第七章『恐』
【第七章 『恐』】
宰緒に連れられ駅に到着したルナは辺りを見渡す。そこには変わらぬ雑踏があるだけで、騒ぎなども確認できなかった。
「本当にここでいいのか?」
疑うわけではないが、疑いたくもなる。
そんな疑念も意に介しないように、宰緒はしれっと言った。
「嘘だろうな」
「え?」
「騒ぎの渦中に呼びたくないんだろ。俺も面倒なことには首突っ込みたくねーし」
「いや、でも」
「どうせ違界絡みだろ? だったら俺らが行ったところで何も変わらねぇしな」
「……確かに、そうかもしれないけど」
「気になるならお前だけ行くってのもアリだが」
「!? 場所っ、わかるのか!?」
「大体。あの時間、水の音、で大体」
「じゃあ俺だけでも行く! 違界絡みじゃないかもしれないし……」
わざわざ全く違う場所を指定してきたというのに違界絡みではないわけがないだろう、とは言わない。どうせ何かあれば、ルナの身に危険が及びそうになれば、何処からともなく結理が現れて助けてくれるだろう。そう宰緒は思った。
足早に去るルナの背を見送ったことをどうしようもなく後悔するなんて、思いもしなかった。
* * *
大鎌の少女から逃げ出した一同は人影のない解体予定の雑居ビルの中へ滑り込んだ。
ビルの中は埃っぽく、空気が澱んでいた。
「とりあえずは撒けたみたいなので、皆さんはここに身を隠していてください。私がさっきの奴をし、始末してきます……ので……」
最後の方は自信がなさそうに尻窄みになるが、肩に担がれている雪哉の所為で、何だかちぐはぐな感じになっている。
「あの、あなたは?」
皆が気になっていたことを椎が代表して尋ねた。ヘッドセットを装着しているので違界人だとは思うのだが。
お下げの少女はきょとんとした後に慌ててぺこぺこと頭を下げた。
「あっ、も、申し遅れました! そちらのお二方はヘッドセットを装着しておいでなので違界人とお見受けします! 私はこちらの世界の治安をお守り致しております、治安維持コミュニティ所属の木咲苺子と申します……」
スカートを片手で抓んで会釈する。雪哉が肩から落ちそうになり慌てて体勢を直す。
「治安維持コミュニティ……って、結理と同じの?」
「っ、先輩をご存知なんですか! この辺りは通常、先輩の管轄なんですが、先輩はご多忙のため、私が代理を任されたんです。先輩のお知り合いなら死なせるわけにはいきません。この木咲苺子、必ず皆さんに安寧をお届けします! が、頑張りますので……」
やはり尻窄みになる。
「手伝えることがあったら言ってね!」
「あ、では、こちらの方を……」
肩の雪哉を下ろそうとする苺子に、椎を遮り稔が前に出る。
「僕が引き受けます」
気を失っている雪哉は、男の手でも重いと思う。それをこの小柄な少女が難なく担ぎ上げ駆けていたというのは、やはり信じがたい。苺子から雪哉を受け取ると、雪哉は眉を顰め小さく身動ぎした。
「その方、取り押さえていてもらってもいいですか? 冷静を欠いておられるようだったので、その、暴れられては大変なので……」
先程のことが走馬灯のように脳裏に駆ける。雪哉が行っていなければ、稔が行っていたかもしれない。
「さっきの鎌の人が投げたもの、花菜……妹の靴なんです」
「それは……」
苺子は困ったように眉を下げ顔を伏せる。
「お悔やみ申し上げます……」
「妹は、死んだんですか?」
やけに冷静な声が出た気がした。頭の中は混濁して混乱しているのに。
「靴に血がついていましたし……あの大鎌ですし……」
ぼそぼそと小さな声で自信がなさそうに言う。
「あれは何なんですか」
「あれ……というのは、畸形のことでしょうか? あの大鎌の……」
そこまで言って、ちらちらと視界に動くものが入り苺子は顔を上げると、椎が口元に人差し指を当てていた。黙れということか。
唐突に黙り込んだ苺子を怪訝そうに見上げる稔。だが彼女は説明の口を噤んだまま次の句を継がない。
「余計なことは言いません」
「え?」
「あなたはこちらの世界の人間とお見受け致します。平和に暮らしたいのなら、知らぬが仏……です」
下ろしていた槍の頭を上げ、ぺこりと頭を下げる。
「では皆さんはここでおとなしくしていてくださいね……」
逃げるように稔の横を擦り抜けようとした瞬間、苺子の足に何かが絡みついた。
「に゛ゃっ!?」
「……待てよ」
そっと足元に目を落とすと、気を失って横たえられていた雪哉が苺子の足首をがっちりと掴んでいた。
「は……離してください……」
「俺も連れて行け」
「うう……あなたもこちらの世界の人間とお見受けします……そんな無防備な人を連れては行けません……ごめんなさい……」
「お前の言う通りだ。でも俺はそっちの世界のことを知ってる。危険なことくらいわかってる」
「あ、ではあれですね……? 死に急ぎ野郎とかいう……」
おどおどと自信なく言う少女には似つかわしくない言葉が飛び出した。おそらく結理から聞いた言葉なのだろう。
雪哉は稔の手を払い床に手をつき立ち上がる。鞄からナイフを引き抜いて。
「! 雪哉……それ……」
「俺は兄貴とは違う。でもそれは、死に急いでるとか度胸がねぇとか、そういうことを言ってるんじゃねぇ。花菜が戻ってきた時に、何も知らないただの安寧として兄貴を残して、俺は汚れ役を受ける」
「……面白い考えの人ですね。あまり時間もありませんし、わかりました。あなたを危険にお連れしましょう」
「話がわかる奴で助かる」
「ではこの方はお連れするとして……そこの違界のお二方はこちらでこの男性と共に待機をお願いします……」
制止する暇も与えず、苺子は雪哉を連れ廊下を駆けていった。
残された稔は椎と灰音を振り返る。何が何だかわからない。説明をしてほしい。稔はそんな顔をしている。
だが説明を乞わなかった。
「……弟からのお願いだからね……兄としては、聞いてあげたいから」
何を質問されるかと構えていた椎はきょとんとする。知らない方が良いこともある。稔は知らないでいることを選んだのだ。それをどうこうと言うつもりはない。
灰音がぼそりと「椎もこれくらい聞き分けが良ければ……」と漏らしたが、椎の耳には届いていない。
雪を踏み、来た道を辿る。何処に潜んでいるのかわからない大鎌の少女を警戒しながら、苺子と雪哉は走る。
「できるだけ善処できるよう努力はしますが……基本的に自分の身は自分で守るスタンスでお願いします……。あと、役に立つかはわかりませんが……これをお渡ししておきます。私は特に防御が苦手で……」
「わかった。守ってもらうために来たわけじゃないしな」
中に何が入っているのかはわからないが差し出された紙袋を受け取り、雪哉は頷く。
「その自信……私には羨ましいです……」
苦笑する苺子の顔が一瞬で強張る。
「離れてくださいっ!」
反射的に雪哉はその場から飛び退く。
辺りは雪煙。
槍を水平に高く掲げた苺子が大鎌を受けていた。どうやらビルの上から奇襲をかけてきたらしい。
「切れ……ない……」
「残念ですね、あなたの鎌に切られる代物ではないのです……」
鎌を突き返し、互いに距離を取る。
畸形の少女の視界には雪哉も入っている。少女はゆらりと体を揺らし鎌を構えた。
「靴はもう、いらない?」
雪哉を煽るには、その一言だけで充分だった。
「貴様ァアアアア!!」
鎌とナイフが乱暴にぶつかる。ガリガリと削れるような、嫌な音が耳朶をつく。
「駄目っ! そんな小さなナイフ一本では防げきれない……! それに、そんな力の込め方じゃ……」
少女はもう片手の大鎌を苺子に振る。苺子は雪を蹴り跳躍し鎌を躱し槍を振り下ろすが、鎌を戻す所作で防がれる。力があっても、小柄な少女の体躯では体重が乗らず軽い一撃は簡単に遇われる。
「痛いもの、死ね」
少女の鎌が振り下ろされる。
「さよなら、花菜のお兄ちゃん」
「!?」
何故、兄妹だということを知っているのか。花菜が、あの恐怖に震えていた花菜が、話すことができたのか……?
両手を一振りのナイフに込めて鎌の一本を防ぐことが精一杯だった。遊ぶ二本目を防ぐ手など雪哉には残されていなかった。
* * *
電車に乗り、宰緒に言われた駅で下車したルナは、宰緒が言っていた公園に向かって走った。雪哉から着信があってからどれだけ経っただろう。携帯端末から聞こえた騒音。一刻を争うというのに、騒ぎの音が聞こえない。
(あの時みたいに人除けでもしてるのか……?)
イタリアでの一件を思い浮かべる。あの時は街の人々が騒がないように人除けをしていたと言っていた。今回もその人除けというものをしているのならば、どれだけ捜し回ってもルナが雪哉を見つけることはできない。
そもそも場所はこの公園で合っているのだろうか。宰緒は、この付近の池のある場所を教えてくれたが、思ったよりも広い。池じゃなく川の方だったら悪ぃ、とも言っていたが……。それに今もまだ同じ場所にいるとも限らない。
不安になりながらも周囲を警戒し進むと、不自然に雪が捲れ上がっている場所に出た。
「……?」
近くには池があった。池を覗いてみるが、池の中には変わった所はなかった。あの水音が雪の落ちる音だとすれば、もう溶けてしまっているだろう。だが人は浮いていないようだ。少しだけ安心する。
散歩している者はちらほらと見かけるが、騒ぎになった様子もない。
念のためにもう少し付近を調べてみようと池を背に振り返ると、白い雪に埋もれた人工物が目に入った。
近づいて見てみるとそれは靴の爪先のようだった。嫌な予感がした。辺りを見渡すが、埋もれているのかもう片方の靴は見当たらず、持ち主らしき人間も見つけられない。
ごくりと唾を呑み、靴に被った雪を掻き引き摺り出す。
「…………」
何処かで見覚えがあるような靴だった。何処で見たのだろう。記憶を引き摺り出す。最近の記憶の中にあった気がする。
「あ……」
答えが見つかった瞬間、全身に寒気が走った。雪の所為じゃない。全身の毛が一斉に逆立った。
「これ、玉城の……」
被る雪を全て払うと、靴に幾つか血が付着していることに気づいた。
花菜の靴ではない可能性も勿論ある。ルナの記憶違いかもしれない。だがどれにしても確証はない。
立ち上がり周囲を見渡す。木や草陰も探す。
「っ……」
植え込みに掛けた手を、ハッとして止める。もし誰かが倒れているのなら、騒ぎにならないのはおかしい。人除けをしたにしろ、ここにはもう誰もいない。誰もいない場所を人除けし続ける必要性を感じない。そもそも人除けをしているのなら、ルナにも近付くことはできないはずだ。
ルナはもう一度、靴を見つけた場所に戻る。捲れ上がった雪の近くに目を落とし、足跡を探す。散歩客の足跡に混じって必ずあるはずだ。
「――――あった!」
こんなに雪が積もった日にヒールのある靴を履いて公園に行く者はあまりいないだろう。
ヒールのある異なる足跡が――
「三つ……」
椎と灰音と結理か……?
それと、
「裸足……」
これはきっと畸形の少女のものだ。雪上でも裸足のままなのかは定かではないが、雪上を裸足で駆け回る者こそ他にいないだろう。
ルナは心を落ち着け、唯一の手掛りである足跡を辿り再び走った。
(必ず、見つける……!)
足元に視線を落として走るルナは、前方から歩いてくる来園者に全く気づかなかった。
「わっ」
腕がぶつかり蹌踉めく。
「大丈夫ですか?」
間髪入れず問われる。焦っていて前を見ていなかった。完全に自分の不注意だ。声は男性のようだが、フードを被っていて顔はよく見えない。
「あっ、はいっ、すみません!」
「よかった」
軽く頭を下げ男は歩き去ってゆく。
「あれ……痛、い……?」
唐突にじわりと痛みが駆け抜けた。
全身が一気に冷える、ような。
靴を、足跡を、追わなくては。痛みなんて、気にしている場合では――
視線を落とした先、足元の白い雪が真っ赤に染まっていた。
真っ赤な雪上に、肌色が見えた。
自分の手だと気づくのに、少し時間が掛かった。
「あっ……あああああああ!!」
理解するのと激痛に支配されるのは同時だった。切断された断面の少し上を、無事な手でぎちぎちと握り締める。止血なんて考えではなく、痛みを止めたいがためだ。だがそんなことをしても激痛が和らぐことはなく、前のめりになる。
自分の手が、足元に転がっている。さっきの男にやられたんだ。何が『大丈夫ですか?』なんだ――。
絶叫で、近くにいた人々が不審そうにこちらに近づいてくる。
立っていることも苦しく、ルナは雪上に膝をつく。意識が朦朧とする。
倒れそうになり意識が途切れる直前、誰かの手が肩に置かれるのがわかった。垂れた頭がその手の持ち主だろう体に受け止められる。
「これを」
少年の声だった。
頭に何かをつけられるのが、少ない意識の中でわかった。同時に、次第に激痛が治まっていくのを感じた。
手首に目を遣ると、血がもう止まっていた。止血してくれたのだろうか。
ぼんやりとする意識で目を上げ、少年の顔を見上げる。フードとキャスケットを被っているようだが、下からだと顔が窺えた。片眼に白い眼帯をつけた、整った顔立ちの少年だった。ルナより年下かもしれない。
「ありが……とう……」
「喋らなくていい」
感情の籠らない声で遮られた。
少年の体越しに周囲に目を遣ると、近くにいた人々がいなくなっていた。何故、とは考える余裕はなかった。いないのならいい。騒ぎにならなくてよかった。
安心すると、すう、と瞼が重くなった。
次に目を開けた時、ルナは木の幹に背を預け座っていた。
ハッと我に返り自分の手を見る。そこには、以前と変わりなく自分の手がついていた。
「指も動く……」
気を失った場所より少し移動はしているが、気を失う前にいた場所には赤い雪などなかった。少しの血痕もない。夢だと言われれば信じてしまいそうな――あれは夢だったのか?
いや、あれは夢などではなかった。
コートの袖を上げると、手首に綺麗な縫合痕があった。綺麗な、というのは不思議な表現かもしれないが、本当にそう思ったのだ。目立ちにくく目の揃った綺麗な縫い目だった。引っ掛かりも覚えず指が動くのだから、先程の少年は凄腕の医者なのかと――。
そんなことがその場でできてしまうというなら、あの少年は違界人なのでは……? と脳裏を過ぎるが、今は考えないことにした。周囲にあの少年らしき人影はないし、頭につけられたものも今はない。それより雪哉達を捜さなくてはならない。携帯端末で時刻を確認すると、幸い然程時間は経っていないようだ。そんな短時間で、切断された手を……。
もう痛みも全くないが、ルナは縫合された右手を庇いつつ再び足跡を追う。
* * *
「何度も食らってたまるかよォオオ!!」
鎌を受け砕けるナイフ。
頭を狩ろうとする鎌をしゃがんで躱し、そのまま少女の足を払う。
「!」
両手は鎌だが、両足は普通の人間の足だ。触れて切れることはない。
少女が僅かに体勢を崩すと、その隙を見逃さず苺子は槍を振り少女を壁に叩きつけた。
「ッカ……!」
少女は地面に鎌を突き立てよろよろと立ち上がる。両手が鎌になっている所為で立ち上がりにくそうだ。
「お前、何で俺が花菜の兄だと知ってるんだ?」
「知ってるから、知ってる」
「答えになってない」
鋭利に砕けたナイフを少女に投げる。
「ぐっ……」
立ち上がることに両の鎌を使っていた少女は防御ができず肩にナイフを受けた。
「……花菜が、教えた。それだけ」
「…………その花菜を、どうした」
「煩かったから、黙らせた。静かになった」
「貴様ァ……」
「オマエ、すぐ怒る。キライ」
少女は白銀の双眸を忌々しげに歪める。
二人の遣り取りを聞きながら苺子は雪哉の背後に控える。
「こういう形の畸形はまず武器となる部分――この場合、鎌の腕を落とすのが定石なんですが、あなたはもう武器がないですよね……? となると私が落とす役になってしまうんですが……その、囮役というのは、可能でしょうか……。あ、あの、私がもっと強ければ一人で対処できるだろう案件なのに、申し訳ないです……」
「囮でも何でも、こいつに一矢報いるためならしてやる」
「一矢はさっきのナイフで報いて……いえ何でも……ないです……」
「あんなのは一矢に入らねーよ」
「は、はい……で、では、あなたは右の方から、お願いします……」
苺子は後退り距離を取る。柄の長い槍は、近づきすぎると上手く振ることができない。
「行くぞ、カマキリ」
指示通り雪哉が右に地面を蹴ると、少女はすぐさまぴくりと反応する。少女の狙いは最初から雪哉だ。囮などにならなくても、彼に真っ先に飛び掛かる。
少女の動きに全身全霊を集中し、最初の一手を除けることだけを考える。瞬時に幾通りもの回避を脳内でシミュレートする。自分に可能な回避の動きの中から最も回避成功率が高いものを算出する。脳味噌が沸騰しそうだ。
「いいこと、教える」
「っ!」
思考に割り込む少女の声。
「花菜は、生きてる。気絶、してるだけ」
「……!」
思考が揺らぐ。
「オマエが一回避けると、花菜の体を一部ずつ、切り落とす」
「なっ……」
花菜が本当に生きている保証もないのに、雪哉の思考は完全に停止してしまった。
雪哉は花菜の死体を見たわけではない。ただ血のついた靴を見ただけ。あの靴が花菜のものだという確信はある。ずっと見てきたのだ。その確信はある。だがあの血が花菜のものだという確証はない。ならば生きて少女の手の内にあるということを、可能性として受けなければならない。可能性があるのに、花菜の体を傷つける行為は雪哉にはできない。たとえ花菜を傷つけない保証はなくても。たとえ雪哉自身が、殺されても。
「花菜……花菜は、俺が守ってやるからな……」
「っ!?」
雪哉の様子がおかしいことに苺子も気づく。
「いけない……!」
腕を下ろし、回避する意志がないことに気づく。
隙ができるまで待っているつもりだったが、そんなことも言っていられない。槍を構え少女に駆ける。
苺子が動いたことを察知し、無抵抗の雪哉はそこに置き、少女は先に苺子の槍を弾く。
「しまっ……」
タイミングをずらされた。
「っ……!」
仕返しとばかりに少女は苺子を弾き飛ばす。
「やっと、殺せる……!」
少女は雪哉に向き直り、高揚する気持ちを落ち着け鎌を振り上げた。
「死ね!」
「――雪哉さん!!」
「!?」
雪哉に気を取られていた少女は、迫り来る人影に気づくのが遅れた。
全身を擲ち体重を掛けた体当たりに、足場の悪い雪上に立つ体はぐらりと傾く。重い鎌が傾き重心が不安定になり、少女の体は呆気なく雪に倒れた。
「ルナ!?」
少女を地面に倒し込んだルナはすぐさま起き上がり、鎌の届かない範囲まで跳ねるように走る。その足で雪哉の腕を掴み、死角となる路地に駆け込んだ。
「お、おい! 待てルナ! 俺は逃げられないんだ! 攻撃を避けたら、花菜がっ……!」
「その話は俺は知りません! 知らない俺までそれに適用されるんですか?」
「……どう、だろう……」
その辺りの匙加減は少女次第だ。
「さっき一緒にいた……槍を持った女の子は、違界の人ですか? ヘッドセットが見えたので……」
「ああ、あの隙を上手く利用してくれればいいんだが……」
口振りからして味方なのだろうとルナは一先ず安堵するが、畸形の少女と二人きりにしてしまってよかったのだろうかと心配にもなる。
「……他には、誰か一緒にいましたか?」
「稔と椎と灰音がいる。近くの雑居ビルにいるから案内してやる」
腕を掴むルナの手が視界に入り、雪哉は怪訝そうに眉を寄せた。手、というか、コートの袖口だ。袖の先が少しボロリと切れて解れていた。もう片手の方はそんなことにはなっていない。最後に見た時は何ともなっていなかったはずだ。
怪訝に思いながらも、そのことを考えている場合ではないと、前方を見据える。
「隙を作っていただき、感謝します……!」
倒れた少女に苺子は槍を振り下ろす。
「くっ……」
大鎌のバランスを崩し、少女は身動きもままならない。
仕留めた、そう確信さえした。
「え……」
少女と苺子の間に、黒い何かが降ってきた。
これ幸いとばかりに少女は急いで地面に鎌を突き立て力任せに立ち上がる。
黒いものはフードを被った人間だった。槍を振るわないことを確認し、少女は脱兎の如く駆け出した。不味い。雪哉の方へ向かっている。
だが苺子はその場から動けなかった。
少女からは、はためく長い外套の所為で見えなかっただろうが、苺子からははっきりと見えていた。
黒いものはフードから白銀の双眸を覗かせる少年だった。そしてその両腕はあの少女のように鈍く輝いていた――。
「うぐっ……!」
一瞬遅く腕を鎌が掠る。
「さすがに、二人は……」
一人で相手をするのは無理だ。
「すみません、妹がお世話になったみたいで」
畸形の、兄妹……?
「せ、先輩に……連絡しないと……」
長い柄を縋るように握り締め、数歩後退る。
この畸形の少年は先程の妹よりも小柄だが、それでも苺子より背は高い。
「ちょっとした手違いで妹は他の人の転送に巻き込まれたみたいで……僕もやっとこちらの世界に来ることができて、捜し回って漸く見つけたんですよ」
「そ、そう、なんですか……」
呼吸が荒くなる。
「妹は好戦的で血の気が多いんですけど、僕は人を殺めることはあまり進まなくて……」
視線は逸らさず、瞬きさえ不安になる。
「でも、妹に危害を加えるなら、僕は仕方なく殺すしかない」
もはや声は出ず、開く口からは乱れた吐息しか出ない。
「……」
やるしかない。今ここには私しかいないのだから。
更に数歩下がって距離を確保し、槍を構え苺子は一気に距離を詰めた。
畸形が二人いようと、今は一対一だ。先程と同じようにやればいい。
「やあああああああ!!」