腑抜けと酒
月の薄明かり。
シーツの擦れる音。
彼女の吐息。
どくどくと高鳴る自身の鼓動。
これだけお膳立てされた完璧なシチュエーションの中、最も吐き出しづらい言葉を、俺は言わなければいけなかった。
「ごめん…やっぱり、できない……。」
「はい?」
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一時間ほど前に遡る。
アーリアの買い物が終わった後、彼女は雰囲気なんかお構いなしというように
「いつも通り、私の部屋でいいですよね? 今日は親はいないので。」
と言った。
部屋に着くと、彼女は自分でドレスのホックを外し始める。
「……自分で脱ぐのか。」
「私、相手に委ねるより……相手を焦らすほうが好きなので。」
彼女は唇に人差し指を当てて、悪戯っぽく微笑んだ。
極上の餌の前で待て、と言われた獣は、こんな気持ちなのだろうか。
すぐにでも彼女に貪りつきたいような焦燥感を理性で止めながら、ただ彼女を見つめる。
ゆっくりと、その先を期待をさせるように服を脱ぐ彼女から、目が離せない。
衣擦れの音にすら、欲情する。
窓からの薄明かりに照らされた身体は艶かしく俺を誘っているようだった。
「公爵様……どうぞ?」
彼女はベッドに横たわると、自身の胸や脚の肌に指を滑らせた。
その姿がとても扇情的にみえて、自分の喉がこくりと鳴る。
意を決して服を脱いでベッドに上がり、彼女に覆い被さった。
ーーーそして、冒頭に戻るのである。
ベッドの中、下着姿のアーリア、彼女の甘い匂い。
この状況で、俺は彼女に触れることさえできずにいる。
「…ここは臨戦態勢みたいなんですけど。」
「ゔぁっ!?」
彼女は訝しげに、俺にゆっくりと手を伸ばし、それをぎゅ、と握った。
咄嗟に変な声が出る。
「そういうことをするなよ!」
「だって、おかしいじゃないですか。 公爵様が言ったんですよ? 抱かせてくれって。 据え膳食わぬは男の恥って聞いたことないですか?」
そりゃ、男の本能としては抱きたい。
下半身も戦闘準備は完了している。
だけど、抱いてしまったらーーー
もう、この関係が終わってしまうみたいで。
彼女に二度と、触れられなくなってしまいそうで。
……いや、違うだろ。
俺は、この不毛な関係を終わらせ、自分の執着にけじめをつけるために、彼女を抱きたいと思ったんだ。
覚悟を決めろ、俺!
「ーーー……もういいです。 冷めました。」
「えっ」
気合を入れて彼女に触ろうとした手が空を切る。
アーリアは近くにあったシーツを手繰り寄せ、身体を隠して冷ややかな目をこちらに向けていた。
「あの……アーリア………?」
「腑抜け。 意気地なし。 用がないならさっさと出て行ってください。」
脱ぎ捨ててあった服を俺の顔面に叩きつけ、挙句にシーツの中から伸びる脚に蹴り落とされた。
腑抜け。 意気地なし。
ベッドから落ちて床に顔面でダイブしている俺に、これ以上ないくらいお似合いの言葉だった。
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「ーーー…それで、魂抜けたような顔したまま服着て屋敷出て馬車にも乗らずに歩いて酒場まで来た、と。」
アーサーは、がはははは!と腹を押さえながら笑った。
「節操のないお前があれだけ時間かけてまだヤってなかったことにも驚きだけど……高い宝石プレゼントさせておいて何もさせないうちの妹には驚いたなぁ! 引きこもりで男っ気なかったのに、男に貢がせる才能なんてあったのか!」
友人が自分の妹のことでこれだけ悩んでいるというのに、よくこれだけ爆笑できるものだ。
悪態のひとつくらい吐いてやりたいが、そんな気力もない。
「もう、酒で全てを忘れたい……。」
度数の高いアルコールを頼んで一気に流し込む。
喉がかっと焼けるように熱くなって、何故だか鼻にもつんと来た。
「頼んだ俺が言うのもなんだけど………お前、もう他の女に乗り換えれば?」
ひとしきり笑って気が済んだのか、俺の隣で酒を煽りながら、アーサーが言う。
「夜会でお会いするたびにマーガレット嬢から、『夜会で抜け出す約束の埋め合わせてしてくださると言ってから公爵様が社交に現れない』って愚痴聞かされてるし。」
「ああ……そんなこと、言ったっけ……。」
正直、その場を切り抜けるための嘘だったんだが……。
アーサーには言ってないけれど、まだ他の女に勃たない。
不能の噂を不用意に広めたくはなかった。
「適当にあしらっておいてくれよ。 今は他の女は必要ない。」
「なんでアーリアにそこまでこだわるのかねえ…。 お前の顔と爵位に寄ってくる女なんて、ごまんといるだろ。」
「知るか。 ……どうしてかなんて、俺が聞きたいよ。」
恋愛なんて当たり前にしてきた。
好きな女だっていたし、遊びじゃない付き合いもそれなりにしてきたつもりだった。
だけど、もし仮に、万が一、俺はアーリアのことが好きなのであったとしても、今まで付き合ってきた女性達へ抱いた感情と違いがありすぎる。
今までの女性達に対しては、どこか余裕があった。
他の男に誘われたと言われても、俺よりいい男がいるはずがない、どうせすぐ戻ってくるだろうと軽視した。
大体の女は本当に戻ってきたし、俺のような軽い男とは将来が見えないと他の男と結婚した女も、夜会などで見かけるたびに熱の篭った視線を送ってくる。
結局どの女も、惚れさせてしまえばこちらのものだった。
ーーーなのに、どうしてもアーリアは手に入らない。
何度も肌に触れたはずなのにどこかへすり抜けていくような彼女を、どこにも行けないよう縛りつけておきたい。
他の男の話題を出されれば言いようのない焦燥感に駆られるし、どんなに誠実で優しい男よりも俺を選んで欲しい。
時折見せてくれる楽しげな笑顔を、一番近くで見つめるのは俺でありたい。
「あ゛あ゛………」
彼女の笑顔を思い浮かべて、頭を抱える。
執着か恋かなんて、もう知ったことか。
彼女が欲しい。
誰にも渡したくない。
それだけで、もう十分じゃないか。
「変な声出すなよ。 ……なんかお前、初恋拗らせた女の子みたいになってるじゃん。 女々しい〜。」
「もう、好きに言ってくれ……。」
自分が優位で楽な恋愛しかしてこなかった俺への罰だ。
むしろ、これまで俺がしてきたのは恋愛じゃなかったのかもしれない。
これだけ狂おしい気持ちを、誰かに心を支配されているような感覚を知らなかった。
百戦錬磨だと自負していた自分が惨めになってくる。
「もう……自分が恥ずかしくなってきた……。」
「おお、可哀想な俺の親友。 まあ、苦しめてるの俺の妹なんだけど!」
アーサーは心底楽しげに笑う。
「こういう時は飲むのが一番だぜ! 親友の初恋失恋にカンパーイ! さあ、飲め飲め〜!!」
「まだ告白もしてねえよ! 勝手に失恋したことにするな!」
告白することも、抱くことも出来ない腑抜けだけど、他人に揶揄われるのは不快だ。
告白も、抱くことも………いっそ、酒の勢いで出来てしまえばいいのに。
そんなことを考えながら、注がれるがままに酒を流し込んだ。
不能のことも、彼女に冷たい目で見られたことも、……彼女といて幸せだったことも、全て忘れられる気がした。
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頭が痛い。
完全に飲み過ぎた。
もう、何を何杯飲んだかも、どこで飲んでいたのかも覚えていない。
途中で店を変えた気がするが、どこに移動したのかわからない。
「あ゛〜………………あ……?」
重い頭を動かして周りを見てるが、見慣れない部屋だった。
狭い部屋に大きめのベッドがひとつと、ドレッサーとクローゼットがあるだけの部屋。
どうやら酔い潰れて、どこかの宿屋に入ったようだ。
部屋を見回した後、ふとベッドについた右手のあたりを見るとそこには
長い黒髪が見えた。
「……は?」
それはもぞ、と動き出し、ベッドの中からむくりと出てくる。
「ああ……起きたのね、公爵閣下。」
裸の女はシーツで身体を隠し、未だ頭の回転が追いついていない俺に追い討ちをかけるようにこう言った。
「昨夜は、とってもよかったわよ。」、と。