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珈琲カップ

作者: 天帆出

某SNSサイト内、小説サークルにて投稿

テーマ『珈琲』


 おまえは何者だい? と聞かれたら、『珈琲カップよ』と答えるわ……




 時は大正。かの大戦が終結を告げた翌年の事でした。


 白磁の肌に明るく流れる一房の髪のような金の縁取り。それが私。

 ガラス戸棚の中から見つめる、籐のザルに散りばめられた褪せた緑色の豆達を叮嚀により分ける指先。丸い眼鏡の奥から、より分けた彼らを愛おしそうに見つめる瞳。

 彼はこの古い邸の主で、私のご主人様。

 彼が愛する書物と珈琲の香に囲まれたこの部屋が私のすべて。

 ほら、彼の指が止まったわ。満足気な笑み。そして彼は選りすぐった豆を持って部屋の隅にこしらえられた小さな台所に向かう。

 浅い鍋を小刻みに揺さぶりながら豆を煎るの。こんがりと茶褐色になったなら、マメ達は粉に姿を変え、陶製の容器に盛られてお湯を注がれ、そしてやっと、私の出番。

 私の居る棚には他にもたくさんのカップ達が並んでいるけれど、同じ顔をしたカップはひとつも居ない。彼が昔お仕えしていたという異国の人が好んで集めたカップ達。

 けれど私は彼らと違うのよ。

 彼の元にはたくさんのお客様が訪れて、お仕事の話をしながらいつも珈琲をふるまわれるけれど、彼は絶対に、私を他のお客様には使わせないの。

 時々私を見上げながら私で珈琲を飲んでみたいと所望される方もいるけれど、彼は絶対にそれをしないの。

 私、大切にしてもらっているわ。それが私の密やかな自慢。

 私の出番は彼が一人きりで珈琲を楽しむ、日に三度の時にだけ。

 彼は私に香り高い珈琲を注ぐと窓辺の一番明るい場所に立てかけてある一枚の写真の前にそっと置いて、《私達》に微笑みながら珈琲を飲むの。

 写真の中には私の縁取りと同じ金の髪、私の白磁と同じ白い肌で、穏やかに微笑む少女。けれど今この邸に居るのは私と彼の二人だけ。

 何故その少女が居なくなってしまったかのは解らないけれど、彼のとても大切な方だったでしょう事は分かるわ。その方と同じように、私、大切にされているのよ。

 この甘い香りに包まれるひとときが私は大好き。


 なのに、あぁ。ドアのベルが邪魔するように鳴らされる。

 彼がカップを置いて『やれやれ』と溜息を吐きながら部屋を出て行く。

 彼と私の時間は始まってからまだ十分と経っていないというのに。

 今日はいったいどんなお客様にこの甘い時間を邪魔されたのかしら。

 異国の文書を訳して、お返事も書いて欲しいと頼む軍人さん?

 貿易で送り出す品の説明と契約書を作って欲しいと頼む商人さん?

 それともこんな朝早いお茶の時間に来られるのは、貴族と呼ばれる紳士淑女な方の、『教養』のお時間?

 どちらにしても、私はまだ湯気の残る珈琲を捨てられて冷たい水で洗われて、またあの棚に戻らなくてはならないのね。

 お仕事だもの。解っているわ。それに、どのみち私には文句を言える口もないもの。


 扉が開いて一歩先に入ってきた彼が、エスコォトするようにお客様を招き入れる。

 あぁ、今朝のお客様は女性なのね。

 ふわりと長い髪を揺らして入ってきた女性。

 珍しいわ、異国の方ね。妙齢のご婦人。彼よりわずかに年下かしら。

 けれど、扉で立ち止まって見つめ合いながら微笑む二人を見て、私の胸がきゅんと痛み叫んでしまった。

 私の縁取りと同じ明るい金の髪。皺が増えてしまっているけれど、私、この方の微笑みに見覚えがあるわ……




「このお邸、あなたが守ってくれていたのね」

「維持の為に旦那様の置いてゆかれた絵画など、随分処分してしまいました」

 老婦人は静かに頷きながら布張りのソファに腰を下ろした。

「このソファ、懐かしいわ。半世紀も過ぎたでしょうに大事に使ってくださったのね。嬉しいわ」

 彼は少し言葉詰まらせ頬ほ染めた。

「……貴女との思い出の残るソファですから」

 彼女は頬染める彼の顔を見つめ、瞳を潤ませ微笑んだ。

「書生だったあなたに恋をして、初めて口づけたわ……私にも大切な思い出よ……」


 清国と日本国の間で戦争が始まると、独逸と日本国の関係は掌を返したように悪化した。

 貿易の仕事で日本国に滞在していた彼女の両親も帰国せざるを得なかった。


「祖国に戻って父は祖父が営んでいた雑貨のお店を継いで、私もお手伝いをしていたけれど、心労が祟ったのですね。早くに他界して、母もやがて追うように無くなりましたわ。

 それからは私がお店を継いでいたのだけど、大戦が終わって貿易の仕事をしている知人が日本国との交易を再開して、読み書きの出来る事をかっていただいてお手伝いをさせていただくようになって……」

 彼女はふぅっと息を吐き

「翻訳を生業にしている方々の名簿からあなたの名前を見つけて……やむたてもたまらずに渡日してきましたの……」

 彼が、彼女の頬にふんわりと指を添えた。

「僕は……貴女が帰国されてから便りも得れず、諦めてしまっていました……」

 二人は古いソファで互いの背に腕を回し、きつく抱きしめあった。

 重なった胸に緩やかな鼓動が流て溶け合う。


 どれほどの刻を抱き合って過ごしただろう。

 彼がふと我に返ると、窓辺に差し掛かっていた朝陽は遠い空に昇っていた。

「飲み物も何も出さずに……」

 正午の時を継げる鐘の音に彼が慌てて取り繕う様を、彼女はやんわりと制し、

「このお邸に入った時から気になっていましたの。大好きな珈琲のかおり。よろしかったら、午餐に珈琲を淹れてはくださりません?」

 流暢な日本の言葉で彼女が望むと、彼は背筋を伸ばして改まって頭を下げた。

 そして、ずっと蚊帳の外に居た写真立てと白磁のカップに目を運び

「ぜひ使っていただきたいカップもあるのですよ。貴女がご両親と帰国された後に、さる華族様のお宅で見かけて、どうしてもとお願いして譲っていただいたのですが……」

 彼が写真立てと添えられたカップに歩み寄る。

「掌に吸い付くような白磁と、貴女の髪とよく似た控えめな金の装飾……まるで貴女を映したかのように思えて、どうにかで一客だけ譲って頂いたのです」

 そう言って彼は《彼女》を手に取った。

 そして次の瞬間、眉間に皺を寄せてしまった。

「罅が?」

 カップの縁から細い線が足元まで延びて、褐色の液体を受け皿に流し溜りを作っていた。

「すみません。今朝までは何ともなかったのに……どうやら罅が入ってしまったらしい」

 彼が戸惑いがちに白磁のカップを衝立の向うへ持っていこうとしたのを、彼女はやんわりと制しながら受け取った。

「勿体ないわ。手つかずの珈琲なのでしょう?」

「それはもう冷めてしまっています。淹れなおしましょう」

「そうね。ありがとう。でも私喉が乾いてしまいましたの。温かい珈琲が入るまでの潤しにこれを頂きますわ」

 にっこりと珈琲を手にする彼女に何も言えなくなってしまって、彼は衝立の向こう側にある台所へと焦り向かった。先ほど煎った珈琲豆がまだ残っている。


 薄い罅割れから褐色の液体がしみ出るカップを唇に当てて、彼女は声に出さず囁いた。

「あなた、私の代わりにずっとあの人を見守ってくれていたのね。ありがとう……

 大丈夫よ。罅が入ろうと、割れてしまおうと、あの人と共に居てくださったあなたをこれからも大切にするとお約束するわ」

 《彼女》は夫人の両掌の温もりに包まれて、罅から流れ出る珈琲がまるで涙のように止まらない。




 ……そして私は、眠りについたの。懐かしい遠い日々の写真とともに……




― 了 ―


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