1-1 旅人の間でよく言われる金言に
旅人の間でよく言われる金言に、世界一周するならアジアから回れというのがある。
東南アジアは比較的治安もいいし旅もしやすいので、そこで旅に慣れてから、インドへ、そしてさらにその西へ行けという意味だ。
有名なノンフィクション作家の旅行記のルートも、世界一周こそしていないものの西回りだったし、それに影響されてバックパッカーになった諸先輩方の多くもやはり西へ向かって旅をしている。
昔バックパックを背負って、あっちこっち旅行していた僕にとっても、無条件に頷ける金言だ。
日本からまずは韓国か香港へ行き、中国本土からシルクロードに抜けるのもいい。
ベトナム、ラオス、カンボジア、タイと南下していき、それからインドを目指すのも楽しい。
どちらも旅がしやすく、物価もそこまで高くないし、食べ物の味も馴染みがある。
旅慣れないうちから、いきなり南北アメリカ大陸へ足を踏み入れて、胃腸への負担の大きいイモと肉と豆と脂を食べて続けて、お腹を壊すよりずっと賢明な判断だ。
月見之介にそう伝えたところ、彼はそんな時間はないと答えた。
「いいか、東亀よ、よく聞け。
俺には時間がないのだ。
一刻も早く世界中の美女を抱かねばならんのだ。
世界が俺を待っているのだ。
東南アジアなどに寄り道している暇はないのだ。」
東南アジアに大変失礼な物言いである。
日本アセアンセンターからクレームが来てもおかしくないようなコメントを平気で口にする浮世月見之介は、田舎の地主の一族の家のお坊ちゃんで、分家の三男坊にあたる僕からすれば、本家筋の親戚にあたる。
本来であれば、一顧だにされないか、ぼろ雑巾のようにこき使われるはずの僕が、月見之介とこんな距離感で話をできるような関係なのは、ひとえに僕と月見之介が一族の中で一番年が近いからである。
と言っても、月見之介と僕は7つ年が離れている。
おかげで同じ小学校に通わなくて済んだのは幸運だった。
中学校に上がった時は、学校の先生方から、月見之介の親戚だということで、かなり警戒された。
生徒指導の先生からは、保護者を連れて学校とPTAにクレームを入れるのはほどほどにしてくれと言われた。
体育の先生からは、気に入らない授業の内容があったら、適当なところで自習していてくれて構わないと言われた。
よほど根性がなく、性根の曲がって、意地クソの悪い生徒だったことがうかがい知れるコメントだったと、今でも思う。
月見之介のわがままな性格とヘタレな性分は、そのころから約20年経つ今もまったく変わっていない。
酒を飲んでいるにしても、コンプライアンス遵守が叫ばれる昨今、田舎の非上場中小企業とはいえ、会社役員の発言としては議論を呼びそうなことを平気で言うのである。
「さっきも言ったが、東亀よ。
俺は今年でもう34だ、わかるか?」
お歳暮でもらった地元の名酒を飲んで顔を真っ赤にした月見之介は、さっぱり要領の得ないことをさっきから繰り返している。
「34っていうのは、あれだ、もう若者じゃない。
若くないんだ。
若くないのに生きているなんて、あまりにも辛すぎる。
耐えられない。
そう思わんか、東亀よ。」
「高齢化が世界一進んでいる日本では人口の4分の1が60代以上だそうですが、皆さんしゃんしゃんと生きてらっしゃいますよ。」
「やつらは恥を知らんのだ。」
「いやいやいや、そんなことないでしょうよ。
そんなこと言って、ご当主様に聞かれたら大変なことになりますよ。
ご当主様、もう今年70歳になるんですから。」
恥を知らないのは月見之介の方だと言えたらどんなに楽だろうか。
そんな風に思うことの連続だったこの9年。
僕は昔から月見之介担当の分家の子として扱われてきた。
分家の人間は幼い頃から、本家の皆さんの対応を身体に叩き込まれる。
本家の人間が恥ずかしい思いをしないように、公衆の面前ではそれとなく立ててやる。
同じ理由で、本家の人間がみっともないことをしでかしたらさりげなくフォローを入れて、あとでやんわりと指摘する。
高校を卒業するまでは年に何度かある家の用事でしか会うことがなかったので、その時だけ対応していればよかった。
だが、ちょうど僕が大学に通い始めた頃、月見之介はそれまで本家のごり押しでコネ入社した地元の不動産会社を辞めて、日がな一日ふらふらするようになった。
大学生になって多少はまじめに勉強してみようと思っていた僕は、まだ学校が始まって間もない4月末、本家の当主、つまり月見之介の父親に呼び出された。
「東亀よ。
実は、月見之介がここ2週間ほど、帰ってこんのだ。
探しに行ってくれまいか?」
25歳の成人男性が、たかだか2週間音信不通の行方不明になったからといって、なぜ探し出さなければならないのか。
まともな感覚の持ち主ならそう思うのが普通だ。
僕もそう思ったのだが、この現代日本の地方のド田舎には魔術的リアリズムがそのまま人びとの生活に影響を与えている場所が21世紀になっても存在していたのである。
ボルヘスもガルシア=マルケスもびっくりすべきだと、個人的には思う。
そういうわけで、大学に通い始めたその最初の月の終わり、僕は地元に戻ってきて、しょぼい地方都市のしょぼい繁華街を月見之介の姿を求めて飲み屋をひとつずつ見回った。
場末のスナックで潰れていた探し人を無理やりタクシーに突っ込んで本家に搬送すると、月見之介はまったく悪びれたところなく敷居をまたぎ、玄関をくぐり、当主の怒鳴り声に近い音量での説教も物ともせず靴を脱いだかと思うと、縁側にのそりと寝転がり、その場であっさり眠りこけた。
本家の当主も、開いた口が塞がらない様子だった。
タクシー代を請求すべく、一部始終を見ていた運転手のおっちゃんも苦笑いを浮かべていた。
まったく反省の色の見えない月見之介と僕との腐れ縁、もとい、親戚付き合いは、こんな風にして始まった。
それ以降、似たような事案のために、月に一度は本家に呼び出されることが続いた。
たかが親戚の面倒を見るだけのために何度も東京と地元を往復する。
ゼミの合宿や旅行に出かけても、容赦なく電話で呼び出され、いくらかかっても構わないから、可能な限り早く本家に顔を出すように言われる。
そんな状況では、まともにアルバイトも就職活動もできるわけがなく、文系の学部をぎりぎりの成績で卒業した僕は、修士持ちを増やそうという世間の流れのおかげで何とか大学院に進学し、それ以降、うだつの上がらない学生をやっている。
俗に言う高等遊民だが、他の人には上手く事情を説明できない家庭環境のせいもあり、胸を張って社会に貢献している市民だと自認できない9年だった。
恥の多い生涯というのは、きっとこういう人生のことを言うのだろうと思わないでもない。
唯一の救いは、本家に呼び出される理由である月見之介の方が、僕よりももっとしょうもない人生を送っていることだ。
だが、本人を見ている限り、それを気にしている様子は欠片も見せない。
そんな月見之介の背中を思い切り蹴飛ばしてやりたい思ったことも、1度や2度ではないのだが、結局今日の今日まで実行できずにいる。