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鳥になりたかった少女3  作者: 葉里ノイ
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第二章『会』

  【第二章 『会』】


 幼い頃から広い家で一人きりで、ずっと一人になれなかった。

 構ってほしかったのだろうか? 困らせたかったのだろうか? 煩わしかったのだろうか?

 少年は母親に訴えた。父親でも良かったが、父親はいつ帰ってくるのかわからなかったので、手っ取り早く母に訴えることにした。

 多忙な母は夜遅くに帰宅する。いつもは眠っている時刻に、眠い目を擦りながら起きていて、帰ってきた母に訴えた。

 疲れた顔をした母は少年の訴えに眉を顰めた。ああ顰蹙を買った、と少年はすぐに察した。

 いつでもそうだ。少年の個人的な訴えは、いつも顰蹙を買い棄却される。

 母は少年に向き合い、少し身を屈めて冷淡に言い放った。

「あなたはこの家に住まわせてもらっている立場なの。この家にいる以上、それは我慢するしかないことなの。いい? 言うことを聞かないと、また痛い思いをするわよ」

「……」

 少年は睨むように母を見上げ、踵を返した。

 わかっていたことだった。それでも、言葉は刃となり幼い少年に突き刺さった。まるで余所者のような言い方と、逆らえない圧力が、少年を蝕んでいった。



 翌日の朝早く、少年は家を飛び出した。

 今日は日曜日、小学校も休みだ。だが少年には習い事がたくさんある。家庭教師も来る。休む時間などない。ずっと家の中で縛りつけられている休日は、嫌いだった。

 始発電車に乗って、少年は友人の家を訪ねた。

 休日の早朝だ、まだ眠っているかもしれないが、少年はインターホンを連打した。迷惑極まりない。

 一分ほど連打した頃だろうか、ドアの向こうで鍵を開ける音がした。連打の手を止め、ドアが開くのを待つ。

「煩いな……またお前か」

 目を擦り欠伸をしながら、同じ年頃の少年がドアの向こうから顔を出す。てっきり親が出てくるかと思ったが、これは好都合だ。騒がれると煩い。

「斎が先に起きてよかった」

「親今いないから。また出張中。それより、また何かあったのか?」

「よくわかったな」

「何もないと来ないじゃないか」

 そそくさと家の中に入り、斎の部屋にお邪魔する。少年の自室に比べ随分と狭いが、程々に片付いている部屋だ。

「僕はもう少し寝てたいんだけど」

「寝れば? 俺はゲームする」

「音量小さくするならいい」

「わかった」

 少年は家庭用ゲーム機を引っ張り出し、テレビをつける。斎は欠伸をしながらベッドに横になり、コントローラを握る友人の背中に目を遣る。

「……なあ、また殴られたのか?」

 少年が、躾と称され家で暴力を振るわれていることを斎は知っている。体育の授業を欠席ばかりする少年に何となく理由を尋ねた時に、他言するなよと言われ、こっそり教えてもらった。内容は気分の良いものではなかったが、秘密を教えてくれたことには、それくらい信用してくれていると思い、友達として嬉しかった。勿論、他言はしていない。

 ぴこぴことコントローラを捌く後ろ姿が、気怠そうに話し出す。

「家ん中でずっと監視されんのが嫌だったから、俺に使用人近付けんなって言ったら怒られた。親父はいなかったから殴られてない」

「お前ん家大きいもんな。使用人がいるって、庶民にはよく想像できないな」

「この部屋に監視カメラついてるようなもん」

「うわ、それは嫌だ」

 わかりやすい例えに、斎は眉を寄せる。

「つか寝るんじゃねぇのかよ」

「気が変わった。僕もゲームする。コントローラ貸して」

「いいなそれ。俺も寝ながらする」

「げ、入ってくんな狭い」

「腹減った。朝メシ食ってない」

「煩いな本当に……何か作ってこいよ」

「俺、料理できねぇ。何か作れよ、アヤメちゃん」

「アヤメちゃんって言うな。……僕も軽くしか作れないからな?」

「いい。庶民の朝メシが食いたい」

「お前な……すぐ作るからお前も皿出したりしろ」

「えー」

 何ということはない、ただの他愛のない会話と時間が、少年には何よりの救いだった。


     * * *


「ま、あいつらがいない方が、今は都合はいいのかもな」

 飲み干したカップを片付け、机上に参考書やノートを広げる。

「雪哉は相変わらず人前で勉強するのが嫌なんだね」

「稔、ここの応用復習しておきたいから手伝え」

「はいはい。雪哉は熱心で偉いね」

 ぽんぽんと頭を撫でられると、すぐさま雪哉は手を払った。

 稔は雪哉の受験する大学に通っている。今は四年生でお互い忙しい時期だが、稔は何も言わず雪哉を手伝ってくれる。雪哉は見えない努力をするタイプだが、稔はその雪哉よりも頭が良い。いや、理解が早いと言うべきか。雪哉より少ない勉強量で志望校合格を果たした。その差が余裕となって現れている。

 子供扱いされることにムッとしながらも、花菜の前だからとあからさまな態度は取らない。

「この問題復習したら花菜と出掛けてくるから。稔抜きで」

「うん、いってらっしゃい。楽しんでおいで」

「稔兄ちゃんは一緒に行かないの?」

「兄貴は留守番っていう大役があるからな」

「そっかぁ」

「残念だね」

 優しく微笑む稔に頭を撫でられ、花菜はくすぐったそうに笑い、雪哉はまた手を払い除けた。

 稔はいつも穏和で、花菜もよく懐いている。雪哉にも同じように接するが、雪哉はそれが気に入らない。幼い頃は妹に嫉妬していたが、今は兄に嫉妬しているのかもしれない。複雑だ。


     * * *


 結理に渋々自宅に招かれた椎と灰音は、今まで見たことがない大きな個人宅に思わず感嘆の声を漏らした。右を見ても左を見ても、背の高い塀と黒い柵が続く。

「これ全部、結理の家?」

「厳密には私の養父の家だけれど、私の家と言っても過言ではないわ。そうよ、これは私の家よ」

「ふわぁ、凄い!」

「先に一つ言っておくわ。その軽い頭によく叩き込みなさい」

「頭の重さってどのくらいなの?」

「そうね、あなたの頭ならスポンジくらいかしら。

 ここは私の家と言っても、私以外は皆こちら側の世界の人間で、私が違界人だということも、違界のことも、何も知らないわ。余計な面倒事を避けるために、違界については何も吹き込まないでちょうだい。本当はその目立つヘッドセットと首輪も外してほしいところなのだけれど、変な人――いえ、個性的な人だということにしておくわ」

 面倒事はこちらもご免だ。椎と灰音は慎重に頷く。

 広い庭を抜け、聳える洋館の前に立つと、大きく見えた建物が更に大きく見えた。ルナの家がすっぽりと収まってまだまだ余裕のある敷地面積。ルナの家が幾つ入るだろうかと真剣に考えてみるが、答えは出なかった。

 ドアの前には初老の男性が立っており、結理の姿を捉えると恭しく頭を下げた。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 静かにドアを開け、結理達を中へ招く。

「ご学友の方でしょうか?」

 後ろについてくる椎と灰音を一瞥し、結理は「ええ、そうよ」と答える。クラスメイトでも友人でもないが、適当に相槌を打っておく。

「お部屋にお茶を」

「何もしなくていいわ。部屋も私が案内するし、あなたは暇を持て余して木目の数でも数えていればいい」

 すたすたと足早に去るので、椎も使用人だろう男性に軽く頭を下げ結理を追い、灰音は睨むように警戒しながら後をついて行く。

 高い天井を見上げながら広い廊下を歩き、ドアの前で立ち止まる。

「あなた達はこの部屋を使ってちょうだい。私の部屋はもう一つ上の階の奥だけれど、何かあればヘッドセットを使って通信してくれて構わないわ。一応この家全体に壁を作ってあるから、ヘッドセットの電波は外に漏れないし、外からも感知されないから安心して。何か質問ある?」

 想像していたよりこの家は厳重に守られているようだ。これなら、他の普通のホテルに泊まるより安全だろう。

「はい! 結理の家凄く大きいから、散歩してもいいかな?」

「思った以上にスポンジのようね。やめなさい。このドアが開くと自動的に私に通知が来るから、無闇に動かないことね」

「外に出ちゃいけないの? 退屈だよ」

「違界にいた頃は皆引き籠りでしょう?」

「いや、こいつはうろちょろと出回ってた。命知らずだから」

「まあ、スポンジ以下だったのね。よく生きているわね? それだけ力に自信があるのかしら?」

「いや、ただの馬鹿だ」

 それは大変ね、と呆れたように言うと、灰音も頷き溜息を吐く。結理も、手を焼く後輩――未夜が脳裏をちらつくのか、同情の意を示す。

 当の椎は、むぅ、と膨れているが、この苦労はわからないだろう。


     * * *


 行く当てがあるのかと思ったが、フラフラと寄り道をするばかりで、次第に目的地があるとは思えなくなったルナは、休憩にと立ち寄った静かな薄暗いレトロな喫茶店でチーズケーキを突きながら思い切って尋ねてみた。

「サク、これから何処に行くんだ?」

 宰緒はチョコレートケーキを一口頬張り、じっとルナを見る。

「いや、何も考えてない」

 あっけらかんとした答えに、ルナは二の句が継げない。てっきり目的地があって歩き回っていると思っていたのに。

「泊まる所、どうするんだよ? ネットカフェっていうやつに泊まるのか?」

「ぶっちゃけて言うと、俺が東京にいたのは四年前だ。あれから……少し景色が変わった」

「……迷子とか、言わないよな?」

「面倒くせぇ」

「何がだよ!」

 静かな店内に声が響き、慌てて口を押さえる。

「行く当てがないならどうするんだよ? 野宿なんかしたら凍死するぞ」

「誰が野宿なんかするかよ。寒いじゃねぇか」

「じゃあ泊まる所を探さないと」

 こそこそと小声で言い合いながらケーキを頬張る。まさかこんなことになるとは思わなかった。椎と灰音は結理の家で上手くやっているのだろうか。



 喫茶店を出ると、外はもうすっかり陽が暮れていた。暗い空に街灯と店舗の電飾がぼんやりと輝く。

「それで、これから何処に行くんだ?」

「適当に」

「…………」

 本当に何も考えていないようで、適当に歩く宰緒について行くと、次第に人が少なくなり、雑踏も薄れ、明かりも疎らな街灯だけになっていった。店もなくなり、住宅街が広がる。何処に行くのか、不安も広がる。

 駅まで戻った方が良いのではないかと宰緒に声を掛けようとした時、がさりと何かが落ちる音が前方から聞こえた。

 暗がりに目を凝らすと、物が入ったビニル袋が落ちている。その傍らに、ジャージの上にパーカーを羽織った少年が呆然と立ち尽くしていた。こちらを見て固まっている。状況が呑み込めず、宰緒も立ち止まる。ルナも様子を窺うが、ルナには見覚えのない少年だった。年の頃はルナ達と同じくらいに見える。

 少年は落とした袋をそのままに、ゆっくりと様子を窺うように、慎重に接近してきた。不安が混じった怪訝そうな顔で、宰緒の顔を覗き込むように凝視する。宰緒がじっとしているので、ルナも黙って様子を見守る。

 やがて少年は宰緒の前に立つと、顔を凝視しながら勢いよく両腕を掴んだ。さすがにこれには宰緒の肩も跳ねる。


「実体だ!」


「は……?」

 少年は深刻な表情で意味のわからない第一声を放った。宰緒はぽかんと眉間に皺を寄せる。

「誰だお前」

 目を細めて少年を見下ろす。宰緒にも見覚えがないのか。

 少年は小さく「あっ……」声を漏らし、慌てて手を離す。様子を窺うように宰緒を見上げ、首を傾ける。

「人違いか……? すみません、久慈道宰緒、ですか?」

「……敬語で呼び捨てかよ……。お前の名前は?」

綾目(あやめ)斎……です」

 名前を聞くと、宰緒は少し目を見開いた。

「ああ、アヤメちゃん」

「アヤメちゃんって言うな。って、やっぱり宰緒じゃないか」

「全くわからなかった」

「そうか? 僕は何となくわかったけど……小学校の卒業式以来か? 背が凄く伸びてるから驚いたけど――じゃない!」

「あ?」

「卒業以降全く連絡取れなくなって、死んだんじゃないかって噂も流れてたんだぞ!? 小無(こなし)さんも心配して……まさか自殺でもしたんじゃないかって、泣いて……」

「小無さん?」

「小無千佳のことだよ。忘れんな。ちょっと誤解されたから今は苗字で呼んでるんだよ」

「久しぶりだな」

「だから、何処行ってたんだよ……まさかとは思ったけど、そうとも言い切れないし……」

「お前も俺が死んだって思って泣いたのか」

「僕は泣いてない」

 一人蚊帳の外になってしまったルナは、二人が話す度に交互に見るしかできない。どうやら知り合いで間違いはなさそうだが、宰緒が東京にいた頃の友人なのだろうか。

 話にも加われずただ目を瞬いて見詰めるしかできないルナに、ようやく少年が気づいた。

「君は……宰緒の友達?」

「えっ、あ、はい……青羽です」

 油断していたルナは慌てて返事をした。少年はルナの緑の双眸を見詰めるが、暗くてよく見えなかったのか色に関しては何も言わなかった。

 宰緒は一歩脇に避け、初対面のルナと少年を紹介する。

「こっちが青羽ルナ。中学一年からの付き合い。で、こっちが綾目斎。小学校が一緒で連んでた。どっちも女みたいな名前だからな、仲良くなれそうだろ」

「……」

「僕のは名字だ」

「女っぽいか……」

「こいつのことはアヤメちゃんって呼んでいいぞ、青羽」

「宰緒、変なことを吹き込むな」

 会いたい人がいないとか行く当てがないとか言っていたのに、こんなに親しい友達がいるんじゃないか、とルナは思った。斎がジャージにパーカー姿で歩いていた所を見ると、おそらく近所に住んでいるのだろう。その近くまでフラフラとやって来たのだ、きっと偶然ではない。

「それで斎、お前の家に俺らを泊めろ」

「……は?」

 唐突な要求に斎はきょとんとする。

「泊まる所がないから泊めろ」

「や……ちょっと待て、泊まる所がないって、お前には家が……」

 宰緒の顔を窺い、言葉を探しながら言い直す。

「……あ、いや、そうか……親は今出張中だし、いいよ、泊まっても。青羽君も」

「いいんですか?」

「ん? ああ、あと、どうせ同い年だろ? 敬語じゃなくていいよ」

 軽く流し、斎は落とした袋を拾いに行く。

「夜はコンビニで済ませようと思ったんだけど、どうする? 何か買ってくる?」

「何か作れ」

「え、面倒だなぁ」

 袋の中を覗いて肩を落とした後、斎はコンビニとは逆の方向に向かって歩き出した。コンビニに戻らないということは、何か作るのか。肩を落とした所を見るに袋の中はきっと、落とした拍子に中身がぐちゃぐちゃになってしまったのだろうに。

 そこから少し歩くと、すぐに斎の家に辿り着いた。家の中に入ると宰緒はまるで自分の家のようにどかどかと遠慮なく二階に上がっていく。

「簡単なものしか作れないからな?」

「わかってる」

 階段の下から何ということはなく声を掛ける斎を見るに、宰緒がこちらに住んでいる時にはよくあったことなのだろうかとルナは推測する。

 宰緒について二階に上がるべきか斎に何か言うべきか迷っていると、斎は台所に入り、リビングを指差した。

「宰緒はゲームをしに行ったと思うんだけど、青羽君も行っていいよ。ゲームをしないならその辺りに座ってて」

 背を向け冷蔵庫に顔を突っ込んで、何があったかなとごそごそ漁る斎の姿に、ただ遠慮なく泊まるのでは申し訳ないとルナは手伝いを買って出ることにした。

「あの、何か手伝おうか?」

「え? 青羽君はお客さんだから座っててくれればいいのに。それとももしかして料理得意?」

「得意ってわけじゃないけど、よく作ってるからそこそこは……」

「本当? それは頼もしいな」

 冷蔵庫を漁る手を止めて振り向く。宰緒は全く手伝わないので、斎にはありがたい。

「青羽君ってハーフ?」

「うん」

 何も訊かれないのは珍しいと思っていたが、やはり斎も気になるようだ。

「へぇ、何処の国?」

「日本とイタリア」

「イタリアか。じゃあイタリア料理も作れる? パスタとか」

「うん、それなら」

「やった、本場のイタリアンだ」

 嬉しそうに笑い、棚の扉を開け、笑顔が一瞬で冷める。

「あ……パスタがない」

 乾物のパスタの買い置きがなくすぐに落胆。パスタ以外にもイタリア料理はあるが、真っ先に思い浮かんだのがパスタだったので、がっくりと肩を落とす。あまりに落ち込むので、ルナは近くにあった野菜を掴み、斎の肩を叩いた。

「パスタは長くなくてもいいなら、ジャガイモがたくさんあるし、ニョッキでも作ろうか?」

「それ聞いたことある。作れるの?」

「簡単だよ。イモを茹でて潰して、小麦粉と卵と混ぜて、捏ねて伸ばして……」

「青羽君凄いな。それでいこう」

 再び笑顔になった斎を見て、ルナはほっと安堵した。ジャガイモを台の上に置き、どんなソースを作ろうかと冷蔵庫を覗く。

「そういえば、青羽君は何処から東京に?」

「沖縄だよ」

「沖縄!? 随分遠くから……宰緒も今は沖縄に?」

「うん……あっ」

 言ってしまってから、言って良かったのだろうかと口を押さえる。先程の遣り取りから、宰緒は行き先も何も告げずに東京を出たということは明白だった。黙っていたのなら、言うのは不味かったのでは。

 それを察してか、ジャガイモを洗いながら斎はルナを一瞥して穏やかに言った。

「ああ、ごめん。何となく訊いただけだよ。他の人には言わないし、宰緒にも言わないよ。宰緒が僕に黙っていることがあるように、君にも黙っていることがありそうだしね」

「……サクのことは、あんまり知らない」

「そっか。――そうだ、一つだけ教えてほしいことがあるんだけど。宰緒は今、携帯電話は持ってる?」

「持ってないって聞いたけど」

「そうか……いや、ずっと連絡が取れなかったから、どうしたんだろうと思って。小学生の頃は持ってたから、何で繋がらないんだろうって余計心配になって、小無さんを宥めるのが大変だったな」

 小無さんという人も宰緒の友人だろうか。ルナの知らない宰緒の姿に、少し距離も感じるが、あれほど東京に行くのを嫌がっていたのだ、忘れたい過去でもあるのだろう。浴室で見た傷跡も、きっと東京に住んでいる時にできたものだろう。友人がいるということは、たとえ虐められていたとしても一人ぼっちではなかったということだ。だがそれがあそこまで東京へ行くのを拒むことになるだろうか。

 ソースに使う玉葱を切りながら考えるルナの隣で、斎はルナの指示で鍋に水とジャガイモを入れて火に掛ける。

「考え事をしながら包丁を握るなんて、青羽君結構慣れてるね?」

「そんなに丁寧に切らなくていいし……」

「そうじゃなくて、よく手を切らないなと思って。何か気になることでも?」

 言おうか言うまいか迷ったが、無意識に口が開いてしまっていた。

「サクの体の傷は何だったんだろうなって」

「!」

 斎の目がぴくりと見開かれる。

「傷のこと、知ってるのか?」

「偶然見ちゃって……東京に行きたくないのもその所為なのかなって」

「詳しくは知らないわけか……さすがにそれは僕の口からは言えないな。宰緒も言いたくないだろうけど」

「…………」

「君も、知らない方がいいかもね」

 意味深に苦笑する斎。言いたくないのなら言わなくてもいいし、無理に聞き出したりもしない。だが、急に遠くへ行ってしまった気がした。

 それからは宰緒に関しての会話はなく、ひたすら手だけを動かした。


     * * *


 窓の外は黒く、ちらほらと家々の明かりが見えるだけで、喧噪は聞こえない。

 重厚な調度品が並ぶ広い部屋。ドアや壁に耳を当ててみるが、厚いのか何も聞こえず、しんと静まっている。

 部屋の隅で銃の手入れをする灰音を一瞥し、ドアをそっと開けてみる。

 廊下は薄暗く、誰もいない。物音一つしない。

「なんだ、誰もいな――」

 ドアを開けて廊下に出ると、ドアの陰からにゅうと腕が伸びてきた。

「っ!?」

 腕を掴まれびくりと体を硬直させて振り返る。

「部屋の外に出るなと言ったはずだけれど?」

 長い黒髪に白い相貌が浮かぶ。

「ゆ、結理……」

「部屋の外に何か用? トイレならこの部屋の奥にあるドアから行けるけれど?」

「結理、眼鏡」

 白い相貌に掛かる眼鏡を指差す。先程までは何も掛けていなかったはずだ。

「話を逸らさないでくれる? 家では眼鏡なの。外ではコンタクトだけれど」

「眼鏡、似合う」

 話を逸らそうとしているのか馬鹿なのか、白い目で見下ろすように見遣ると、観念したようだった。

「ごめんなさい」

 結理は溜息一つ。

「それで、何か用なの?」

「散歩」

「……」

「ドアを開けたらどうなるのかなと」

「遊ばないで。私は暇じゃないの」

「忙しいの?」

「そうよ。だから早く部屋に戻って」

「何かあったの?」

「!」

 薄暗い廊下で窓から月明かりに照らされ、真っ直ぐ瞬きもせずに見詰めてくる椎に、結理は背中に冷たいものが走る感覚を覚えた。頭はスポンジだのただの頭の弱い馬鹿な子だと思っていた結理は、不意に放たれた静かな圧力に息苦しさすら感じた。完全な無表情。いつもの柔らかい笑顔はそこにはない。

「あなた……」

 目を細め、眉を寄せる。

「……いえ、何でもないわ。あなたと違って学生は忙しいの。早く部屋に戻りなさい。言うことを聞かないと青羽君に言いつけるわよ」

 青羽、という名前に、椎はぴくりと反応する。スイッチが切り替わったかのように、ぱちりといつもの笑顔に戻る。何だったのだ、先程の異質な雰囲気は。

「学生? 結理も学校行ってるんだね! 邪魔してごめんね?」

 そう言うと、椎はおとなしく部屋に戻っていった。踵を返す時に躓いたのか少し蹌踉めいたが、その他には特に変わった所はなく、部屋の隅にいた灰音も気にせず銃の手入れをしている。

 ドアを閉め、結理は目を伏せる。

(……面倒な子を招いてしまったかしら?)

 ふるりと首を振り、自室へと足早に戻る。

(愛しい子達でも観賞して落ち着きましょう)

 自室に隠したお気に入りの美しい眼球のことを思い、結理は軽やかにステップを踏んだ。


     * * *


(想定外のことはあったけど、今日は花菜と散策できてよかったな。俺の試験がなければもっと遊べるのに)

 花菜に振り回されながら動物園を巡るのは忙しなかったが、楽しい時間を過ごせた。花菜も喜んでいたし連れてきた甲斐があった、と雪哉はふふんと笑う。疲れたのか花菜は今日は早くに眠ってしまい、雪哉は一人で近くのコンビニまで夜道を歩く。

(寒……)

 マフラーに首を埋め、白い息を吐く。風を受けないためにのろのろと歩いていると、ちらほらと雪まで降ってきた。

「っ!」

 沖縄に住んでいると雪なんて見ない。暗くてはっきりとは見えないが、初めて見る雪に自然と心が躍った。ポケットに突っ込んでいた手を翳すと、ちらつく雪に触れ、すぐに体温で溶けて消える。

「マジで冷たい」

 花菜にも見せてやりたいと思ったが、疲れて眠っているのに無理矢理起こすわけにはいかない。この寒さなら明日も降るかもしれない。明日降ったら花菜にも見せてやろう、と心に決める。

 雪哉は名前に『雪』の字が入っているが、雪の中で生まれたわけではないし、冬生まれでもない。生まれた時の肌の色が白く、雪のようだと、こんな名前をつけたらしい。これが由来の雪か、とちらつく雪の中に手を伸ばす。

「白い……か」

 白と言えば、雪哉が畸形に襲われ入院した時、移植が完了し目を覚ますと、少し顔色の悪い花菜がいた。後から結理に聞いたが、花菜は雪哉のために自分の血を使ってほしいと言ったそうだ。花菜はまだ十五歳だし、体も小さい。そんな彼女から何故血を抜いたのかと掴み掛かりそうになったが、術後でまだぼんやりする体ではそれは叶わなかった。それでも無理矢理身を起こそうとする雪哉を手で制し、結理は耳元に囁くように言った。花菜があまりに必死だったので、少し採血する程度の血だけ抜いた、と。花菜は献血をしたことがないし、馬鹿みたいだから少量の血だけでも、まあこんなものだろうと思うだろう、と判断し行ったらしいが、人の妹を馬鹿だと言われるのは腹が立った。確かに知識は少ないし騙せるとは思うが。そして、花菜を思うなら一応口裏を合わせてくれ、と言われた。花菜の好意を無下にするなんて考えられない。雪哉は即座に頷いた。梛原結理は癖のある少女だが、根は良い奴なのかもしれない。

 そんなことを思い出していると、突然頭に衝撃が走った。

「!?」

 重い衝撃が後頭部を打ち、押し付けられる。不意打ちに雪哉はバランスを崩し、前のめりに地面に手をついた。

「何だ……?」

「あらごめんなさい。こんな所に人がいるとは思わなくて。暗くてよく見えなかったわ。大丈夫かしら?」

 声が降ってきたのでゆっくりと振り向くと、長い黒髪に学生服を着た少女が雪哉に手を伸ばしていた。

 手は取らずに踏まれた頭を擦りながら立ち上がり目線を合わせると、その少女に見覚えがあることに気づいた。少女の方も、ハッとした顔をする。

「……梛原結理?」

「あら、凄い偶然ね。夜の散歩かしら」

「何で上から……危ないだろが」

「パトロールしているだけよ。この辺りは私の管轄だもの」

「管轄?」

「あら? てっきり青羽君達に何かと聞いているものかと。知らないのなら私からは言えないわ。無闇に情報を与えるのは良くない」

「……違界関係か?」

「あらあら。察しは良いのね」

 知らないだの何だの、ルナ達が知っていて雪哉が知らないとなると、違界関係が真っ先に浮かぶ。特に、結理絡みだと。

 結理は雪哉の方を向いたまま、一歩二歩と後退する。

「あんまり首を突っ込むと、また畸形にグサリとやられてしまうわよ? 今度はあなたの妹さんかも?」

「!!」

「あの畸形もまだ始末できていないみたいなのよね。無能な木偶が管轄じゃあね」

 くるりと踵を返し、近くの塀に跳び乗る。

「気をつけなさいな」

「あっ、おい!」

 とんと塀を蹴り、夜の闇に紛れる。追おうかとも思ったが、足が速くすぐに見失ってしまった。

 警告、なのだろうか。何にせよ、警戒するに越したことはない、か。

 小雪舞う中、雪哉は足を急いだ。


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