第三章『雪』
【第三章 『雪』】
姉を失ってからの彼の口癖は『殺したらいい? それとも、死ねばいい?』だった。
窮屈で痛い家の中で、一人で苦しむしかできなかったのだろう。唇を噛んで涙を必死に堪えながら小さく震え、両手をきつく握って俯いて。
ぼそりと小さく漏らす度に、斎と千佳は彼を外に引っ張り出し、家に招いたりした。勿論、彼の両親には知られずにだ。
「殺すのはリスクが高すぎる。余計に自由がなくなるぞ」
「楽しいこといっぱいしよう! 楽しいのがあると死ねないっす!」
斎はゲームが好きで、千佳は漫画やアニメが好きで、そう言ってはよく彼を秋葉原に連れて行った。彼はそういうものにはあまり興味を示さなかったが、付き合っている内に気張らしにはなったようだ。その所為で習い事をすっぽかすことになって両親にまた怒られたり暴力を振るわれたりしたようだが、彼は平気そうな顔をして「大丈夫」と言うだけだった。連れ出された後は多少なり気持ちが楽になっているようだった。
他の方法がないかと思案もしたが、小学生の斎と千佳にできることは限られていた。
* * *
カタカタという物音とひんやりとした空気に、雪哉はぼんやりと目を開いた。布団の中から縮こまりながら音のする方向――台所の方に目を遣る。ドアが閉まっているので台所が見えるわけではないが。
時計の時刻を確認し、ずるずると布団を被りながらドアを開ける。
「――あ、起きたの? 早いね」
「ん……」
台所には、エプロンをつけた稔が立っていた。どうやら朝食を作っているらしい。
「着替えて外に出てみなよ、雪哉。良いものが見られるよ」
「外? ……寒い」
「ご飯ができるまでもう少しかかるし。雪哉が合格するように、カツ丼」
「朝からカツ? 重……」
「外に出て体を動かしておいで」
「……」
折角目が覚めたので、束の間の二度寝も魅力的だが、着替えることにした。ぐっすり眠る花菜を起こさないようになるべく音を立てずに着替え、コートを羽織る。
静かにドアを閉め廊下に出ると、稔が何やらにこにこと気持ち悪く笑っていた。台所の中を一瞥すると、揚げられている豚カツが目に入った。本当にカツ丼を作っているらしい。
のろのろと靴を履き、ゆっくりと重いドアを開ける。ドアの隙間から冷気が入り込み、身震いした。
白い息を吐きながら一歩二歩、下界を見下ろすと雪哉は一瞬言葉を失った。
視界が、白い。
バネのように踵を返して部屋に飛び込み、花菜の眠る部屋のドアを勢いよく開け放った。
「花菜! 起きろ!」
「ふぇっ!?」
大きな物音と声に、花菜の体が跳ねる。慌てて身を起こして何事かときょろきょろ辺りを見回す。
「花菜、朝だ。着替えてコートを着ろ」
「朝……? おはよう、雪兄ちゃん」
ふにゃりと笑い、雪哉は壁を叩く。
「今日も花菜が可愛い……!」
「じゃあ着替えるね」
騒がしく雪哉は廊下に出てドアを閉める。あの景色を見たら花菜は何と言うだろう。驚きすぎて抱きついてくるかもしれない。
暫し廊下で待っていると、言われた通りコートを羽織った花菜が部屋から顔を出した。花菜と目が合うと、雪哉は待ちきれないとばかりに彼女の腕を引き、バタバタと玄関に走った。
その様子に、稔は微笑ましくくすりと笑う。
勢いよく玄関のドアを開け放ち、花菜も下界を見下ろす。
「わああっ! 凄い! 白い!」
そこは、一面が白に染まった世界だった。
「雪? あれ雪だよね?」
「そうだ、雪だぞ。道理で寒いわけだ」
二人は雪を見るのは初めてだった。雪哉は昨夜、舞い散る雪を見たが、降雪と積雪では趣が違う。視界一面に真白に広がる雪に、二人は息を呑む。
暫く呆然と下界に目を奪われるが、花菜がぽつりと呟いた。
「雪、触りたいなぁ」
「それじゃ、下に下りるか!」
意気込んで花菜の手を引きエレベーターに向かおうとしたところで、背後のドアが開いた。
「花菜、雪哉。そろそろご飯食べよう」
稔の一声に花菜はしゅんと眉を下げたが、お腹がすいていたのか雪哉の袖を引き、
「先にご飯食べよ」
玄関に爪先を向けた。
花菜が言うなら仕方がないと、雪哉も部屋に戻る。
テーブルの上には宣言通りのカツ丼がほくほくと湯気を上げて待っていた。
「マジで朝からカツ……」
「雪哉はあんまり朝が強くないからね。しっかり食べてエネルギー補給しないと。気持ち程度だけど、レモン風味であっさり味にしてあるから大丈夫」
気持ち程度で何が変わるかと渋々カツを一口齧ると、心なしかそれほど重い味ではない気がしたが、慎重に食べた所為で外で花菜と雪遊びをする時間がなくなってしまった。
烏龍茶でご飯を流し、バタバタと仕度をする。
「じゃあ行ってくる」
鞄を掴み外に出ると、一緒に下に下りようと言うのか花菜もついてきた。稔も出てきたが。
エレベーターで下に下りて白に一歩踏み出すと、ざくりと靴が沈み、ひんやりと足に寒気が走った。
「うわっ、冷た!」
「足元が危ないし、アイゼンでもつけていく?」
「つけねーよ! こんなもの、バランスさえちゃんと取れば大丈夫だろ?」
「雪、初めてなのに?」
言い合う二人の横で、花菜が派手に滑って転んだ。
「かっ、花菜ー!」
「ほら、雪哉もこんな縁起の悪いことにならないように」
「雪兄ちゃんごめん! わわっ、冷たい!」
一人では立ち上がれない花菜に、雪哉と稔は手を差し出してやる。
「思ったより雪が固いよ……ふわふわ綿飴だと思ってたのに……」
「もっと寒い所に行かないとね。ここじゃすぐ溶けるし」
「大丈夫か……?」
雪哉は冷たいと言った花菜を抱き締めて暖めてやろうとし、自然な流れでやんわり拒まれた。
「足元が悪いんだし、早く行かないと遅刻するよ。ほら、エネルギー補給するチョコレートあげるから」
ぽんとチョコレートを手に載せられ、どれだけエネルギー補給するんだ、と思ったが、稔の言うことも一理ある。電車が動いているのかもわからない。早く行かねばならない。
慎重に雪の上を歩き出し、数歩進むとコツが掴めてきた。これなら多少速度を上げても大丈夫だ。
「兄ちゃーん! 頑張ってねー!」
「頑張れー」
手を振りエールを送る二人に、花菜が応援してくれるなら勝ったも同然! と雪哉は感動し、近くの塀の上から雪を集め丸く握り、勢いよく後方に振りかぶった。
「さくっと合格してやるからなー!」
「――ぶっ」
雪玉は狙い通り稔の顔面に直撃した。
* * *
勢いよく家を飛び出し、積もった雪に滑りそうになりながら、少女は走っていた。
朝食を食べる時間も惜しかった。だから熱々のピザトーストを咥えて走り出した。
ピザトーストは外の冷気ですぐに冷めてしまったが、少女は気にしなかった。気にする余裕などなかった。
近道するために細い路地に入り、足元に気をつけながらひたすら走っていると「!」角から現れたロングコートにぶつかってしまった。雪がなければ急ブレーキを掛けるか避けられたのに。足が滑って上手く避けられなかった。幸い腕が少し当たっただけで双方転倒はしなかったが、正面からぶつかっていれば、咥えたピザトーストを叩きつけることになったかもしれない。
「ほえんああひっ!」
ごめんなさいと言ったつもりだったが、トーストを咥えたままだと上手く喋れない。頭を下げると、相手も軽く頭を下げてくれたので良しとしよう。今は余裕がないのだ。
大急ぎで目的の家まで辿り着き玄関のドアを開けようとするが、鍵が掛かっていて開かない。インターホンを押して待つ時間ももどかしい。そもそもまだ起きていない可能性もある。
少女はきょろきょろと周囲を見渡した後、塀に攀じ登り突起物に足を掛け一階部分の屋根に跳び乗り、ベランダに降り立った。昔からベランダの鍵は開いていることが多い、と少女は知っていた。
ベランダで靴を脱ぎ捨て部屋に入り、バタバタと目的の部屋を目指す。
「たのもー!!」
目的の部屋のドアを勢いよく開け放ち、もう片手でピザトーストを持ち、少女は叫んだ。
中にいた少年達は、突然の来訪者にぽかんと口を開けた。
少女は少年達を吟味するようにじっくりと凝視し、一人の少年に視線を止めた。
そして、目に涙を溜めた。
「さっちゃああああん!!」
少女は少年の前に両膝をつき、あわあわと両手を動かす。トーストが飛んでいきそうだ。
「さっちゃん本物っすぅうう! 生きてるっす! 凄い! さっちゃん凄いっすぅうう!」
「え……誰……?」
唖然と口を開け、近くにいた少年に助けを求める。見知らぬ少女が突然部屋に乗り込んできて目の前で泣いている。意味がわからない。
「ああ……わからないか? 確かに髪も染めてるし少し化粧もしてるけど……小無さんだよ、小無千佳」
「は……? これ、小無?」
「何で二人して名字で呼ぶんすかぁ! 何か余所余所しいっす! あっ、いっちゃん、レンジ借りてもいいっすか? トーストすっかり冷めちゃって」
「どうぞ……?」
「ありがたい!」
ころころと表情を変えバタバタと嵐のように去っていった。
残された三人の少年はぽかんと開きっぱなしのドアを見詰める。
「な……何……?」
おそらく彼が一番、この状況を呑み込めていないだろう。
「青羽君は初対面だからな……後で改めて紹介するけど、僕と宰緒と同じ小学校だった小無千佳さん。僕とは中学も一緒だったんだけど……宰緒は覚えてるよな?」
「中学は知らねぇけど、小学生ん時とは随分違うっつーか……」
「雰囲気は変わってないと思うけど、少しとは言え化粧すると変わるからなぁ」
小学校では髪は黒くそんなに長くもなかったのだが、今の千佳は染めて金に近い茶髪になっているし、伸ばしてサイドテールにしている。
寝起きの頭ではあまり多くの思考はできないが「ふぅん」と宰緒は相槌を打つ。
またもすっかり蚊帳の外になってしまったルナは、とにかく朝だと先に着替えを済ませ布団を畳む。斎も千佳も宰緒を見るなり生きてるだの何だの、東京を出る時宰緒は何をしたのだろう。
斎も着替え始めると、バタバタとあの騒々しい嵐が帰ってきた。
「いっちゃーん! トースト熱くなった! ありがとっす」
カリッとトーストを齧ってみせる。
「パンクズが落ちてんだけど」
「じゃあ後で掃除する……お?」
何か良いものでも見つけたと言わんばかりに、今度はルナの前にしゃがむ。彼女が興味を示しているものはすぐにわかった。緑色の双眸だ。千佳は覗き込むように双眸を凝視し、頭を引く。
「カラコンっすか!? 発色良いっすね!」
「カラコン……?」
「違うよ、小無さん。それは地色だよ。イタリア人とのハーフなんだってさ」
あまりない反応に困惑していると、斎がフォローしてくれた。
「マジっすか!? ハーフ超カッコイイっす! 日本語とイタリア語、どっちで喋るんすか? あっ、私の言葉わかる?」
「両方喋れるから大丈夫、わかるよ」
「両方っすか!? 凄いっすね! 私、日本語もよくわかんない時あるから! 名前は? 私は小無千佳! ヨロシクっすー!」
手を差し出され、握手だろうかと手を握る。
「俺は青羽。よろしく、小無さん」
「青羽君、名字かな? 下の名前は?」
「…………」
口を噤んでしまったルナを見て、宰緒が横から口を挟む。
「ルナ。青羽ルナ」
「ルナ君? 超可愛い名前じゃないっすか! 男にしとくのが勿体ないっす! アニメに出てくる美少女の名前っぽい!」
「…………」
畳み掛けるように浴びせられる言葉の猛襲に、ルナの心は砕かれそうだった。今までも度々女みたいな名前だとは言われてきたが、こんなに悪意なくストレートに言われるのは珍しい。
「小無さん、言い過ぎ」
次第に表情が曇るルナとは正反対に明るく屈託なく笑う千佳を見兼ね、斎は小さく息を吐く。
千佳もルナの表情の変化に気づいたのか、慌てて口を押さえた。
「ご、ごめんなさい……褒めてるつもりだったっす……」
まさかあれで褒めていたとは。悪気がないなら責めることもできない。
「ん? 小無さん、その袖、どうしたんだ?」
「え?」
丁度斎の方を向いていた千佳の腕を指差し、怪訝に首を傾ぐ。
「あ――あれ!? 何すかこれ!? このコート気に入ってたのに!」
袖を引っ張り、声を上げる。二の腕辺りに、ぱっくりと切り口ができていた。何処かに引っ掛かって破れたという風ではなく、鋏のような鋭利なもので切られたような――。
切れていたのはコートだけで、その下に着ている制服や肌には何の傷もないので、コートを着るまでに何かしてしまったのかもしれない。――が。
「家出る前は切れてなかったんすよ? ちゃんと鏡で見たし!」
まるで鎌鼬にでもあったような切り口に、ルナと宰緒は苦い顔になった。
「縫ったら元に戻るっすかね……?」
残念そうに切り口を撫でるが、ころころ話が変わる千佳は次には違う話題を振り出した。その話題に宰緒は、頭が真っ白になりそうだった。
「さっちゃんがこっちに帰ってきたのは、コトちゃんの命日だからっすか?」
* * *
違界の人間は、眠らない。
ヘッドセットで脳を麻痺させ、睡眠欲を排除する。
それは違界を出ても同じことで、違界の人間は眠り方を知らない。
椎はふかふかのベッドを転がり、ベッドのバネで跳び、屈伸して床に着地、ドアに向かった。
「何処へ行く?」
呼び止めたのは灰音だった。部屋の隅でライフル銃を丁寧に磨いている。
「この時間なら皆寝てるだろうし、散歩したいなぁって」
「この家の中をか?」
「うん」
時刻を確認すると、夜中の三時だった。こちらの人間のことはよく知らないが、ルナはこの時間はぐっすり眠っていた。
「宰緒みたいに夜は寝ない人間がいたらどうするんだ」
「その時はその時かなぁ」
相変わらず危機感がない。だが家の中だけなら、外を歩くよりは安全だろう。
「全くお前は……私もついて行く」
銃を一旦仕舞い、灰音もドアへ向かう。
ゆっくりとドアノブを回し静かにドアを開け、廊下を見渡す。明かりが少なく薄暗く廊下の先は見えないが、人の気配はないようだ。天井や壁にも目を遣るが、監視カメラやセンサーの類は一目見ただけでは見当たらなかった。先刻結理がすぐに駆けつけられたのは何故なのか……。
極力音を立てずに部屋から出て数歩進んでみるが、今度は結理は現れなかった。先刻は偶然近くを通っただけだったのか? さすがの結理も夜は眠るのだろう。椎は一人で合点し、うんうんと頷く。
「何処から行くんだ?」
「まずは結理の部屋に行って本当に寝てるか確認しよう」
「起きてたらどうするんだ。すぐに捕まるぞ。まあ私は構わないが」
「灰音、眠い?」
「眠いという感覚はわからん」
「よーし、出発!」
話を聞いているのかいないのか、椎は相変わらずマイペースだ。
結理から聞いていた通りに廊下を行き、誰とも遭遇せずに彼女の部屋に辿り着いた。拍子抜けするほどに容易に辿り着けた。
少し姿勢を低くしてゆっくりとドアを開け部屋の中を見渡す。
「あれ……? いない?」
そこには誰もいなかった。
机上に何冊かファイルが置かれてはいるが全て閉じられており、椅子もきちんと仕舞われている。ベッドも乱れていない。ただ、少し隙間が開いているのか、窓に掛かるレースのカーテンが緩やかに揺れている。
部屋の明かりも消えていて、月明かりだけが穏やかに差し込むのみ。
「隠れてるのかな?」
椎はベッドや机の下を覗き込むが、そんな所に誰も隠れてはいない。
退屈になってきた灰音は、腕を組んで壁に倚り懸る。
ぱたぱたと動き回る椎を遠目に見守っていたが、変な音がしたことに灰音はぴくりと反応する。小さな音だが、確かに耳朶に届く。
「……何かしたのか? 椎」
耳を澄ませていたが、ふと椎の手に何かが握られていることに気づいた。
椎はやや興奮気味に答える。
「この本棚、動くよ!」
「勝手に触るな。罠だったらどうする」
全く、危機感がなさすぎる。違界をうろうろと徘徊するよりは安全だとは思うが、結理の家であることを忘れてはいけない。
小さく音を立て、本棚が手動で動く。場所の節約のためにもう一つ本棚が重なっているか、隠し扉でもあるかと手前の本棚を退かすと、想像していた以上のものが出てきた。いや、出てきたものは本棚に他ならないのだが、そこに収まっていたのは本ではなく――
「目が……」
そこには硝子の筒に一対ずつ収められている大量の眼球が陳列されていた。色取り取りの虚ろな目が、じっとこちらを見詰める。
灰音も本棚の陰から顔を出し、眉を顰める。
「目を収集しているような口振りだったが……まさかこんな所に隠してあったとは……」
「全部違界の人達なのかな……あ」
「あなた達、何をしているのかしら?」
背後から聞き慣れた声が飛び込んできた。
目前の眼球に気を取られていて反応が遅れてしまった。振り向くと、窓から結理が着地する所だった。
「全く、油断も隙もないわね。私は忙しいと言っているのに……あなた達は勝手に部屋を出ないという簡単なこともできないのかしら?」
溜息を吐きゆっくりと迫る結理に、椎は眼球の一つを指差す。
「結理! あの目は?」
「は?」
指の先にあるのは、一つだけぽつんと収まっている筒だった。吸い込まれそうな、紅の瞳。だが、潰れてしまっている。
「……その目が気に入ったとでも言いたいのかしら? だとしたらお目が高いわね。その目は片眼だけだけれど、違界でそうそう見かけない赤い目……撃たれたのか潰れてしまっているけれど、貴重なものよ。私に目の美しさを気づかせてくれたきっかけ」
「あの目、どうしたの?」
「拾ったのよ。落ちていたから」
違界では眼球が落ちていることも稀にある。おそらく撃たれて落ちたか、撃たれて見えなくなった目の代わりに義眼を入れるために抉り捨てられたか。
「あの目、紫蕗の目だよね?」
「紫蕗……?」
ここでその名前が出てくるとは思わず、反応が遅れる。
「紫蕗って、あの技師の?」
「うん、そう」
「あなた、紫蕗の知り合いなの? 名前くらいしか知られていないっていう噂だけれど、まさか顔を知る人物がいたとはね……」
「顔は知らないけど」
「は?」
「でも、この目は紫蕗じゃないかなって」
「……」
顔も知らない者が、片眼を少し見ただけで持ち主が特定できるものなのだろうか。
「あなた、何なの? 紫蕗とはどういう関係?」
「紫蕗は、私を助けてくれた人!」
椎は心底嬉しそうに答える。屈託なく、無邪気に。
結理は忌々しいものを見るような目で椎を見遣り、数秒黙考し口を開く。
「あなた、赤い目の意味を知ってる?」
「意味?」
椎はきょとんとする。知らないのか、話の流れが読めないのか。
「あなた、感染しているんじゃない?」
「え……?」
結理の背後で、刃がきらりと月明かりで照らされるのを、灰音は見逃さなかった。
「伏せろ椎!」
「っ!?」
結理が短刀を翻すのと同時に、灰音はライフル銃を形成、頭を下げる椎の頭上で発砲した。
弾が結理に届く頃には彼女はもうそこにはいない。短刀を椎に向かって放ち、灰音は飛来する短刀を撃つ。その僅かな時間に結理は灰音の懐に潜り込み、銃を蹴り飛ばした。
「くっ……!」
間髪を入れず結理は背後に回り、灰音の背を思い切り一蹴、椎の背も一蹴。
「わっ!?」
更に蹴りで追撃、二人をベッドの下に押し込み、
「命が惜しかったら一切動かず喋らず私がいいと言うまで息を殺していなさい!」
結理はベッドに飛び込んだ。
一瞬しんと静まると、ドアをノックする音が部屋に響いた。ノックの後すぐにドアが開く。
「お、お嬢様、今し方銃声のようなものが……」
初老の使用人だ。ベッドの上に制服姿のまま突っ伏す結理に目を遣り、恐る恐る声を掛ける。
結理は首だけを使用人へと向け、早く出て行けと威圧を込めて言う。
「返事もなく勝手に部屋に入らないでもらえるかしら? 銃声なんて、あなた寝惚けているんじゃないの? 私の貴重な睡眠時間をそんなくだらないことで削らないでくれる? 早く出て行って」
「は、はい……これは、失礼いたしました……」
眠そうに目を擦る真似をすると、使用人はおとなしく引き下がった。再びドアを開けないかと数秒様子を窺い、大丈夫だろうと判断すると足早に本棚の前に行き、眼球棚を隠した。使用人が棚の方を見ないかと肝を冷やしてしまった。
そして蹴り飛ばした銃を拾い、弾を全て抜き取っておく。
「……いいわよ、もう出てきても。消音器もないのに無闇に発砲しないで。騒ぎになったらどうしてくれるの」
「ああ、装備するのを忘れていた」
「馬鹿じゃないの、あなた」
恐る恐る先に顔を出したのは、後に押し込んだ椎だった。
「もう大丈夫……? 結理も何もしない?」
「今ここで暴れられると私が迷惑被るから。さっさと部屋に戻ってくれれば、何もしないわ。今度部屋から出たら始末するけれど」
下手に暴れられると、この家にいられなくなるかもしれない。折角の金持ちの家だ、手放したくない。と結理は思う。
椎の後から灰音も警戒しながら顔を出し、結理と目が合う。
「あなたも、いいわね?」
弾を抜いた銃のグリップを灰音に向け、手渡す。
「…………」
渡された銃を持ち、灰音は不機嫌に眉を顰める。
「弾を抜いただろ。軽い」
「この家から去る時に返してあげるわ。また発砲されたら困るもの。家にいる内は危害を加えないと言ったし、必要はないでしょう?」
「…………」
不満そうな顔をする灰音から椎に目を移し、今度は結理が眉を顰める。
「あなた、本当に知らないの? まあ、珍しいから無理もないけれど……」
「?」
「紫蕗が赤い目だと言うのなら、紫蕗は害毒である可能性が高いわ。あなたにもし感染しているのならもう、青羽君には近づかないで」
「っ……!」
椎は目を見開き、泣きそうな目で唇を噛んだ。近づかないで、という言葉だけが椎に突き刺さった。
* * *
何故だ何故だ何故だ!
違界の外は平和なんじゃなかったのか!?
何故オレは追われている!? 何故オレは逃げている!?
誰か、誰か、誰かっ……!
この世界は、一体何なんだ!?
「クソッ……」
男は毒突きながら暗い夜道を、細い路地を、走る。小銃を大事に大事に握り締めながら。
薄く雪の積もった道は滑りやすく、走りにくい。
「くっ……そもそもオレは、何でこんな所にっ……!」
男は、違界を出ようとしていたわけではなかった。出れば争いのない世界で平和に暮らせる、出られるものなら出たい、その程度の気持ちだった。男にとってこれは、幸運な事故だった。そのはずだった。誰かの転送装置が有効範囲を誤ったか暴発でもしたのだろう。男はそれに巻き込まれて、転送された。
平和な世界に。命を狙われることのない世界に。
だが、現実は違った。殺されかけた。必死に逃げた。地理も何もわからない世界で、わけもわからず逃げた。
「はあっ……はあ、はあ……」
息を切らし、振り返る。撒いたのか、追ってくる気配がない。
「よ、よかった……」
安堵し息を吐き、前方に目を戻す。
「――っ!?」
何かにぶつかった。いや、誰か、か。
握っていた小銃の銃口が、誰かの腹に減り込んだ。見られただろうか? 銃を。ここで悲鳴でも上げられれば、追手に見つかってしまう。男に再び緊張が走る。恐る恐る相手の顔を見ようとする。
だがその前に、かしゃんと乾いた音が地面から聞こえた。薄く雪が積もっているのでそれほど大きな音ではなかったが、静かな夜の路地では、よく響いた。
男は反射的に、音のした方へ目を落とした。黒いものが落ちていた。何だあれは? 何処から落ちてきたんだ?
「…………」
見覚えが、あった。
ゆっくりと、誰かの腹から銃を引く。
「!?」
そこにあったはずの銃身がすっぱりと消えていた。
いや消えたんじゃない――そこに転がっているじゃないか。
「ひっ――」
男は身を引き、誰かの顔を見た。深く被ったフードの下にキャスケットを被っている。その影になっていて顔はよく見えないが、耳元で何かが光った。
「ひあっ!」
すぐに悟った。あれは違界のヘッドセットだと。
震える足が雪に取られ滑り、上手く後退できない。
誰かは転がっている銃身と男の手元に目を遣り、一歩前に踏み出した。
「ひっ! くっ、来るな! 撃つぞ!?」
男の手元が震える。こんな銃で撃てるはずがない。誰かは立ち止まらない。
「危ないな」
誰かはそれだけ言い、男の横を擦り抜けていった。そのまま誰かが戻ってくる気配はない。
振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。さっきの追手とは違う人間だが、見逃してくれるのか? 銃身を切断したのも、唐突に銃を突きつけられたから、ただの護身で、それ以上の意味はなかったのかもしれない。
命拾いした。男はそう思った。違界ではそう有り得ることではないだろう。ここが違界ならば今頃男はもうこの世にはいない。
男は知らなかった。
もし男がフードの人物に誤ってでも発砲していれば、男はこの世にいなかっただろうことを。