2-12 女人街から少し東に行った先の雑居ビルの地下に
女人街から少し東に行った先の雑居ビルの地下にクラフトビールを出す店がある。
西海岸風とでもいうのか、木材を活かした、カジュアルだけれどリラックスできる雰囲気の店で、最近気に入っていて良く行くのだと、リタは店のアピールをしっかりしながら、待ち合わせ場所を指定してくれた。
結構しっかりご飯を食べれる店だから、腹を空かせて来いと彼女は言っていたが、昼の遅い時間に食べたタンドリーチキンは夜の7時までに消化しきれるものではなかった。
その結果、合流した直後、メニューを見てどんどん肉々しい注文を通していくリタを横目で見ながらげんなりしてしまった。
「お腹空かしてきてって言ったつもりだったんだけど、何かあったの?」
げんなりしている表情に気が付いたリタから気づかいに溢れるコメントをもらって僕は苦笑した。
「遅くて重い昼食を食べた直後にお誘いをもらったんじゃ、お腹の空かしようもないよ。
間が悪かっただけで、何か事情があったり、わざと何か食べてきたわけじゃないんだ。」
「それは残念。
この店、何食べても美味しいんだけど注文出てくるまでに結構時間かかるし、それに今からもっと混むから、今のうちにたくさん注文した方がいいんだ。」
「結構頼んだよね?」
「2人で食べるつもりだったからね。」
「いや、食べるけど。」
「じゃあ1人で全部食べるよりましか。
ま、でも、大丈夫でしょ、多分。」
そんな風に話すリタの口調には湿っぽいところがなかった。
月見之介との間に何かあったにしても、それほど後に引きずるような深刻なことでもなかったのかもしれないと、僕は楽観視し始める。
機嫌も悪くなさそうで、冗談も口にするリタを見ていると、何のために旺角まで呼び出されたのか忘れそうになった。
だけど、それもテーブルにビールが届いて、お互いに一口目を口にするまでの話だった。
「で、マカオの話なんだけど。」
IPA特有の強い苦みの中に微かに感じられる柑橘系の風味を楽しんでいた僕の心の準備などお構いなく、リタは言った。
「ちょっと、WhatsAppで伝えるのにはきつい話でさ。
こうして会って話したいっていうのは、そういうことで。」
リタの声が、IPAの苦みを絞り出したようなトーンだったのが不思議だった。
初めて会った時に話していた語尾の伸びたのんびりした日本語の面影も、電話口で話した時の甘く舌っ足らずな英語の響きもそこにはなかった。
「そういうこと、ね。
まあ、何があったのか聞いておきたいっていうのはあるかな。
後で損害賠償でも起こされたら目も当てられないしね。
トラブルの芽は早めに摘んでおきたい。」
リタはヴァイツェンに口をつけ、少し考えるような表情で僕を見る。
どこから話したものか考えているというよりは、どこまで本当のことを話すべきかを検討しているような表情だった。
まだアルコールに酔っていない彼女の目は真っすぐで、それを見ていると昼から飲んでいる自分が妙に気恥ずかしくなった。
そんな僕の考えをよそに、リタは口を開いた。
「マカオに行って何日かは楽しかったんだ。
東亀にも、WhatsAppで写真送ったよね?」
「あのラブラブっぷりを見せつけるかのようなやつな。
ジョン・レノンとオノ・ヨーコも真っ青の。
ハネムーン旅行かと思った。」
「やめてよ、恥ずかしい。」
「見せつけられたこっちの台詞だよ。」
店員がフライドポテトと小ぶりのフライドチキンを持って僕らのテーブルにやってきて、手際良く料理を置いていく。
周りを見てみると、僕らくらいの若い世代がほとんどの客層で、さっきからひっきりなしに人が入ってくる。
今からもっと混むという、リタの話も誇張ではないようだった。
僕が周囲を見ている間にリタは早速フライドチキンにかぶりついていた。
手をつけないのも悪いかと思い、僕もフライドポテトをつまんでみる。
何故か甘酸っぱい味がしたが、それがまたちょうどよい塩加減とぴったりだった。
「で、まあ、何日かは良かったんだよ。
あいつもまあまあ紳士的で、金払いもいいし、顔もまあ悪くないし、十分及第点かなって思ってた。」
「あいつね。
心理的な距離も随分縮んだみたいだね。」
「そりゃ2人だけで何日も旅行に行くんだから、すごく仲良くなるか、その逆かのどっちかじゃない?
エッグタルト食べたり、買い物したりして過ごして、朝から晩までずっと一緒なんだよ?」
「確かに、それはそうかもね。
でも、マカオだけで長期滞在って、観光だけじゃ間が持たなくないか?」
「そう、まさに、そう。
で、三日目くらいに、気分転換でカジノに行ってみようって話になった。
結果的にはこれが良くなかったんだよね。」
空になったヴァイツェンの瓶を持ち上げながら、リタは言った。
彼女が飲み物を追加注文できるよう、僕はウェイターを呼び止めた。
リタはすかさず白ビールとピザを頼んだ。
本当にお腹が空いているのだろう。
「まずはMGMに行ってみようってことで、そこでスロットマシンをしたんだ。
2人で500香港ドルずつチップに交換して、一番レートの低いマシンで遊んでみた。
でも、500香港ドルじゃあっという間だよね。
100回もスロットを回して、気が付いたらお金がなくなってた。
お互い似たような負けっぷりで、まあこんなもんだよねって言いあって、笑いながら休憩がてら併設されてるバーでお酒を飲んだんだ。」
2人は酒を飲み終わった後、今度は別のホテルのカジノに行き、やはり500香港ドルをスロットマシンに賭けて遊んだ。
「そしたら、あたしがジャックポットを引いちゃって。」
「ジャックポット?
大当たりってこと?」
「そう。
500香港ドルが5000香港ドルに化けて、それからもう一回軽く当たりが出て、合計で8000香港ドル。」
ここ10年の平均レートで言えば、日本円だと10万円を超える金額だ。
「完全にビギナーズラックだよね。
でも、横で見てたあいつ、なんか勘違いしちゃってさ。」
「あー、それはダメなパターンだ。」
「ギャンブル中毒者が、今まさに底なし沼に足を踏み入れた瞬間を見た気分だった。
そこから先は、もう目も当てられなかったよ。
クレジットカードのショッピング枠で、5000香港ドルずつチップを買って、プログレッシブ・ジャックポット狙いで高レート・ラインMAXでスロット回して大負けして、ブラックジャックで絵柄のカードが2枚揃ってるのにさらにヒットしてバストして、バカラで考えなしにタイにベットして当たり前のようにチップを溶かしていく。
カジノの胴元でも接待しに来たのかってくらいの見事な負けっぷりで、あたし笑っちゃったんだ。」
「あー、それは…」
月見之介のようないいとこ坊への接し方として、それはダメなパターンの典型例である。
リタは肩を竦めた。
「まあ、笑うべきじゃなかったよね。
少なくとも、わからないように陰でこっそり笑うとかするべきだった。
でも、負けて心底悔しがってるのを見て笑っちゃった。
そしたらあいつ、怒りだしちゃって。
カジノの真ん中で露骨に不機嫌な顔で、先にホテルの部屋に一人で戻ってろって言うの。
大声こそ出してないものの、あまりにもわかりやすく怒ってるから、周りの人たちから注目を集めちゃって。」
「そんなことしてたらセキュリティが来て、カジノから退場させられるもんじゃないの?」
「そう、東亀の言う通り。
セキュリティが来て、私と睨み合うあいつに声かけて、ちょっと事務所まで、なんて話になって連れていかれて。
私は広東語でちょっと事情を聞かれただけでお咎めなし。
それでも、変に人目を引いちゃったし、もうウィンのカジノにはいられないから、おとなしくマンダリン・オリエンタルに戻ったんだ。
自分でも気が付いてなかったけど、何だか色々あって疲れちゃって、熱いシャワー浴びて軽い白ワインをちょっと飲んで寝たんだ。
そしたら、夜中にフロントから部屋の備え付けの電話に連絡があって、『ロビーでお連れ様がお待ちです』って呼び出しがかかったの。」
「『お連れ様』、ね。」
「ロビーに降りていったら、顔を腫らしたあいつが憮然とした顔で椅子に座ってた。
レセプションの人にどういう状況なのか聞いたら、何言ってるのかわからなかったけど、とにかく電話しろってしつこかったから、電話してしまったって、謝られた。
で、まあ顔を合わせて、あれから何があったのか聞こうとしたら、あたしがルームキーを持ってたから部屋に入れなかったって、ぼそぼそ文句を言うんだ。
ルームキーは1人で一枚ずつ渡されたんだけど、カジノに行くまでずっとあたしと一緒に行動してたから、持って歩いてなかったみたいで。」
「月見之介らしい話だな。」
「まあね。
で、まあとにかく部屋に戻ろうってことになって、心配そうな目でこっちみてるレセプションの人にお礼を言って、自分たちの部屋に戻った。
とりあえず落ち着かせようと思って、椅子に座らせて、白ワインの残りを飲ませようとしたら、後ろから抱きつかれてさ。」
「あー、それは…」
「やめてって言ったんだけど、あいつ、聞かないから、ちょっと痛い目見せたやったんだ。」
「え、それって?」
「腕を絡めとって後ろに回り込んで蹴りを2発。」
「え?」
「あたしの日本語の先生、空手と柔道と合気道と護身術教えてる人だったんだ。」
「あ、うん。」
「で、まあ、結構いいのが入っちゃって。」
「うん。」
「あいつ泣いちゃって。」
「うん。」
「まあ泣き疲れて寝ちゃったんだけど、それからはもう一言も話さないで、塞ぎこんじゃって。」
「うん。」
「日中も朝早くから1人でどっかに出かけちゃうから、まあこっちも仕方ないって割り切って、ホテルのサービスでエステに入り浸って、最終日まで時間を潰した。
本当に、酷い旅行だったよ。」
そこまで話したところで、ウェイターがピザと白ビールを運んできた。
今聞いた話をどう咀嚼したらいいのかわからずにぼんやりしている僕を後目に、リタは話すことですっきりした腹の中を満たすかのように、ピザを頬張り、白ビールの瓶をあっという間に空にした。




