緋炎のラジエータ①
九月九日。
巷では夏休みが終わり、学生達が制服をびしょびしょにしながら登校するのをまた見かけるようになった。
たしかに学校が始業することは女子学生を好物とする僕にとって重要なことでないと言ったら噓になる。しかし夏休みだとか今日が何月何日だとか、そういったことは本日がレフ・トルストイの生誕日であることと同じ位僕には無縁なことだ。
僕は昼食を済ませた後小一時間喫茶店で時間を潰してから新幹線に乗った。
旭川から青森までを結ぶ北海道新幹線だ。
乗車後、僕は乗車券をセシウム百三十三の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の四十五億九千六百三十一万五千八百八十五倍に等しい時間に一回視界に入れながら、九号車の「9B」という座席を探した。
(ここか)
僕は指定された席に着き、『イワンのばか』を開いた。
ただし、栞は持って来ていない。
レフ・トルストイというと、僕は大学校時代の英会話教員が何かと”Tolstoy”の名を出していたことを思い出す。
外国人だった彼は、英会話の教諭というより戦争の学者といった感じで、僕たち学生は毎回battleについての発表をさせられたものだ。
当時の僕はレフ・トルストイのことをよく認知しておらず、”Tolstoy”というのは「トロイの木馬」みたいな遺跡名かと思っていた。
(いま思うと自分のバカさ加減に言葉が出ないな)
僕が羞恥心のあまり左手で顔を覆っていると、僕のすぐ左で少女が立ち止まった。
「何だろう?」と不思議に感じ、僕が首を捻ると――、目が合った。
「失礼」
彼女は僕の足の間を器用にぬって、「9A」の座席に座った。
彼女はショルダー・バッグから” Война и мир”を取り出し、読書を始める。
(……曼珠沙華が山葡萄に化けることはあるだろうか?)
「今日は、レフ・トルストイの誕生日なんだってね」
僕は少女に話しかけてみる。
「あなたはその本をよく読み込んでいるようですね」
「え? ああ、まあ……」
「逆さの状態で読めるのですから、余程熟読しているのでしょう」
僕は女性のいる前でついうっかり下ネタを発してしまったうぶな大学生みたいな表情をして、慌てて本の上下を正す。
「――ハァ、正直に言おう。僕はトルストイのことをカマドウマの気持ち並に理解していない。ただ一つ、彼がロシア人だということと、君の読んでいるそれが、彼の代表作である『戦争と平和』だということを除いては」
“Война”は「戦争」、” мир”は「平和」の意だ。
「『ただ一つ』と言っておきながら例外が二つあるのは、『真理は一つであって、第二のものは存在しない』と説く『スッタニパータ』へのオマージュですか」
「残念だが、僕にはそれがサンスクリット語だということしかわからない」
「『スッタニパータ』はサンスクリット語ではなくパーリ語です」
「パーリ語? 聞いたことないな」
発車ベルが鳴った後、列車はゆっくりと前進を開始した。