虚言と流布。その一言で人の命が失われるとしたら
先日夕方に起きた熊本県の地震。
被害に遭われた方も、それを助ける方々も、この猛暑の中での作業や生活は、とても大変であろう事が容易に推察される。まずは一日も早く救援の手が差し伸べられ、二次被害に遭われない事を願うばかりだ。
また、今回は前回の4月に起きた地震と違い、真夏の暑さをどう凌ぐかも課題だ。停電であれば車に逃れるしかないが、車中泊が続くことでエコノミークラス症候群になる事も心配される。まだ水も電気も復旧していない所も多いと聞く。どうか皆様、十分にお気をつけて過ごされてください。
そんな折に、やっぱり流れてくるのがデマやフェイクニュース。SNS等では、ここぞとばかりに投稿されている模様。実に嘆かわしいことである。
ただ己の欲望のまま、無責任な言葉や感情を垂れ流すのは、いかがなものか。また、そんな人間ほど、ほんの一握りの事実を織り交ぜて、或いは一滴の嘘を巧みに織り交ぜて、「完全な嘘ではない」「ほぼ事実だ」と言い逃れようとする。それだけではなく、意図的に一部の事情を隠し、それがあたかも事の次第の全てであると見せかける事もある。
一時の快楽と承認欲求の為に人を振り回すのは、いい加減止めていただきたいと、この機会だからこそ切に願う。
これは何も今回に限った事ではなく、残念ながら色んな場面で見受けられる。その出来心、そのひと言で、人間の命は時に失われることもあると分かっているのだろうか。
そして垂れ流された言葉をよく確かめもせず拡散することも、同様に罪だと言わざるを得ない。信憑性を担保する責任が無い所から情報を得るというのであれば、それを吟味して取捨選択するのは、己の責任になる。自分で情報をしっかり確かめもせずに鵜呑みした挙句、偽の情報を発信してしまうことは、厳に慎むべきではないだろうか。
厄介なのは、それが「正しい」と思い込んでしまう場合が往々にしてあることだ。ただでさえ情報が不足する中で紛らわしい情報が流れれば判断のミスリードを誘う。それが集団化すれば同調圧力も相まって、違和感を覚えたとしても逆らい難い流れができるだろう。また、盲目の正義は時に人の存在を否定し、それすらも「良し」としてしまう。これは大変恐ろしいことだと思う。
言葉は社会的に人を抹殺するだけでなく、実際に命を奪うことすらある。良かれと思ってやっている時、ただ面白がって嘘に加担している時、正義と思い込んで人を断罪する時、それは本当にしても良い事か、やり方が間違っていないかどうか、考えているのだろうか?
その一文を考えている時、その一言を投じる時の顔は、果たしてどんな顔をしているのだろう。自分の顔が歪んだ顔になっていないか、一度立ち止まる必要があると思う。何より、そんな自分の姿を自分の子どもや家族に見せられるかどうか、発信する前によくよく振り返っていただきたい。
虚言と流布。
その一言で人の命が失われるとしたら。
それでも、それを続けるつもりですか?
我が家でも、ネット上の動画で得た情報を過信して鵜呑みにする息子に、その都度危うさを諭さねばならず、こうした問題が身近な脅威であることを痛感させられるのです。
今さっきも揺れたのです。
現地の人達の心痛は如何ばかりか。
八代もこの春に立ち寄ったばかりなので、余計に来るものがあります。




