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1-7 東京に戻ってからは退学の準備で忙しく

東京に戻ってからは退学の準備で忙しく、正月深夜の酒の席での話など、すっかり忘れてしまっていた。


定年間際の年齢の私立大学の老教授は、休みがちで実家へ良く逃げ帰る妙な癖があるとは言え、それなりに従順で良質な労働力だった僕が大学院を辞めると伝えると、難色を示した。

全国的に有名な私立大学の教授の地位に就いている人間としては極めて非論理的な説得をしてくるのには辟易したが、数日に渡る不毛なやりとりの後に、退学の意志が固いことは納得してもらえた。

まるで契約終了直前の奉公人に対する嫌がらせかのように、膨大な量の雑用が突然降って沸いて出たのには閉口したが、それも2月の末までには済ませた。


3月に入ると東京を引き払う準備に取り掛かった。

と言っても、収入に比して不釣り合いな単価と量の蔵書を知り合いや後輩や古本屋に売り払い、数少ない家財道具の処分の目途をつけるのが少し厄介だったくらいのもので、準備そのものは大したことはなかった。

整理すべき人間関係も特になければ、実家には連れていけない猫の引き受け手を探すような手間もない。

それは、僕が東京という街に、まったく根を張れていなかったことの証左だった。


東京で過ごした9年というのはかなり長い時間だったが、その間に僕がしていたのは大学と自分の部屋との往復ばかりで、この街で誰かとどこに行って何をしたという記憶がほとんどなかった。

近所のコンビニとスーパー、最寄りのバス停と駅。

春になると桜を咲かせる木が何本かある公園のベンチに座って、暖かい時期にはビールを飲み、寒い季節にはコーヒーを飲んだくらいの思い出しかない。


逆にどうしても忘れらないのは、ゼミでの教授や先輩方からの容赦ない批判や、フランス語で書かれた必読文献の何度読んでも理解できない訳文や、そんなのばっかりだ。

それ以外で印象的なのは、東京から実家に戻るための交通手段の出発地点の風景だった。

南口にバスターミナルができる前の新宿西口スバルビル前や、改修が終わる前の東京駅の八重洲口側。

どんなランドマークや人の集まる街並みよりも品川駅や東京駅の新幹線のホームに東京らしさを感じる僕は、本当の意味でこの街には住めてはいなかったのだろう。



実家の最寄りの駅に着いて、姉の旦那さんが運転する車に乗り込んだのは夜の8時過ぎだった。

残業をこなした後にわざわざ僕を迎えに来てくれた姉の旦那さんに僕がお礼を言うと、彼は困ったように笑った。


「お礼を言いたいのはこっちの方だよ。

東亀さんが帰ってくるのを、お義父さんもお義母さんも首を長くして待ってたんだから。」

「え、それって、どういうことですか?」

「うーん、どう言ったらいいのかな。おうちに着いたらとりあえず事情がわかると思うよ。」


駅から歩いて30分の立地にある実家まで車で送ってもらって、田んぼの横に建っている家に到着したら、驚くべきことに両親と姉の子どもが僕の帰りをわざわざ外で待っていた。


「そんなに歓迎されるような帰省でもないんだけど。

故郷に錦を飾るわけでもあるまいし。」


花冷えという言葉がしっくり来るほど空気が冷える田舎の夜、わざわざ厚着してまで外に出て、三男坊を出迎えるというのはやりすぎだった。


「東亀、そういうんじゃないんだよ。

早く家の中に入って。

もう待ちくたびれてるから。」

「待ちくたびれてるって? 

まさか兄さんたちまで実家に来てるの?」

「いいから早く。」


急かされて実家の居間に入ると、そこにいたのは青い顔をした二人の兄と姉、そしてビールを飲んでいる月見之介だった。

上の兄の奥さんと子どもちゃんは台所の隅っこの方で小さくなっている。

兄の子である幼稚園児の甥っ子は、普段は寝ているはずであろうこの時間まで起きているせいで眠そうなだけではなく、何かとても恐ろしいものを見た後のような疲労感をその表情に滲ませていた。

兄には申し訳ないが、誤解を恐れずに言うと、嵐を呼ぶ幼稚園児から太々しさとバイタリティを取り除いて、人生の浮き沈みに心を折られたおっさんみたいな哀愁を付け足したような印象を受けた。


「えっと、これってどういう―」

「遅かったな、東亀よ。」


待たせているつもりなかった相手から、恨みがましく遅いと言われる筋合いはないのだが、分家の三男坊の僕が口にする理屈は月見之介には通じなかった。


「一体どうしたんですか?

本家には明後日くらいに顔を出そうかと思っていたんですが。」

「明後日では遅すぎると思ってこっちから来てやったのだ。

ありがたく思え。」

「遅すぎるとおっしゃいますと?

何か急ぎの要件がありましたっけ?

法事は今年はなかったと記憶してますが。」

「東亀よ、(さえず)るな。

俺もおまえも法事なんか気が向いた時にしか出たことがなかっただろう。」

「いえ、決して、そんなことは―」

「言い訳はいい。

とりあえず酒を飲むぞ。」


荷ほどきをする間もなく、月見之介が缶ビールを僕に渡してきたので、とりあえず大人しくプルタブを引いて口をつけた。

月見之介の注意が僕に向いた途端、上の兄の奥さんと子どもちゃんがこっそりと居間から出ていった。

2人がいなくなって空いた台所の端っこのスペースに、ダイニングテーブルに座っていた姉と下の兄が、懸命にさりげなさを装って移動する。

どうやら僕を生贄にして、全員が順次緊急避難していく腹積もりのようだった。

一番上の兄の顔を見たら、兄は月見之介の手元をやけに熱心に見ていた。

きっと必死になって僕と目を合わせまいとしているのだろう。


「で、一体どうしたんですか?」

「とぼけるな、東亀よ。

覚えてないとは言わせんぞ。」


缶の中身を一息に3分の1ほど空けた後に僕が聞くと、月見之介から要領の得ない回答が帰ってくる。


「ちょっと、申し訳ないんですが、本当に何のことか覚えていないんですが。」

「ついこの前のことも覚えていないとは、この先が思いやられるな。」

「いえ、この先も何も、話の先が見えてこないので、何が何だか。」


忍者のように足音のしない歩き方で、姉と下の兄が居間から出ていく。

それに併せて、示し合わせたかのように上の兄が煙草でも吸ってくると言って立ち上がり、そのまま席を外した。


「旅の話だ。」

「旅?」

「世界中の美女を抱きまくるのだ。」

「世界中の美女?」

「旅程を作らせてやると言っただろう。

本当に覚えてないのか?」

「おっしゃってる意味が良くわからないのですが。」

「世界一周西回りルートがおすすめだとか言っていただろう。」

「それは、確かに言いましたが。」

「東亀よ、喜べ、来週出発だ。」

「来週? どこへ?」

「それをおまえが決めるんだろうが。

東亀よ、おまえは本当にわかってないな。

大学に9年も通ってそんな体たらくじゃ、東京を引き払ってきて正解だったのだろうな。」


控えめに言って、月見之介の支離滅裂な論理の方が、大学院で僕の研究していたテーマよりも難解なように感じられた。

取り組んでいた研究テーマは不明点だらけだったが、少なくとも因果関係や脈絡の切れ端らしきものがそこにはあった。


「旅をしようという人が、最終目的地ならまだしも、この次に行く場所すら決めていない人に旅行に誘われるというのは、ちょっと僕の人生の予定なかったもので。」

「良かったな、東亀よ。

予定通りの人生なんてつまらんぞ。」


予定の立てようのない人生しか送ったことのない人間に言われたくない台詞(せりふ)だった。

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