インポの神様
「ちょっと一真、やめさせてよ。毎朝、毎朝」
薫が五枚切りの食パンにマーマレードを塗り付けながら文句を言った。一真はチーズを載せた食パンをちぎり、コーヒー牛乳に浸して口に運んだ。
「聞いてるの?」
チーズは食パンから滑り落ちて、マグカップの底へと沈んだ。
「もうすぐ終わるから、待ってなよ。うるさいな」
「それはこっちの台詞でしょ、本当にもう」
薫は高校に上がってから化粧をするようになり、まつ毛にパーマを当てた。
「インポの神様お願いします。インポの神様ありがとうございます。インポの神様、今日も一日よろしく、インポの神様」
縁側から食卓まで実の祈りは筒抜けだったが、誰も注意をしなかった。
「やめさせたいなら、姉ちゃんから頼めば」
「吹き込んだ本人の責任でしょ。お父さん殴ってよ。そいつ」
父親は眠そうに口をすぼめてホットコーヒーを冷ます。
「まだ実は若いから大丈夫なのにな」
二人はとぼけながら薫の視線を避け、お互いの顔を見合わせる。
「おかしいのは私? 不潔よ、二人とも」
実が歩行器を押して、ゆっくりとした足取りで食卓に着いた。父親が抱え上げて一真の隣に座らせる。
「本日のお勤めご苦労様です」
一真は実の頭を撫でて、チョコレートを塗っておいた食パンを差し出す。前歯の抜け落ちた口を開けて、実は笑う。
「実、あんまり一真の言うこと聞いちゃダメだからね。馬鹿になるから。わかった?」
実は聞こえない振りで、返事をしなかった。テーブルの下で兄弟は拳をぶつける。
「やだ、お母さん。実がどんどん一真みたいに可愛くなくなっていく」
母親は、湯呑みを両手で包み、口元を緩めて食卓を眺めていた。
一真が小学四年に上がったばかりの頃だった。母親と実と三人で夕食の買い出しを終え、帰宅途中に事故は起きた。
一真はカプセルをチョコレートでコーティングした菓子を買ってもらった。カプセルの中の人形が目当てで、開封は家まで待たなければならなかった。しかし、耳元で振って中の音を聴きながら歩いた。手を繋いでいた実が、手を伸ばしてきたので渡した。実は繋いだ手を解いて、箱を開けようとして母親に叱られた。首を横に振り、取り上げられそうになった菓子を持ったまま車道に飛び出した。
時間が止まり、再び流れ出すように見えた。
郵便局員が跨る赤いカブは、実を避けようと横転した。車体が横滑りしながら実と衝突する。実と菓子の箱が宙に浮いてから、別々の場所に転がった。
治療室の前の長椅子に一真は薫と並んで座り、待っていた。薫は目に涙を溜めて俯いている。どれくらいの時間が経ったのかわからない。三人で乗った救急車の揺れのせいで一真は未だに気分が悪い。信号を無視して走る救急車は、両親の運転とはまるで違っていた。
一真は、へこんだ箱の菓子を開封して中のカプセルを取り出そうと、チョコレートを剥がす。剥がしたチョコレートは食べずに箱に戻した。カプセルが剥き出しになる。
「何してるのよ、こんな時に」
薫に手首を掴まれる。振り払えば簡単に解けそうな力加減だった。
「実に、やろうと思って」
薫は手を離した。カプセルから現れた人形は希少性の高いもので、間違いなく『当たり』だった。
「神様が守ってくれるから大丈夫だ。心配いらない」
治療室から出てきた父親が二人を抱き寄せた。
「神様なんてインポだ」
一真は父親の胸の中で呟いた。最近覚えた蔑称を神に与えた。同級生と笑いながら口にしていた言葉はあまりにも軽く、なんの役にも立たなかった。
実が退院した日は、家族揃って久しぶりの焼肉をした。精肉店の袋には、国産黒毛和牛と書かれていた。肉はカルビにロース、タンまで用意されて、竹の皮に包まれていた。ホットプレートの前に、不慣れな手つきで箸を持ち、肉を返す実がいた。
「ちょっと聞いてほしいことがある」
トングを皿に置いて父親が姉弟の表情を窺う。大きく息を吐く。
「ここから引っ越そうと思うんだ。薫には悪いが、願書の提出期限はまだ間に合うだろ」
母親は父親を肯定するように頷く。一真は脂の滴るロースを取る。
「中学はこっちで卒業できる?」
「それは、約束する」
薫はタンにレモン汁をかけたが、口にしない。
「じゃあ、いいよ。高校は友達と別々の進路だったから」
「一真、お前は卒業まで待ってやれないけれど、自分の部屋をやるから勘弁してくれ」
「小遣いは増やしてくれるの?」
「もちろん」
「一真だけずるい」
「お姉ちゃんにも部屋と小遣いの増額は約束する」
「ラッキー」
父親は缶ビールを開けてグラスに注ぎ、喉を鳴らして一息ついた。一真は肉を口一杯に詰め、飲み込もうとしたが、いつまでも口の中に居座られ、母親は肉を焼くばかりだった。実は生焼けの肉を食べようとして、薫に止められた。
引越しまで、生活の変化は特になかった。母親が実の通院に付き添い、夕食がパック入りの湿った揚げ物や惣菜が増えたぐらいで、実はまだ一人で立ち上がることもできなかった。
新居は山に囲まれたところで、田や畑が道路脇にある田舎町。あと車を三十分ほど走らせれば、父方の祖父の家がある。引っ越した先は、祖父の兄の家で、空き家として長らく誰も住んでいなかった。陽の光で輝く瓦屋根の日本家屋だった。一階は手を入れて段差を無くすようにリフォームされていたが、廊下の端を歩くと床が鳴くところがあった。
二階は五部屋ある。どれでも好きな部屋を一真が選べた。始めは一番広い部屋にしようとしたが、畳というのが気になって、東側に窓のあるフローリングの部屋にした。薫は広い畳の部屋に格子柄のカーペットを敷いて荷物を運び込んだ。
一真が段ボール箱を開けて、部屋を自分色に染めようとしていると、あの日の人形が出てきた。パンダの親子がプリントされたゴミ箱に投げると、縁に弾かれた。拾い上げた人形を一真は机にしまう。
一階に降りると、父親は廊下を、母親は風呂椅子に上がって鴨居を雑巾で拭いていた。
「ねぇ母さん、実はどこにいるの?」
「縁側に座らせてるわよ。こっちは手が離せないから、暇なら相手してやって」
「了解」
「実がトイレに行きたい時は、呼んでくれればいいから」
「それぐらいは、担いで行ってやるから」
オレンジジュースの入ったマグカップを手に、座椅子の横に腰を下ろした。
「喉渇いてないか?」
「ありがとう、お兄ちゃん」
実は茂り過ぎたサザンカの生垣を見つめて飲む。
「まだ立てそうにないのか?」
実は返事をしなかった。
「もしかしてお前、神様にお願いしてないんじゃないのか?」
一真の目を実は下から覗き込んだ。
「神様?」
「お前はそんなことも知らなかったのか? そりゃあ立てるわけないよ。どれだけ頑張っても。いいか実、リハビリは今まで通りでいいんだ」
「うん」
「でもな、お願いしなくちゃ神様に。毎朝、起きたらお祈りできるなら教えてやる」
「お兄ちゃん教えてよ」
実はマグカップを置いて、一真に両手を合わせて強く目を閉じた。
「この国には八百万の神様がいてな、その中にインポの神様ってのがいるんだよ」
「インポの神様?」
「そう、インポの神様。立たなくなったものや、立てなくなったものを、なんでも立てさせる神様」
「本当に?」
「本当だ。でも、お願いだけじゃ駄目。感謝も忘れるなよ」
「インポの神様お願いします。インポの神様ありがとうございます」
実は手を合わせたまま、覚えたての呪文を引っかかりながら唱える。
「上出来だ。明日から一緒にお祈りだな」
「お兄ちゃん」
「どうした?」
一真は雲一つない空を見上げていた。
「おしっこ」
実を背負って足早に廊下を歩く。床が軋んで笑っていた。
次の日から毎朝、実のお祈りは始まった。一真が付き添い、空に向かって二人で手を合わせる。晴れの日も雨の日も。
「インポの神様お願いします。インポの神様ありがとうございます」
両親は二人を咎めなかった。それは実のリハビリに対する姿勢が、以前よりも前向きになっていたからだった。日が経つにつれ、歩くことは叶わずとも、一人で立つことはできるようになった。そして歩行器を使い、ゆっくりと歩を進めるまでに至った。
一真は五年生になり、実は小学校に上がる。薫は高校一年生になった。
「今日は、お願いしても大丈夫?」
母親が実の膝の上にランドセルを乗せた。
「心配いらないよ。学校まで近いんだから。押して行くよ」
車椅子のハンドルを握り、アクセルを吹かす真似をして声を掛ける。
「いくぞ、実」
「うん、行ってきます」
「気をつけてね。いってらっしゃい」
母親に玄関の戸を引いてもらい、二人は家を出た。
道を右に曲がる時に家の方へ目をやると、母親が手を振っていた。車椅子を四分の一回転させて、実と母親を向かい合わせる。実は手を振り返した。
二人は集団登校には参加せず、しりとりをしながら学校へ向かった。
「ラッパ」
「パリ」
「リンゴ」
「ゴリラ」
「ラッパ」
「パリパリ」
「リンゴリラッパ」
「パリパリパリ」
「おはよう。一真とみーちゃん」
ランドセルを鳴らしながら、佳士が駆けてきた。
「おはよう、佳ちゃん」
「おっす、佳ちゃん」
「おっす、おっす、押すの代わろうか?」
「ありがたいけど、このハンドルは選ばれし者しか、握れないんだ」
「またそれか。みーちゃん俺でもいいよね?」
「うん」
「おぉ、選ばれし者よ受け取りたまえ」
一真はハンドルを佳士に任せて、実の膝からランドセルを受け取り胸に抱いた。実は佳士を笑顔で見上げる。
「じゃあ、帰りも三人だな」
佳士は車椅子をバイクに見立て、蛇行運転をした。
「うわぁ」
実はウィリーも決めてもらい、手を叩いた。
「おぉ、なんたる幸運」
一真が転校して初めてできた友人が、一学年上の佳士だった。
都会から田舎へ引っ越してきた一真は、右も左もなにもかも分からず、町を自転車で流していた。錆びた橋の欄干に肘を乗せて下の川に視線を送ると、黒い大きな魚群を見つけた。その最後尾に紅白の肌を持った魚が尾鰭を揺らしている。
「なにかいるのか?」
一真の傍に自転車を停めた少年が、欄干に腹を当てて覗き込んだ。
「すげぇ、錦鯉がいる」
「あっ」
一真は声に驚いたと同時に、風が帽子を攫っていく。帽子はゆらゆらと舞いながら川に落ちた。緩やかな流れに乗り、海へ運ばれて行く。
少年は一真に白い歯を見せた。
「うわっ」
一真はさらに驚いた。少年は、そのままの格好で垂直に川へ飛び込む。水飛沫が上がる。魚群は散り散りになり錦鯉は姿をくらませた。浮き上がった少年は、平泳で帽子を追いかけて掴んだ。
「君、無茶苦茶だよ。まだ三月になったばかりだよ? それに服を着たまま川に飛び込むなんて危ないよ」
少年は、帽子を一真の自転車のカゴに入れてから、服を脱いで上着の水を絞った。
「うん、確かに肌寒いね。悪いけどズボンの水を絞るの手伝ってくれるかな?」
「もちろん手伝うけどさ」
少年がウエスト側を持ち、一真が裾を持つ。捻ってから引っ張る。水滴が落ちなくなるまで絞り続ける。その間にお互いの自己紹介を済ませた。
「なら、佳ちゃんって呼ぶね」
「じゃあ、かずちゃんね」
「いいよ一真で。年上なんだし」
「呼び捨てか? 偉そうじゃないか?」
「佳ちゃんは偉い男だよ!」
二人で並んで自転車を漕ぐ。互いの家はそれほど離れていなかった。先に佳士の自宅に着き、二人は別れた。
「また遊ぼうな。新学期が楽しみだよ」
「約束だ。佳ちゃん」
「おう。気をつけて帰れよ」
「忘れてた。帽子ありがとう」
「今度は二人で泳ごうぜ」
二人は拳をぶつけた。
校門をくぐると、介助員の女性が待っていた。一真と佳士は挨拶をして実を預けた。放課後に迎えに来ると言い残して。
「あの人も選ばれし者なのか?」
「いや、我らは選択肢なき者だよ」
「持たざる者」
「食うべからず」
二人は意味のない言葉を並べて笑い、それぞれの教室に向かった。
「返してよ、ねぇ返してってば」
「うるさいガキだな」
「泣いてやがるぞ」
「お兄ちゃんに言うから」
「お前の兄貴なんて、怖くもなんともねぇよ馬鹿」
一真が実を迎えにいくと、上級生の二人が車椅子をおもちゃにして遊びまわっていた。太った生徒が実をいびり、背の低い生徒が王様気分で車椅子に鎮座している。手のひらの上に顎をのせて、その光景をにやつきながら眺めていた。
実は廊下に投げ出されて、泣き叫んでいた。
「おい、豚。実に近寄るな。それとカマキリ、そこどけよ」
「お兄ちゃん」
一真は太った生徒の尻を力任せに蹴り込んだ。
「痛えなぁ」
太った生徒が一真を大外刈りで投げ飛ばした。視界がいつの間にか、衝撃とともに天井を捉えていた。
「弱え弱え」
一真は立ち上がり反撃しようとする。
「赤ちゃんか?」
またも天井を見上げていた。虫の笑う声がした。
「ハイハイもできないのかな?」
蛍光灯が見下ろしていた。虫がさらに大きな声で歌う。
「無駄、無駄、むーだ」
一真は投げ飛ばされ続ける。手足を擦りむき、肘で打たれた頬は熱を持つ。それでも、向かい立つ。
「お兄ちゃん、もういいから。立たないで」
実の叫びに耳を塞ぎ、立ち上がる。涙を堪えながら。その時、虫の鳴く声がした。
「お前、誰の許可を得てそこに座ってるんだ? みーちゃんだろうな?」
佳士が車椅子の後ろに立ち、背の低い生徒の頭を掴んでいた。髪を持ったまま車椅子から引き摺り下ろす。
「ちょっと、ふざけてただけで。なぁ、そうだよな」
「そうだよ、こいつに柔道教えてやってたんだ」
太った生徒が見え透いた言葉を並べる。
「へぇ、じゃあ俺がお前にボクシングを教えてやるよ」
佳士の友人が、太った生徒の腹に拳を捩じ込んだ。たまらず四つん這いになる。
「それがお前の正しい立ち方だろ。はいはいしろよ。ほれほれ。ムエタイもおまけしてやる」
尻を蹴る、乾いた良い音がした。
実を別の生徒が抱き上げて、車椅子に座らせた。佳士の仲間たちの姿に、一真は堪えきれずに涙が零れた。下を向いて呼吸を整えようとする。
「とりあえず二人に謝れ」
佳士が怒鳴った。
「すいません、すいませんでした」
「お前もだよ」
尻を蹴り上げる心地良い音がする。
「ごめんなさい、二度としません」
「こんなもんでどうですか? みーちゃん、一真?」
佳士の声色は二人には温かかった。
「うん」
「ありがとう、みんな」
佳士の友人が笑ったので、つられて一真も笑った。もう一人の友人が、景気付けだと言って太った生徒の尻を再度蹴りつけた。また、いい音がした。二人の生徒はランドセルをひったくるように掴んで逃げていく。
「俺、二人と帰る約束してるから。また明日な」
「保健室とか連れて行かなくて大丈夫か?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「気にするな。かっこよかったぜ。あいつらクラスでは大人しい癖にダサい奴らだよ。まったく」
「じゃあ、また明日な」
佳士が車椅子のハンドルを押し出した。
「みーちゃん怖かったか?」
「お兄ちゃんも、佳ちゃんも、みんなかっこよかった」
佳士は車椅子を傾けて、ウィリーを実にプレゼントした。
「お兄ちゃん痛くない?」
校門を抜けても実が執拗に聞いてきた。擦り傷や打ち身がある。だからといってどうすることもできない。しかし、一真に打つ手がないわけでもない。
「実、ここだけの話で内緒にできるなら教えてやる。約束するか?」
「するよ」
「よし、なら教えてやる。じつはな、これぐらいの怪我なら一瞬で癒してくれる魔法の薬が隠されてるんだ」
「本当?」
「兄ちゃんは嘘つかないだろ?」
「うん」
「父さんが机の引き出しにしまってるんだよ。それを一粒飲めば立ち所にピンピンだ」
佳士が吹き出した。
「バイアグラって言うんだけどな」
「バイア?」
「バ、イ、ア、グ、ラ」
「バイアグラ?」
「そう。内緒だからな!」
「また変なこと教えると薫さんに怒られるぞ」
「佳ちゃんは本当に、あいつのこと好きだなぁ。やんなっちゃうよ」
佳士は鼻を掻いて口笛を吹いた。
「嘘くさいなぁ。鼻なんて痒くないだろ?」
「あっ!」
実が大声を出して指を差した。その先を一台の赤い郵便車が通り過ぎていく。
三人は中指を立てた。計六本の中指を郵便車にお見舞いしてから、肘を叩きながら、拳を突き上げる。名誉の腕を三本並べた。
「鞄を置いたら家でゲームしようよ」
「いいね、すぐに行くよ」
「今日のお礼に、姉ちゃんのパンツやるから何色がいい? おすすめは紫」
「はっ? いらないよ。馬鹿じゃないのか?」
佳士は赤かぶになり、車椅子を押すスピードを上げて、一真を引き離した。
「待てよ二人とも」
一真は二人をゆっくりと追いかけた。
「ちょっと、待ってて」
一真は玄関に二人を残して、冷蔵庫からコーラを三本持ち出した。一本を実に手渡し、残りを佳士へ。
「一本は光ちゃんにあげてよ」
「サンキュー。この後、光も連れてこようか?」
「いいよ、緊張するから」
「パンツは?」
「いらないよ」
佳士はコーラの缶をバトンのようにして、駆けながら角を曲がっていく。
「振ったらダメなのにな」
「吹き出すね」
一真は実の缶を開けてから、車椅子を押して玄関に入った。
「佳士君、来てたのね。いつも二人をありがとね」
「お邪魔してます」
佳士が帰宅した薫に気を取られている隙に、ボールを奪い、テレビの画面に『ゴール』と大きく表示された。実が手を叩く。
「うわ、ずるいぞ」
「保護者面しやがって。どこがいいんだよ? あんな厚化粧の女」
「分かってないなぁ。洗練された都会の雰囲気を纏った大人の女性って感じがするだろ」
「実! 馬鹿者がいるぞ。殴れ殴れ」
実は這って近寄り、佳士の肩を殴りつけた。痛くもないのに大の字に倒れ込んだ。その上に実がうつ伏せになって押さえた。
「そろそろ帰るよ」
「明日、土曜日だろ。なにしてるの?」
「暇してる」
「じゃあ明日また続きだね」
「おう」
「実、乗れ!」
「うん」
一真は実を背に担ぎ、佳士を玄関の外まで見送る。曲がり角で立ち止まった佳士が、振り返り手を上げて消えた。
「喧嘩でもして負けたの?」
母親が作り置きしていた鍋にカレーのルーを薫が溶かしている。
「勝ったよ。大勝ち」
食卓に皿を並べながら一真は答える。擦り傷や打撲は見た目ほど酷くはなかった。
「お母さんに心配かけないようにしてよね」
「なぁ姉ちゃん、いらないパンツ一枚くれよ」
薫は鍋の中を回す手を止めて睨みつける。
「なに考えてるのよ」
「姉ちゃんが考えているようなことじゃないよ。この程度の怪我で済んだのも全て、佳ちゃんのお陰なんだ。だからお礼の品にだよ。返礼の品」
「佳士君がそんなの欲しがるわけないでしょ!」
薫はスプーンを鍋に突っ込み、味見してからまたかき回す。
「口ではね! いらないと言ってたけどね。顔を真っ赤にしてさ。でも、実物を突きつけるとどうなるか? もっと赤くなるのか見てみたいんだよ。だからくれよ。いいだろ? ボロいのでいいんだ。一生のお願い」
「私はあんたの一生のお願いを一生聞かないから! 不潔!」
一真が薫に使い古されたパンツをせがんでいると、玄関から声がした。
「ただいま」
母親は食事の準備を薫に任せ、一真だけを縁側に呼び寄せた。外は薄暗いが母親の表情は見て取れた。しかし、怒られるのか、褒められるのか、分からない複雑なものだった。
「どうしたの? その怪我は?」
「今日、柔道を教えてもらってね」
「学校の先生から連絡がありました」
「くそが!」
現場を見ていた野次馬が教師に告げ口したのだと理解した。
「俺は謝らないし、間違ってないからね」
玄関の戸が引かれる音がした。父親が帰宅したようで家中に立ち込めるカレーの匂いに、なにか言っているがよく聞こえなかった。おそらくは、どうでもいい当たり障りのないこと。
「一真、いつもごめんね」
一真は、正面から母親に抱きしめられた。
「どうして謝るのさ? 暴力を振るって悪いのは僕なのに?」
母親はさらに強く一真を抱きしめた。
「泣いているの母さん?」
食卓では三人の声が交差している。とりわけ実の声が大きかった。
「違うの。あなたがいてくれて本当によかったって感謝してるの。神様に」
母親の背中を上下に摩る。
「みんなで、ご飯食べようよ」
「もう少しだけ、お願い」
「あと十秒だけだよ」
一真は声に出して一から数え始めた。ゆっくりと、十秒以上使い、数え終わる。
「一、二、三、四、五。サービスだよ。一、二、三、四、五、六、七、八、九。十」
「よし。ご飯にしましょう」
「うん」
食卓には家族分のカレーとレタスサラダが並んでいた。戻ってきた一真に薫が文句をつけた。
「また実に変なこと吹き込んだでしょ?」
実は大好きなカレーに手をつけないまま、手を合わせていた。
「お父ちゃん、意地悪しないで」
「実、本当に父ちゃんは持っていないんだ」
「嘘だ、嘘だ。バイアグラちょうだいよ」
「まだ実には必要ないし、父ちゃんにも必要ないんだ」
「やめてよ、不潔!」
「嘘だ。隠しているのは知ってるんだ。兄ちゃんにあげてよ」
「実、内緒だと約束したじゃないか」
「あっ、兄ちゃん」
一真は実の傍の席に着く。一連のやり取りに母親が、涙を手で押さえながら吹き出した。
「母さん、泣くほど面白いの? 信じられない」
薫が一言、その場に付け足した。
歩行器を使い縁側に立つ実の隣に並んだ。庭には既に洗濯物が干されていた。
「母さんの朝は早いなぁ」
「うん」
「ちょっと、お祈り待ってろ」
一真は裸足のまま庭に降りて、ピンチハンガーに手をかけた。生乾きのそれをポケットにしまって、もう片方を実に投げる。
「お姉ちゃんの靴下?」
「今日、佳ちゃんに昨日のお礼にあげようぜ。絶対に姉ちゃんに見つかるなよ」
「うん」
実のポケットから靴下がはみ出していた。それを一真は無理矢理隠す。
「もうすぐ夏休みだけど、どこに行きたい?」
「海!」
「じゃあ、お願いするぞ」
二人は胸の前で手を合わせる。
「インポの神様、お願いします」
「インポの神様、ありがとうございます」
朝の空は青く、大きな入道雲が一つ浮かんでいた。




