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I'm a Loser

「吉田君。新入社員じゃないんだから、そのくらい自分で判断してくれないか」

 吉田裕之は葛藤の中にいた。

 上司、南本芳樹の口癖「そのくらい自分で判断しろ」と「勝手に判断するな」の"そのくらい"のさじ加減がわからないのだ。どのレベルから上司に報告しなければならないのか。

 いちいち高圧的に来られるので、報告相談をためらい自分で処理すると叱られ、逆に報告相談すると、やっぱり叱られる。叱られるたびに委縮してしまい自分がいかに卑小な人間であるかという現実を突き付けられるのだった。

 人材育成能力や人間性は別として、実務能力があるいわゆる切れ者で仕事面では尊敬できる上司だけに、心の中で毒づいたり自己正当化するのも自分がよりみじめになりそうで嫌だったから、逃げ道を絶たれた状態と言えた。

 いつものようにサービス残業をこなし、終電に揺られながら裕之は虚無感に近い感情に襲われていた。いつもの習慣でスマートフォンを取り出しネットゲームを始めたがすぐにログアウトした。電車通勤の時間を読書やスキルアップに利用する気力がなく、ネトゲにハマっていた裕之だったが、今夜はネトゲをする気力さえなかった。

 俺はいったい何のために生きてるんだろう。社会の歯車にすぎないことを自虐する人はよくいるが、歯車として機能しているならいいじゃないか。俺みたいに不良品の歯車は存在意義さえない。

 車窓に映り込むさえない中年男に、心の中で話しかける。おい、お前はこのまま朽ち果てるつもりか。ロックスターになりたかった高校生のころのお前が、今のさえないお前を見てどう思うだろうな。アマチュアバンドのフロントマンとしてそれなりに女の子にもモテたお前が二十五年後にこのざまだよ。小学生の頃はスーパーヒーローに憧れたっけ。なんとかレンジャーごっこのときはお前がメインキャラだったな。まさか、そのお前が社会にでたとたんメインから外れるどころか、アシストさえ満足にできない無能になるとはな。

 車窓に映るくたびれた中年男は自虐的に歪んだ笑みを浮かべた。


 改札を抜け夜道を歩く。

 いつもなら、寄り道などしないのだが、何かを感じたのか単なる気まぐれなのか、裕之の足は公園の前で止まった。妻はもう寝ているだろう。最近はまともな会話もない。子供には恵まれなかった。どうせ俺を待ってる人はいないんだ。

 裕之は公園のベンチに腰掛けた。

 頼りない街灯の灯りは、裕之自身の投影のようでもあった。

 煙草を咥え、過去の自分と現在の自分の比較検証作業を再開した。大学のテニスサークルで仲良くなったのが今の妻だった。あいつも昔は可愛かったな。昔はな。

 こんなネガティブな堂々巡りの思考に囚われるのは危険だとわかってはいるが、ポジティブな思考法はとうの昔に忘れてしまっていた。

 煙草の火を消し携帯灰皿に入れ、鉛の入ったような疲れた体を立ち上げようとしたときだった。

 閃光と爆発音、そして風圧が裕之を直撃した。

「グゴオォォォォ!」

 得体のしれない獣のような咆哮が耳朶を打った。振り返るとそこには――

 悪魔がいた。

 濡れた闇のような黒々とした硬質の皮膚。膨大な筋肉をまとった体躯はおそらく裕之の二倍はあった。裂けるように赤く拡がった口腔には鋭い牙が並び、双眸は鬼火のように禍々しい光を放っている。

 事態を把握しないまま本能的に恐怖を感じ逃げようとするが脚がもつれ転倒する。地面を這う裕之。悪魔は無様に這う裕之を無視して、そのまま通り過ぎていく。悪魔の長い脚の動きはどこか昆虫を連想させるものだった。

「逃がさないわよ!」

 その女性の声は、地声というよりアニメ声優がよく使うフェイクの発声法だ。緊迫した状況にこれほどミスマッチなものはないだろう。とはいえ、日常世界に突然悪魔が出てきたこと自体がミスマッチであるのだが。

 声の主は、緑色の華やかな衣装をまとったローティーンの女の子だった。

 女の子は異常な跳躍力を発揮して宙に舞い、手にした奇妙な杖のようなものを悪魔に差し向けた。

「ペパーミントフラッシュ!」

 杖の先から緑色の光線が放射され悪魔を直撃する。

 悪魔は耳を聾する咆哮をあげ苦しんだはてにそのまま動かなくなった。

「この世に悪がある限り、マジカルキャンディがおしおきよ!」

 女の子はフリルのついたミニスカートをひらりとさせ、杖のようなものをくるりとまわしウインクした。

 なんだ、これは。

 俺は疲れてるんだ。こんな意味のわからない幻覚を見るなんて。しばらくはサービス残業は控えよう。

 吉田裕之はぶつぶつと呟きながら立ち上がって砂を払った。

「おじさん?」

 女の子に声を掛けられる。

「幻聴に幻覚。ストレスが溜まってるんだ。一度温泉にでも行こう」

「やっぱり。おじさん、わたしの姿が見えるのね!」

 女の子が顔を近づけてきた。異常なほどに可愛い。甘さのなかにミントのような清涼感のある香りが裕之の鼻腔をくすぐる。

「ということはおじさんも選ばれし戦士なのよ。さあ魔法少女マジカルキャンディの一員になって一緒に悪と戦いましょう!」

 裕之の手を握る。

「重症だ、これは」

「いい加減にして! 目を覚まして。これは現実よ!」

 肩を揺さぶられる。裕之はしぶしぶ認めた。

「わかったよ。確かに幻にしては細部までリアルすぎる。で、これが現実だとして、俺が魔法少女になるってどういうことだ。俺は見てのとおりの四十過ぎのおじさんだぜ。こんなのが君みたいな衣装着たら地獄絵図だろ」

 今でこそ貧相なスーツに身を包む安サラリーマンで休日も安い服しか着ないが、ロックバンドをやっていたころは衣装やメイクに凝っていたぶん美意識には敏感だ。だらしない肉体と疲れた顔のおっさんがこんなきらきらした衣装を着る絵面を想像して、裕之は身震いした。

「ってことで残念だけど、お断りするよ。じゃあ帰るね」

「断る理由はあなたがおじさんだから?」

 しつこい。

「そういうことだね。俺が君みたいな美少女だったら魔法少女でも何でもなってやるさ」

「言ったわね。約束よ」

 自称魔法少女はポケットから煙草のような形と大きさの、しかし明らかに煙草ではないものを取り出した。

「いやごめん、俺は変なクスリとかに興味ないから」

 裕之の言葉を無視して、少女は煙草のようなものを指先でくるりと回した。その途端、それは全長八十センチ前後、直径は三センチ程度の杖らしき物体に変化した。先ほど彼女が戦いのときに用いていたものと同じものである。先端にメダルのようなものがきらきらと輝き、ハートマークが刻印されていた。いかにも魔法少女のアイテムという感じの代物だ。

「ラブパワーステッキっていうの。さあ、これをこう握って、私の言うとおりに唱えてね」

 半ば強制的に持たされる。

「愛の精霊よ! しずけき夜の星々よ! 我に力を! シャルマンシャルマンプティフィーユ!」

 いい歳こいたおっさんにそんなことを言わせる気か。ちょっとした変化球のセクハラだろ。

 だが、内心の抵抗と無関係に勝手に口をついて呪文が出てくる。

「愛の精霊よ! しずけき夜の星々よ! 我に力を! シャルマンシャルマンプティフィーユ!」

 自らの意志と無関係に、芝居がかった調子で呪文を唱えたと同時に、裕之の体は眩い色鮮やかな光ときらきらとした音の乱反射に覆われた。

 光が消えると、裕之がいた場所には華やかな衣装を纏った少女の姿があった。

「魔法少女マジカルキャンディソルト参上! 悪い子は塩漬けにするわよ!」

 決め台詞らしきものがすらすらと口から勝手に出てくる。いわゆるアニメ声である。

 決めポーズをしたあとようやく自分の体が自分の意志で制御できるようになった。

「……」

 裕之は公園の汚いトイレに駆け込み鏡で自分の姿をまじまじと見つめた。

 魔法少女の衣装に身を包んだ異常なほどに可愛いローティーンの少女の姿。胸元には塩の結晶をイメージしたと思われる透明なつぶつぶが煌めいている。

 背後から声を掛けられる。

「おじさんの姿じゃないから大丈夫でしょ。約束は守ってね。今日からあなたはマジカルキャンディソルトよ。わたしはキャンディペパーミント。よろしくね」

「キャンディソルトって塩飴ってこと? 可愛くないわね」

「魔法少女を押し付けられた不満じゃなくて、そっち? 適応が早いわね」

 キャンディペパーミントはくすっと笑った。

「可愛い名前のアカウントは既に登録済みなのよ。わたしもキャンディハニーとかキャンディストロベリーになりたかったわ」

 アカウント? 

「変身した状態をログインとするなら、あなたの場合はソルトがID。さっきの呪文がパスワードよ。呪文はシンプルだからアカウント乗っ取りの防止のためにラブパワーステッキには声紋と指紋認証機能が付いてるの」

 ステッキの握りかたに注文をつけたのは指紋認証のためだったのか。

「なんだかネットゲームとかSNSみたいなのね」

「あなたの今の姿は、ネトゲやSNSでいうアバターやアイコンってところね」

 未知の魔法の世界もネットゲームやSNSに置き換えていくとなんとなく理解した気になる。 

「つまり女の子に成りすましてるわたしはネカマってこと?」

 自虐的な冗談として言った言葉が禁句だったようだ。沈黙が流れた。

 しばらくの沈黙のあとキャンディペパーミントは言った。

「そうね。でもあんまりそういうことは言わないほうがいいわよ」

 鈍い裕之もようやく事態を察した。裕之の今の姿がかりそめのアバターであるのと同じように、ペパーミントもそうなのだ。その正体はメタボのおばさんかも知れないし、加齢臭漂うオヤジなのかも知れない。女言葉を強調した感じのいまどきじゃない喋り方もネカマの特徴に似ている。

 世の中には知らないほうがいいこともあるのだ。

「今日みたいに、悪魔とのタイマン勝負もあるけど、基本はチーム戦だからね。今後、一緒に戦うこともあると思うわ。その時はよろしくね。じゃあ、洗い物しなきゃいけないから、そろそろ帰るわね」

「洗い物? 主婦なの?」

「あーーーー! 今のは聞かなかったことにして。わたしは謎の美少女キャンディペパーミントよ。ステッキは魔法ネットにアクセスするための端末だから大切にしてね。それじゃあ、またね」

 キャンディペパーミントはラブパワーステッキを回転させると宙に舞った。

「ペパーミント、待ってよ! 訊きたいことまだまだいっぱいあるのにぃ!」

 空の飛び方もわからないし、攻撃のしかたもわからない。マジカルキャンディや悪魔が何者なのかも把握しきれてない。魔法ネット? アクセス? 「わたしが見えるの?」って、言ってたってことは普通の人には魔法少女の姿は見えないってこと?

 もう一つ肝心なこと。変身の仕方はわかったけど、元にもどる方法は?

「ログアウトの方法教えてよ!」

 しかし、キャンディペパーミントの姿はすでに小さく遠ざかっていた。

 このままログアウトできなかったら、どうしよう。この姿では家にも帰れないし、会社にも行けないわ。

 取り残されたキャンディソルトは立ち尽くし空を見上げた。






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