃない。夜道の死を止めるために言ったのだ。事がおおやけになれば彼は注意されて見られる。そうなれば自殺するのを誰かが見つけて止めてくれる確率が上がるのではないかと考えた。死なないという確約をしなかった彼を止めるためには、これが最善だと考えたからだ。それと引き換えにまた美月の恨みを買ってしまったけれど、夜道が死ぬよりはいいと思った。
「いつ頃からだ」
「初めて気付いたのは四月です」
「そうか」
「それで」
僕は一番気になることを聞こうと思った。
「夜道は退学ですか?」
友情をとって咳込んでいたことを黙っておけば良かったのか、正義をとって言ってしまうのが良かったのか、僕には分からない。分からないけれど、友情とも正義とも違う、「死んでほしくない」という純粋な願いから僕は言ってしまった。言ってしまった後で、もし退学にでもなってしまったら、彼は学校の管轄から離れてしまう。そうなれば自殺を止めてくれる人が増えるのではないかという僕の期待は消えてしまう。これは賭けでもあった。
「今は様子を見ようということになっている。二人の言う通り、職員の間でもどうしてあいつが、ということになっている。そうしてしまったのは教師や大人の責任でもあるということになってな。とりあえず今度やったら停学。それでも反省が見られないようなら退学になるだろう」
そう言うと宮下は「他に何か気付いたことがあれば教えてくれ」という言葉を残して去っていった。
僕はほっとしていた。退学にならなかったことに。それは美月も同じだったようだけれど、まだ僕の方をまともに見ようとしなかった。
「ねえ」
視線をそらしたまま美月は言う。
「なんであんなこと言ったの?」
「咳のこと?」
彼女は「それしかないでしょう」という顔をしていた。僕は夜道の物語について、隠すべきじゃないと思った。ただ同じ失敗を繰り返さないように、いとこについては触れないようにした。