第五章『墓』
【第五章 『墓』】
そこは、とても窮屈な場所だった。
家も部屋もとても広いのに、とても狭く感じた。
私はそこに本当に存在しているのだろうか。本当はいないのではないだろうか。
弟がちやほやされているのを、ドアの隙間から何度も見た。
けれどそれはほんの一部分で、弟も酷い扱いを受けていたようだ。
この家では『何でもできること』が当然だった。何が上手くできても、褒められたことはない。
褒められたかった。甘えたかった。我儘も言ってみたかった。頭を撫でてもらいたかった。抱き締めてほしかった。
けれど現実は、殴られないために上手くやる、ただそれだけのために頑張るしかなかった。
家の中はとても窮屈で、上手くできなかった時は痛いお仕置きをされて、泣くしかできなくて、それでもどうしても、何故だか笑えていた。
学校では友達もいて楽しくて、よく笑った。欲しいものもあって、見たいテレビもあって、読みたい本もあって、やりたいこともあった。
なのに、偶然聞いてしまった。私は種変りの子供なのだと。母が何処かの誰かと関係を持ってしまって生まれたのが、私。だから父は弟よりも私にあれほど厳しかったのだと。自分の子供ではない、から。
それがスイッチになってしまったのか、ある日突然ぽろぽろと全てが剥がれてしまった。欲しかったものを見ても、何も感じなくなってしまった。怖かった。寂しかった。涙が出た。笑えなかった。無関心になってしまった。何も、何も感じなくなった。じゃあ何故、生きているのだろう? そう思った。
思った時にはもう、ぼんやりと弟にメールを打ち、迫る通過電車の前に身を投げていた。
* * *
あの日もとても寒い日だった。
電車に揺られながら、宰緒は頬杖をつき窓の外をぼんやり眺める。
ルナは宰緒を一瞥し、前の席に向かい合って座る斎に視線を移す。
「やっぱり俺、留守番してた方がよかったんじゃ……」
声を潜め呟くと、斎も声を落として言った。
「事情を知らない人がいる方が気が紛れることもあるし、宰緒がいいって言うんだから、いいんじゃないか?」
「……お姉さんとは仲良かったのか?」
「ん? 宰緒か? それとも僕?」
「命日が近いって言ってたけど、沖縄の方ではそんな話聞いたこともないし、東京にも行ってないみたいだから……」
「正確には少し前だな。十二月だよ、命日は。まあ宰緒がこっちに戻りたくない気持ちもわかるけど……仲は悪くはなかったと思うよ。そっちではどうなんだ? 宰緒は。羽伸ばせてるのかな」
話を逸らす。あまり続けたくはないようだ。それなら無理に話を戻さない方がいい。
「ほぼ毎日徹夜してパソコンばっかりしてるよ」
「不摂生してるな……」
呆れた風だが、口元は笑っている。安心したような声色だった。
「ゲームしたり、ゲーム作ったりしてる」
釣られてルナも笑うと、斎も目を丸くした後微笑む。
「何、今ゲーム作ってるのか? ゲームを教えたのは僕と小無さんだけど、そこまでハマってくれると、やらせた甲斐があるな」
どうやら宰緒のゲーム中毒の原因は斎と千佳らしい。
「宰緒がこっちにいた頃はよく小無さんと秋葉原を連れ回したりしてね」
「振り回されるサクが目に浮かぶな」
くすくすと小声で笑っていると、窓の外を見ていた千佳も気づいたようで「何すか? 何すか?」と小声で迫ってきた。宰緒はぼんやりしていて気づいていないようだ。
暫くそうして小声で談笑に耽っていた。ルナは何も知らないが、知れば今のように談笑はできなかっただろう。
電車に揺られ辿り着いた霊園はとても広く、宰緒の姉のものだという墓は立派なものだった。きちんと手入れされていて、苔なども生えていない。
「花持ってくればよかったっすね」
何も持たずに来てしまったことに、千佳は眉を下げる。墓石に積もった雪を落とすしかできない。
ルナは墓の入口に立ったまま、暫し三人を見詰める。中に入ってもいいのだろうか。躊躇してしまう。
一人で立ち尽くすルナを見兼ね、雪を払っていた宰緒が振り返る。
「……入っていいぞ。あいつも……賑やかな方が好きみたいだったし。こんなでかいの建てたって、あいつは何も喜ばねぇよ」
あいつというのは、姉のことだろう。
「けど、こんな大きなものを建てるってことは、大事にされてたんだろうな」
遠慮がちに足を入れ、しゃがむ宰緒の後ろに立つと、雪玉を投げつけられた。
「ぶ」
「これは体裁と見栄だ。大事にされてる奴が自殺なんかするかよ」
「え……?」
宰緒はハッとして口を閉じる。
「……何でもねぇ」
少し、空気が重くなった。
事故か病気なんだろうと思っていた。自殺なんて言葉、想定していなかった。口を噤むしかできなかった。
「…………」
目線を泳がせる。直視できなかった。少し遠くに目を遣り、心を落ち着かせようとする。
だがその視界に、妙なものが飛び込んできた。
疾走し、ぴょんぴょんと跳んでいるのだ。人が。
「……?」
それは他には人のいない霊園を走り、後ろを振り返り、墓石の上に跳び乗ったりしていた。
様子がおかしい。それは一目瞭然だった。墓石に跳び乗るのは、普通じゃない。
それはぐんぐんとこちらに近づいてきた。ルナ達の存在に気づいているのかいないのか、接近してくる。その振られる手の内に、鈍く光るものが見えた。
「!」
ルナは咄嗟に墓石近くにいる宰緒と千佳の服を掴み、思い切り後ろに引っ張った。
「っ!?」
「わっ!?」
二人は雪上に尻餅をつき、それとほぼ同時に墓石の上に男が跳び乗ってきた。男はたった今ルナ達の存在に気づいたらしく、驚いた顔でこちらを見下ろす。
男の姿を捉え、ルナと宰緒も目を見開く。男の頭には違界のものと思われるヘッドセットが装備されていた。服に隠れてよく見えないが、首にもちらりと首輪らしきものが見える。
双方、突然のことで動きを止め見詰め合うが、先に男の方が動いた。手に持っていたもの――小型の銃を、こちらに向けていた。
「っ……!」
四人は息を呑む。
だがそんな局面にも拘わらず、勢いよく立ち上がる者がいた。千佳だ。男に向け、人差し指を突きつける。
「その銃、バレルがないっす! 中身が丸見えっすよ! そんなんじゃ弾は飛ばないっす!」
言うや否や足場の悪い雪を蹴り、千佳は跳ぼうとする。千佳ならこのまま男を組み伏せることも可能かもしれない。でも行かせるわけにはいかなかった。
「小無さん! 待っ……」
斎は慌てて千佳の腕を掴み、力一杯後ろに引く。「わっ!?」千佳は再び雪上に尻餅をついた。
それとほぼ同時、一瞬目を離した隙に、耳朶に刺さる絶叫が迸った。
墓石の上の男は、首の根から縦に深々と刀身を埋められていた。
「!!」
「ひっ」
「うっ」
「……っ」
ごくりと息を呑む。
男の手から銃が抜け、雪上に落ちる。
男に一撃を食らわせた者は、その手でずるりと刀身を抜き、べっとりと付着した血を払う。白い雪がじんわりと赤に染まった。
「ウリ……ちゃん?」
震える声で最初に口を開いたのは千佳だった。
男を貫いた黒髪の少女は、今気づいたとばかりにルナ達を見下ろし、少し目を見開く。
「あら……奇遇ね?」
男を蹴り落とし、少女も雪上に降り立つ。両手には二振りの刀。――梛原結理だった。
「会えて嬉しいわ、青羽君」
真っ先にルナに挨拶をする結理に、千佳と斎はきょとんとする。
「知り合いっすか……?」
「ええ、そうよ」
何ということはないと結理はさらりと答える。
宰緒と結理は元婚約者で、東京に住んでいることもあり、千佳と斎は結理のことを知っているようだ。
声色を変えない結理に斎は眉を顰める。
「お前……今、人を殺したんだよな?」
「ええ、そうよ。悪い人を始末して、何か問題でも?」
「……大アリだろ」
結理は目を細め笑む。考え方の違いに嘲るかのように。
「そこの二人、ちょっと待ってなさい」
「?」
犬に『待て』をするように千佳と斎に手を翳し、結理は雪上に座り込むルナと宰緒の前にしゃがむ。刀身を濡らす血を雪で拭いながら、二人には聞こえない声量で口を開く。
「あの二人は違界のことは知らないのよね?」
「ああ……」
「少し面倒なことになってしまったけれど、二人にも違界の事情を話す? それとも記憶を消す?」
ルナと宰緒に判断を委ねると切り出してくれたらしい。
できれば二人は違界のことに巻き込みたくはない。
「記憶を消すっていうのは?」
質問をしたのは宰緒だった。いつもは面倒臭がって首を突っ込まないのに。
結理は自分が装着しているヘッドセットをこんこんと叩く。
「これをつけてもらって、ピリッと記憶を消すのよ。ただ、関係のない記憶もうっかり消えてしまう可能性もあるわ。しょうがないわね」
「何でしょうがねぇんだよ」
「しょうがないでしょう? 記憶なんて全て一繋ぎだもの。一つの記憶を抜こうとすれば、つらつらと連なってくるじゃない」
「…………」
「どうする? 話す? 消す? 私としてはあまり違界のことは広めるべきではないのだけれど、青羽君が望むなら暴露も厭わないわ」
「……じゃあ青羽の好きにしろ」
「え!?」
唐突に振られた。他人の記憶を弄る決定権を任せられるのは荷が重すぎる。話してしまえば、巻き込むことになるのだ。現状のままで切り抜ける方法はないのだろうか。
「ウリちゃん、それ本物っすか?」
待たされて痺れを切らしたのか、千佳が一歩引いた所で声を掛けてきた。その後ろで斎が慌てて「小無さん」と制止の声を掛けている。
千佳の指差す先は、結理の持つ武器だ。結理は刃に目を落とし、よく見えるように二振りを翳す。
「ええ、本物よ」
よく見ると二振りは、長さが違った。以前はもう少し短いものを持っていたが、今はそれは持っていない。千佳は慎重に顔を寄せる。
「綺麗な刀身っすね……短刀にしてはちょっと長いっすかね? 中脇差と小脇差っすか?」
「中……脇? 何のことかしら?」
「このくらいの長さのものはそう言うんすよ。本差が見当たらないんすけど、脇差二口で戦うんすか?」
「ごめんなさい。何を言っているのかわからないわ。違界では短い刀は短刀と呼ばれるだけで、こんな細かい名称はないのだけれど、こっちの世界ではそう呼ばれているのかしら?」
後半はこそこそとルナに向けて確認を取る。――と言われても、ルナも詳しく知っているわけではない。
それより千佳は動じていないのか? たった今、目の前で知人が人を殺したというのに。
「ごめん、黙らせておくから」
やんわりと千佳の腕を引く斎。斎もそれほどは動じていないのか、冷静なように見える。それにほんの少し違和感を覚えた。
「何か落ち着いてるな」
もう少し言葉を選べばよかったかもしれないと思いながらも、口をついて出てしまっていた。しゃがむルナを見下ろす二人の表情が、完全な無になった気がした。ぞくりと背筋に寒気が走るような――。
「まあ、死体を見るのは初めてじゃないものね?」
脇差を鞘に収め、結理は立ち上がる。
「琴実がバラバラになる所を見たんだから」
「え……?」
「琴実が電車に飛び込んだ時、そこの二人は反対側のホームにいた。だから、よく見えたでしょうね」
ルナは男の血が滴る墓石に目を遣る。――『久慈道琴実』。宰緒の、姉の名前だ。
「死体と血の片付けは私がやるから心配しなくてもいいわよ。違界のこと、話すも話さないも好きになさい。私は異物を狩るだけ」
結理は四人を順に見遣り、死体の腕を掴む。
「それじゃあ処理してくるから。また会いましょう、青羽君」
ルナにだけ微笑み、結理は小さく手を振った。次の瞬間にはその場から忽然と消えていた。結理も、死体も、血痕も。ほんの僅か、瞬きの間に。全て白昼夢だったと言われれば信じてしまいそうだった。
「な……何すか!? 今の! ウリちゃんここにいたっすよね!? 手品っすか!? ワープっすか!?」
ほんの少し前まで結理がいた空間にぱたぱたと手を振るが、空を掻くだけで、何もない。
これが転送というものなのだろうか。ルナと宰緒は漠然と思う。
違界のことをどう説明すべきかと二人を見ると、千佳は平気そうだが、斎は無理をしていたのか、
「ごめん、ちょっと外す。すぐ戻る」
口元を押さえ、背を向けた。雪が積もっている所為で足元がもどかしそうだ。
いつまでも座り込んでいるわけにもいかない。ルナと宰緒も立ち上がり雪を払う。
一瞬の嵐のようだった。現実味のない、一瞬の出来事。
「さっちゃんとルナちゃんは平気そうっすね?」
「そう言う小無が一番平気そうじゃねーか」
「私? 私は全然っすよー」
千佳は困ったように苦笑する。
「まだ脚が震えてるし、手も変な汗かいてるし。でも取り乱しちゃったら、大事なことも聞けなくなるのかなーって。何か知ってるんすよね? 二人共」
「…………」
二人は口を噤む。知ってはいるが、簡単に口を開くことではない。
「言えない……っすか?」
ルナは宰緒を一瞥する。千佳は宰緒の友人だ。ルナが口を出すものではない、と思う。
宰緒は千佳を見下ろし、目を逸らす。
「お前、ゲームの中の世界に入りたいって思うか?」
「ゲーム、っすか?」
唐突な質問に目を瞬く。
「色々あるっすからね……どんなゲームっすか?」
「RPGとか……敵を倒していく、みたいなゲーム」
「あー。それは良いっすね! 魔法も使えるようになったら最高っす! ……でも痛いのは嫌っすね」
剣だか魔法の杖だかを振り回すポーズをし、敵を薙ぐように手を振る。
それを聞いて宰緒は頷く。
「じゃあ話さない」
「ええっ!? 何でっすか!?」
「聞かない方がいい」
「何なんすかもう……何か駄目なこと言ったかな……」
おそらく『痛いのは嫌』という部分だろう。違界のことに巻き込まれると『痛いこと』が起こってしまう。
「じゃ、一つだけ教えてほしいっす。さっきウリちゃんは本当に殺しちゃったんすか? 血糊とかじゃ……ないすか?」
「血糊だったらいいな」
「何で投げ遣りなんすか! 大事なとこっすよ!? 本当に殺しちゃってたらケーサツに行かないといけないっす!」
至極真っ当なことを言っているが、何処か遠い、的外れな言葉のように思えた。違界の者をこちらの世界の者が裁けるのだろうか? 死体も痕跡も全て消してしまうのに。
そうこうしている内に戻ってきた斎は全て吐き出してきたのか顔が蒼白で、それどころではなくなってしまった。結理がいなくなり、ぴんと張っていた緊張の糸が一気に切れてしまったのだろう。これが普通の反応なのだろうが、ルナと宰緒はもう、こんな普通の反応にも疎くなってしまっていた。
* * *
「このまま何もせずとも、獲物、飛び込んでくるか?」
細い路地や裏道を走り、人気のない雑居ビルの一室に連れてこられた花菜は、震えながら大鎌の少女を見上げる。恐怖で目を閉じていたので、ここが何処なのかわからない。しんと静まり、人の声はない。このビルにいるのは花菜と少女の二人だけではないのだろうかと思うほどに。
花菜が連れてこられた部屋はがらんとして何もなく、床には埃が積もっていた。少なくともこの部屋は空き部屋で、誰かが訪れるということはなさそうだ。
「ここの人間、これ、つけてない。連絡はどうやって取る?」
頭を傾け、大鎌の背で自分のヘッドセットを指す。だが花菜は違界のこともヘッドセットのことも知らない。
「連絡……は、電話で……」
「デンワ? それでオマエの仲間、呼び寄せられるか?」
「ここが何処かわからないから……」
「わからないと呼べない? それは困る。私も、ここ何処か、わからない」
そう言うと、困ったように微かに眉を下げた。今まで変化がなかったが、ちゃんと表情が作れるのかと、花菜はほんの少し緊張を溶かす。
花菜は自分の隣――少し離れた所で、床をぱしぱしと叩いた。
「あなた、ここに座ってください。お話しましょう」
「オハナシ?」
表情が作れるなら、心も通じ合えるかもしれない。心が通じ合えば、殺すこともやめるかもしれない。花菜には腕っ節の強さや兄達のような頭脳はないが、もしかしたら説得できるかもしれない。そう期待を込めて言葉を掛けた。恐がってばかりはいられない。こんな何処だかわからない場所に誰かが来る可能性は低い。ならば自分で何とかしなければ。自分が頑張れば、犠牲が出なくなるかもしれない。そう言い聞かせ、鼓舞するため花菜は頷いた。
少女は、何を考えているのかわからない無表情で花菜をじっと見詰める。周囲を見渡し、窓の外に目を走らせた後、両腕の鎌を床に突き立ててすとんと座った。両腕が大鎌というのは、両腕が腕として使えないということだ。ただ座るということも、ぎこちない。
「それで、何を話す? 話せば仲間、呼べるか」
花菜のコートのポケットには携帯端末がある。先程も振動していた。おそらく稔だろう。何も告げずに忽然と姿を消した妹に電話を掛けてきたのだろう。連絡が取れると知られれば、皆を危険に晒すことになる。兄からの電話に出ることはできない。
「えっと……何でそんなに簡単に、人を殺そうとするんですか?」
やや直球だっただろうかと思いつつ、少女の顔色を窺いながら質問を投げた。
少女は黙ったまま花菜を凝視し、ふいと目を逸らし正面を向く。
「つまらない話」
「えっ」
機嫌を損ねてしまったのだろうかと花菜の血の気が引く。一旦話題を変えた方がいい。鈍い花菜でも察することができた。
「あ……う……あ、私っ、私は、玉城花菜って、言います……」
そう言えば自己紹介がまだだったと、間の抜けたことを考える。先程の質問はやはり直球だったのだ。何気ない日常の会話から始めた方がいい。震えを押さえるために手を握り、花菜は再び一人で頷く。
突然名乗りだした花菜を少女は小首を傾げながら見る。
「呼び寄せるのに名前、必要? 私、ディア」
「!」
初めて会話ができた。ディアと名乗った少女は少々勘違いをしているようだが、今はそれで構わない。やっと会話ができたのだ。会話ができるのなら、説得もきっとできるだろう。
「ディア……ちゃん、っていうの? 私は兄ちゃんがいるんだけど、ディアちゃんは兄弟いるかな?」
年が同じくらいに見えたので、口調を崩してみる。親しげに接した方が打ち解けるのが早いかもしれない、という考えだ。
「兄、いる。私も。早く、マトに会いたい。早く嫌な奴殺して、マトに会う」
会話が嫌な方向に流れた気がしたが、共通の話題も出てきた。花菜は慎重に会話を続ける。
「お、お兄さんは、ディアちゃんにそんなことしてほしいと……思ってないんじゃないかなぁ……」
「……マト、いつも殺すこと躊躇う。知ってる。だからマトの分も、私が殺す。殺さないと、殺される」
「…………どうして、そんなに殺すの……?」
「痛い、から。マトも同じ、腕が私と同じ。だから、皆、脅える。怖い、から、消そうとする。痛い時、殺すと痛み消える。ずっと、そう。腕が普通、そのオマエには、痛いのわからない。私もオマエの気持ち、わからない」
「…………」
理由が見えた気がした。他の人とは違う腕の形に悩まされ、周囲から迫害を受け、辛い思いをしてきたのだろう。確かに花菜には両腕が鎌であるディアの気持ちはわからないし、どうしてそんな大鎌になったのかもわからない。だが簡単に殺めていいはずはない。
「気持ちはわからないかもしれないけど……もし、ディアちゃんのお兄さんが殺されたら、悲しいよね?」
「!?」
バネのように床を弾き、ディアは跳躍し花菜と距離を取った。
「オマエ、マトを殺すのか!? 許さない……オマエ、すぐ殺す!」
「わっ!? ち、ちがっ……殺さない! た、例えの話だから!」
「…………」
「今の反応だと、やっぱり悲しいんだよね? 怒るよね?」
気の立つディアを宥めるように両手をぱたぱたと振る。説得どころではない。気を鎮めなければすぐに鎌で刻まれてしまう。
「……」
「私も、兄ちゃんが死んじゃったら悲しい。ディアちゃんと同じ」
「何が、言いたい?」
「ディアちゃんが殺そうとしてるのは私の……兄ちゃんと、友達だから……」
呼吸が荒くなる。寒いはずなのにじっとりと手に汗が滲む。
「オマエの、兄……」
「そう……私の……」
「でも、私の兄じゃない」
「え……」
一瞬、言葉の意味が理解できず、思考が停止した。頭の中から言葉が全て消えた。
次の瞬間には、鎌の背と脚を体に叩き込まれ、花菜の意識はそこで途切れた。
煩わしかったのだろう。思考を掻き乱す、花菜の言葉が。
* * *
死体の処理を追えた結理は、慎重に座標を設定し違界から姿を消す。
一人用のコンパクトな転送装置。大掛かりな仕掛けの装置はなく、ヘッドセットに拡張したプログラムだけで転送を行う。転送される座標の設定は少々大雑把で、地図で確認を行いながら安全面を考慮しないと、いきなり道路の真ん中に放り出され危険に晒されることもある。違界へ転送する時は道路などもう機能していないのであまり気にしないが、違界から転送する際は慎重にならなければいけない。
大きな公園の茂みに転送された結理は軽く周囲に注意を払い、緊張を解く。誰にも見られなかったようだ。
周囲に人がいないようなので、ついでとばかりホログラムで周囲を確認する。
(始末した男以外にもまだ何かありそうなのよね……大きな動きはないけれど、フラフラと歩き回っているものがある)
腕を組み、目を細める。
(電波が薄いけれど、あの畸形のようなものもいる。私一人で全部始末するとなると少し大変かしら……)
ふと気配を感じ、反射的にホログラムを切る。顔を上げると、フードを目深に被った人間が歩いていた。雪が積もっている上に平日なので公園の中は人が少ないが、散歩する者くらいはいる。こちらには一瞥もくれずに通り過ぎていく。目元にちらりと白い眼帯が見えたが、そのおかげで視界が狭まりこちらには気づかなかっただろう。
姿が見えなくなるまで見届け、結理も歩き出す。
どれを優先して始末するべきだろう。
* * *
携帯電話も繋がらない。初めての東京で地理もわからないのに、一人で何処かに行くというのも考えにくい。誰かについて行った……もしくは、連れて行かれたと考えるのが適当。余裕があるならばメールでも送ってくるはずだ。だがそれもない。言えないことなのか、言うことができないのか。
マンションの上階から辺りを見渡してみたが、花菜と思しき人影はなかった。車に連れ込まれたのなら厄介だ。
稔は、何か手掛りはないかと、花菜がいた場所に慎重に目を配る。壊れた雪だるま、赤い血のようなもの――。
気になるものと言えば、この冷たい雪上を裸足で歩いたような足跡があることくらいか。子供がはしゃいだにしては、サイズの大きな足跡だ。しかも何故か、かなり離れた位置に次の足跡がある。普通に歩いているだけではない、体重を乗せて走ったように、爪先がよく雪に沈んでいる。
(何なんだろう……これが花菜と関係があるとも言えないし、ないとも言えない……他に手掛りもないし、探ってみるか……)
時計を確認し、意を決し足跡の追跡を試みることにした。雪哉が帰るまではまだ時間がある。雪哉を心配させないためにも、事件性があるなら花菜を助けてあげるためにも、早く見つけなければならない。先に警察に連絡しようかとも思ったが、まだ事件という確証はなく、あまり動いてはくれないだろう。いなくなってからあまり時間が経っていないので、少し散歩にでも出掛けたのではないかと言われれば、否定もできない。
足跡の一つ一つが距離があるので見失いそうになることもあるが、付近を探せば足跡を見つけられた。道の上だけでなく建物の塀の上にも足跡がある。走っているというよりこれは、跳んでいる、ような。常人の跳躍力ではないが。
商店の並ぶ人通りの多い道まで出て、人気のない路地を曲がると、ごり、と脇腹に何かを押し付けられた。
「え……?」
視線を落とすと、細長いものが押し当てられていた。
細長いものを辿ると、それが何なのかすぐにわかった。
――銃だ。
だが取り乱さない。下手に動いて誤って発砲されるのはご免だ。
銃から徐々に視線を上げ、顔を確認する。
見知った顔がそこにあった。相手にも予想外だったのか、目を瞬いている。
「花菜のお兄ちゃん!」
「あ、ああ……」
銃を突きつけてきたのは、妹達の友人の灰音だった。その後ろからひょこっと顔を出した椎が声を上げた。
「あの、これは……」
銃を指差すと、数秒の後に灰音は銃口を下げた。
「玩具だ。敵陣に乗り込む密偵兵ごっこをしていた」
「は、はあ……」
面倒事を避けるために言い訳を利用することを覚えた灰音だったが、目は笑っていないし白々しい。第一、何故こんな所でそんなことをしているんだ。
「ところで、怪しい奴を見かけなかったか?」
「怪しい奴? 他にも一緒に遊んでる人がいるのかな? 誰も見かけなかったけど……」
「遊びじゃねぇ!」
「えっ?」
「……いや遊びだった。そうだった。見かけてないならいい」
「?」
突然怒鳴られ心臓が飛び跳ねた。遊びなのか遊びじゃないのかどっちなんだ。
見かけていないのならもう用はないとばかりに稔の横を擦り抜けようとする灰音に、今度は稔が呼び止めた。
「僕からもいいかな」
「あ?」
「怪しい人、見かけなかったかな」
「? お前も密偵兵ごっこか?」
「あ、いや、そうじゃなくて……」
「何かあったの?」
何か感じ取ったのか、心配そうな顔をする椎。この椎という少女は、花菜達と一緒に旅行に来るほどの仲だ、きっと親しい友人だろう。下手に話して心配させるのも可哀相だが、気遣っている余裕はない。
「……実は、花菜がいなくなって。マンションの前で少しの時間一人にさせてしまって、僕が戻った時にはいなくなっていて……電話も通じないし、何かあったんじゃないかと、近くにあった足跡を辿ってここまで来たんだ」
話し終えると、予想通り椎が心配そうに眉根を下げた。
「花菜、攫われたの……?」
「まだ確証はないんだけど、花菜のいた場所に血痕らしきものもあって、早く見つけないとと……」
「足跡はどれだ?」
いつの間に仕舞ったのか、灰音の手には何も握られておらず、腕を組んでいる。
「あそこに見える足跡が……最後か」
その次の足跡は見当たらない。壁伝いに屋根に上がったか、何処かの建物に入ったのかもしれない。
稔が指を差すと、灰音と椎は黙って足跡へ歩み寄った。
裸足の足跡を見下ろし、しゃがみ込む。
「雪が積もっててよかったね」
「ああ。犯人がわかるかもしれない。椎に傷をつけた犯人にも繋がればいい」
「私じゃないよ。傷ついたのはコートの袖だよ」
二人で足跡を凝視して何をするのだろうかと、稔も覗き込む。
灰音は足跡に手を翳し、手の甲にある布についている石を指で叩く。そして手の甲を下に向けると、足跡に淡い光が照射された。
光が消えると二人は立ち上がり、再び手の甲を上に向ける。今度は空中に文字列と図のようなものが顕れた。稔には読めない文字だった。見たことのない文字だった。
灰音は映し出されるものに目を通し、周囲に目を遣る。
「足跡におそらく二人分の体重がかかっている。これで当たりかもな」
「やっぱり花菜は誰かに――」
稔の言葉は聞かず、灰音は左右の壁の突起物に足を掛けするすると屋根まで跳び上がっていく。
「凄い……」
思わず声が漏れた。
灰音は屋根の上から肉眼で見渡す。灰色の雲と冷たい空気が重い。
(あまり首を突っ込みたくはないが、椎は助けに行くだろうな)
辺りを警戒し、軽く壁を蹴りながら下に戻る。稔の方は見ずに、椎に言葉を掛ける。
「おそらくあの畸形だな。姿を消した地点の血痕は僅かということなら、多少抵抗した後に連れ去られたんだろう。あの殺人虫がわざわざ場所を変え殺すことは考えにくい。生きたまま何かに利用するつもりだな。私らに復讐するための人質だったりしてな。私はあまり手を出してないけどな」
「じゃ、じゃあ、私達の所為で花菜が攫われたってこと? どうしよう……早く助けに行かないと!」
「そう言うと思ったが、今何処にいるかわからないだろう。それに、何も策がないまま突っ込むわけにはいかない。人質を取ったのなら向こうもそれなりに考えてるだろ。あとは……誰が一番恨みを買ってるか、だな」
「恨み?」
「一番ムカつく奴を最初にぶっ殺すだろ? あの畸形に手を出した奴らを思い出してよく考えろ」
二人だけで話を進めていく。稔はすっかり蚊帳の外だ。先程まで渦中にいたのに。
椎は空を仰いで記憶を辿り、沖縄での出来事を組立てる。
「……まず私と、ルナ……結理、未夜……手は出してないけど、殺し損ねたってことなら花菜のお兄ちゃんも含まれるのかな」
「え?」
椎が言いたかったのは雪哉のことだったが、同じく『花菜のお兄ちゃん』である稔はぴくりと反応する。それに気づいた椎は、すぐに慌てて言葉を乗せた。
「わっ、そっか、どっちもお兄ちゃんだ。雪兄ちゃんの方だよ」
「雪哉……? 雪哉もこの件に関わっているのか?」
「関わってると言うか……前に大怪我したことは知ってますか?」
「ああ、それは聞いた……雪哉も花菜も大変だったと」
「その時の犯人が、今回の犯人なのでは、ってことです!」
「つ、つまり……最悪、また大怪我を負うようなことが……?」
動揺を見せる稔の頭を灰音は勢いよく叩いた。
「微温い。最悪、死ぬってことだ」
稔は目を見開く。何処か軽く見ていた。すぐに花菜が見つかって、それで終わりだと。
そんな甘い話ではなかった。
「今、椎の言ったメンバーだと、結理と未夜は放っておくとして、問題は武器を持っていないルナと雪哉だが、居場所はわかるか? わからないなら連絡手段でもいい。動転している暇があるなら頭を動かせ」
稔は灰音にもう一発活を入れられる。そうだ、動転している暇はない。
ポケットから携帯端末を取出し握り締める。
「雪哉は試験中だから居場所はわかる。連絡もできる。でも、青羽君は何処にいるのか……僕は番号も知らない。だけど、雪哉なら知ってるはずだ」
「決まりだな。まずは花菜のことは放っておいて雪哉と接触しよう」
「なっ……!? 花菜をこのまま放っておくことはできない! 怖い思いをしているだろうに……」
灰音は動揺する稔の頭を無造作に掴み、地面の雪に顔面を叩きつけた。
「頭を冷やせ。花菜が人質役なら簡単に殺されることはない。むしろ何の策もなくのこのこと慌てて私らが行けば、その方が危険だ。まずは居場所がはっきりしていて連絡も取れる雪哉と合流。そんなことも考えられないのか。馬鹿か貴様は」
慣れたようにすらすらと言葉が出てくる。何故こんなにも落ち着いていられるのかと、稔は畏怖すら感じた。
「それで、ここから近いのか? 雪哉の居場所は。相手に気配を悟られない内にここから去りたいんだが」
「電車で、何駅か……」
足跡を追って何処まで来たのか、ゆらゆらする脳で考える。
「よし、じゃあ行くぞ。私も椎もこの世界のことはよく知らないからな。お前に案内を頼む」
地面に膝をつく稔の腕を掴んで立ち上がらせ、背中をばしんと一発叩く。
「灰音が協力的! 珍しい!」
「ははは、ターゲットに椎も含まれている可能性があるからな。他のターゲット候補と合流しておくに越したことはない。的は多い方が盾にできるからな」
灰音の何気ない発言に、稔は急に不安になった。