青春の値段
解約する予定だった口座をATMで覗いてみたら、身に覚えのない金が振り込まれていた。50万円。
桁をいくつか数えて、マイナスじゃないことを確認して、不意に汗が止まらなくなった。ゼロを数えて、カンマを数えて、数えて、数えて、引き落としではないことを確認すると、きょろきょろとあたりを見回した。
心当たりはなかった。
預金通帳の表を見て、持ち主の名前を確認した。間違いなくぼくの名前だ。
バイトで疲れ果てて麻痺した頭の隅っこは、合理的な思考を放棄している。美味い話。ただより高いものはない。でも、財布の中はすっからかんで、帰っても、冷蔵庫にはほとんど食べ物が残っていない。震える手で一万円だけ引き出すと、足早にATMから離れていく。
消えてなくなっていないかと財布の中身が気になって気になって仕方なくて、用もないのにコンビニに二度寄った。三度目で飲めもしない酒を買って、お釣りを受け取った。深夜のコンビニにはほとんど人がいなかった。
自分のものじゃない金だ。
小銭ですら何倍も何倍もずんと重かった。
帰ってみると、驚くほどに安いアパートには何もない。いつもどおりだ。上下からどんつくとやたらなバンドの音が聞こえてきて、どさりと置いたビニール袋からビールの結露がしみだしている。ビニール越しの水はたしかな冷やかさを伝えてきてはいるけれど、それでも指先は塗れなかった。敷きっぱなしの布団に倒れ込んで天井を眺めて、通帳を透かす。消えてなくなったりはしないのだった。
1億もらえたらとか、2億拾ったらとか、戯れに考えたことはあるけれど、これはいったい何の罠なんだろう。50万円。何かの手違いで、口座番号が一桁ずれた?電話を掛け間違えるように。そんなことってあるのかな。いまどき何でもコンピューターだけど、コンピューターだって間違うから。
不法取得、手違いでしたから。無理やりお金を貸しつける詐欺。色々なことが頭に浮かんだけれど、疲れた頭はロクに働いてくれなかった。どうだっていいや。
次の日になると、ようやくまずいなという実感がこみあげてきていた。バイトに間に合いそうになかったから、電話で休むと伝えた。怒鳴られたけど、具合の悪そうな声を出したら店長はゆっくりと諦めたような声になっていった。サボるなんてままないことだから、たまには。
いや、実際、今、ぼくは具合が悪いのだ。
ーーー
数カ月過ぎても、数カ月過ぎても、請求はまるでなかった。50万円。それどころか、それからもたびたび、お金が、振り込まれてくる。でもそちらの方はたびたび小さな額で、100円とか、500円とかで、段々と減っていくのだった。きっとこれから終息するのだろうな。ぽつぽつと小さくなっていって、なくなるんだろう。
それがいいや。咎めがなければもっといい。
振込人の名前はよくわからない名前の、普通の男らしかった。カンザキ。カンザキ。日常に不釣り合いな半角カナを透かして笑った。
騙されているのかな。お金が余っているのかな。迷惑メールみたいに? あれってホントにあるの?
不思議なことがあっても相変わらず僕はフリーターで、少し贅沢をしようとしても罪悪感と良識が邪魔をする。おいしいものを食べたところでひよってしまって、お金のほとんどはまだ残っている。
不登校になって、レールから外れてしまえば後は早かった。人と接するのが苦手な僕に出来るような仕事はそうそうなくて、ちょっとばかり良かった成績なんてなんの盾にもならない。
お金は、お腹が空いた時にひっそりひっそりビスケットでもかじるように歯形をつけて、不気味だと思い始めてからめっきり触らなくなった。
いつバチがあたる。
深夜のコンビニを掃除していたら、サラリーマンがこちらを見ていた。スーツの。くたびれていないサラリーマン。えりがしましまで、ネクタイが赤い。ごく普通のサラリーマン。
いつものぼくだったら、きちんとした社会人っていうすがたに気後れして目を逸らしたのだろうけれど、奇妙なパワーが沸き出ていた。
ゆっくりと表情を窺ってみた。人の目を真っ直ぐ見るのなんてどのくらいぶりだろう。ぼんやりした電灯の下に浮かび上がる。じっとこちらを睨んでいる。会釈をするけれどそのサラリーマンの視線は留まることを知らなくて、気まずくって目を逸らす。人の目をまともに見られなくなってどのくらい経つだろう。やっぱり、ぼくはぼくだ。
みじめさがなんとなくがさごそと記憶を漁り、苦い思い出を思い出させた。
心当たり。そう。こころあたり。
震えが起きた。吐き気がこみあげてきて、コンビニのトイレに駆け込んで、洗面台で吐いた。
どうして僕が不登校になったのか。どうして僕が。
エスカレートするかつあげがあった。振り込まれてくる額は、ぴったりかつあげされた額と一緒だ。100円、200円。だんだんひどくなっていって。親のクレジットカードを渡して。限度額いっぱいまで使われて。それが50万円で。
カンザキ。カンザキ。
名字が変わっていたから分からなかった。
すべてに合点がいって、ぼくは泣き出した。
あの時の清算だったんだ。馬鹿らしい。
あの通帳の金は、僕の青春の値段なんだ。慰謝料だったんだ。失った十年と数年の値段。トイレの便器を見つめながらしゃくりあげて、ぼくはみっともなく嗚咽していた。