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1-2 奇妙なもので、大学院生というのは

奇妙なもので、大学院生というのはかなり時間の融通の利く身分だった。


分家の三男坊におしつけられた一族のトラブルメーカーは、その後も順調に面倒を起こし続けたのだが、その都度僕が地元に戻ってきて、処置をしてきた。

下手に金のある家だったせいか、月見之介のフォローにかかるお金は全て精算され、僕には金一封まで出た。

海外旅行を途中で切り上げることも一度ならずあったのだが、本家は一貫して金に糸目をつけなかった。


こうした状況を鑑みてなのか、僕がまったく取れそうにない博士号を諦めて、そろそろ大学院を辞めようかと思っているという話を両親にしたら、本家の当主から電話がかかってきて、交通費を出すから一度飯でも食いに来いと言われた。


分家筋にあたる両親の顔を立てる手前もあり、元旦に年始の挨拶に行くという家族と一緒に本家に顔を出したところ、有無を言わさずに床の間の上座に座らされ、お膳に海の幸山の幸が満載の夕飯を出された。

横には本家のお兄さまお姉さま方がつき、代わる代わる酌をされ、お願いだから博士号取得を諦めないでくれと説かれたのである。

そんなに月見之介の面倒を見るのが嫌なのであれば、なおさら他人に押し付けるべきではないと思うのだが、どうやら当主の薫陶がすこぶる著しいようで、全員一様に博士課程残留を推してくるのは滑稽ですらあった。


目の端には、部屋の隅っこで静かにしている両親兄弟その配偶者、そして僕の甥っ子・姪っ子たちの姿が入っていたのだが、彼らの前には一族で二番目に偉い当主の嫁が黙って座っていた。

一族から大真面目に大奥(おおおく)さまと呼ばれている彼女は一言も喋らずにいて、それを見ながら僕の家族は引きつり気味の笑みを顔に貼り付けて、青い顔で押し黙っている。


家庭内(ドメスティック)の概念が一族郎党を含むのなら、もはや立派な精神的DVだった。

小学校一年生の姪っ子の怯えた表情に一抹の不安を覚えつつ、本家の皆さまの激励の形を借りた脅迫をのらりくらりとかわし続けていたところ、突然、その場に現れるとは思ってみなかった人物の声がした。


「これこれは、本家も分家もお揃いのようで。

新年の挨拶にしても、随分ご熱心なことで。」


引き戸と引き戸の隙間を潜り抜けて、ダウンジャケットのジッパーを下げながら話す月見之介の声は、床の間全体によく通った。

月見之介はそのまま誰にはばかることもなく、どたどたと大きな足音をさせながら僕のところにやってきた。

ダウンジャケットを脱いで、体を折り曲げ、僕の目の前のお膳から素手で数の子を奪い取り、さらには適当に見繕った盃に日本酒を注いだかと思うと、僕と彼の膝と膝が触れ合うくらいの距離にどかりと座って胡坐をかいた。


「久しぶりだな、東亀よ。

また随分珍しいな。

身の程もわきまえず、叔父さん叔母さんや、兄さん姉さんを周りに侍らせて、随分楽しそうに飲んでいるようだが、一体何の話をしているんだ?」


それまでかしましかった本家筋のお歴々は押し黙った。

どうやら本家の人間も月見之介の登場は予想外だったようだ。

事の当事者には何も知らせないままに現状維持を図ろうというのが本家側の意図らしかった。


「お久しぶりです、月見之介さん。

と言っても先々週に会いましたけどね。

覚えてませんか? 

西町のキャバレーで潰れていた月見之介さんを回収したの、僕なんですが。」

「そんなくだらんことは覚えていない。

紳士は払った税金と寝た女の話はしないものだからな。」

「酔いつぶれた場所と、未払いの酒代くらいは覚えているべきかとは思うんですけどね。」

「細かいことは気にするな、東亀よ。

それで、何だと言うのだ?」

「実は、そろそろ大学院を切り上げようかと思っているんですよ。」

「何?

それはどういう―」


「いやいや、もったいないよ、東亀(とうき)っちゃん!」


僕の言葉に月見之介が何か言いかけたところ、本家の叔母さまだかお姉さまだかが無理やり割り込んだ。

ちなみに、僕の覚えている限り、彼女が僕のことをそんな風に呼んだことはそれまで一度もなかった。


「この間、ご当主さまだって、東亀っちゃんが博士になったら一族の長としても鼻が高いって言ってたんだから。

こんな中途半端なところで諦めないで、しっかりものにした方が絶対いいよ!!」

「そう言っていただけるのはありがたいんですけどね、博士号取得の目途が立ちそうもないんですよ。

研究も全くと言っていいほど進んでいないんです。」

「そりゃそんだけやりがいがあるってことなんだろうよ。

何の研究してるんだか、その研究に何の意味があるんだか、俺には理解できないけどさ、東亀がここであきらめたら、今までの努力が水の泡になっちまうんだぜ? 

そりゃやるせなかろうよ。」


一聴する限りでは親身に聞こえるが、その実はなはだ失礼な本家のお兄さんのお言葉に、なんて切り返すべきかと考えながら盃の中の日本酒を舐めていると、月見之介が言った。


「東亀よ、嫌なら辞めてしまえ。

いつも自分の直観を信じて、心に正直に生きるんだ。

俺もそうしてきたが、今まで何の問題もなかったぞ。」


月見之介の向こうにいた本家の皆さんが一様に、突っ込みたいけど声が出ないお笑い芸人みたいな顔でこっちを見た。

出来も頭も悪い親戚を持つと大変である。


「そうですね。

皆さんがいろいろご忠告くださるのはありがたいんですが、そろそろ年貢の納め時かと。

成人式の後くらいに指導教授にも話をしてくるつもりです。

辞める分にはすぐなんですよ、博士課程ってのは。

始めるのはなかなか大変なんですけどね。」

「まあ、何年も取り組んできたことを途中で中断するというのは、大きな決断であることに違いないからな。

東亀も大変だったろう。

まあ、飲めよ。

今日は特別に俺が朝までつきあってやる。」

「月見之介さんにそう言ってもらえるのは嬉しいですね。

皆さんもそんなに心配なさらず。

僕の方はなんとかしますし、本家には迷惑かけませんから。」


そう言う僕の方を見るお歴々の表情は、既に十分迷惑そうだった。

そのさらに向こう、僕の家族に睨みを利かせながらこちらの様子を伺っていた大奥さまが苦々しげに目元と口元を歪めていた。

それを見て、ちょっとだけいい気味だと思ったのは、ここだけの秘密である。

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