ビューティフル・バンディット【その男は、愛した男と同じ顔をしていた】
【1】男の話
空が青い。
我ながら呑気だ。こんな状態で。
痛い。
地面に捨て置かれた体は、散々な暴力を浴びてもう動く気力はない。
組織の中で異議を唱えたら、仲間だった人間が一瞬で敵に変わった。同じ晩飯を食っていたとは思えない豹変っぷりで蹴られ殴られ蹂躙された。
処刑だと向けられた剣は胸元に大きな傷を創り、今も脈打つたびに血が流れている。
ここまでやってきた罪の報いはここで受けると、一身に暴力と殺意をこの身に浴びた。
それから気を失って、目が覚めたらもう誰もいなかった。背中に濡れた感触がするから血溜まりの中なのだろう。死んだと思って捨て置かれたのか。
内臓が軽くなっていくような不快感と浮遊感に死を覚悟した。
今まで汚いことばかりやって来た。ろくな死に方はしないと思っていたのに、青い空の下で死ねるとは。
眠りに落ちたら、きっともう二度と目覚めない。
なのに瞼を閉じても目の奥の光は消えない。太陽の光がなかなか俺を眠りには落としてくれない。
「……生きてる?」
地面に寝っ転がって目を閉じて、死を待つだけの俺の上に、影が落ちたのが分かった。女の声だった。
目は開けない。落とされた影のおかげで、閉じた瞼が心地よくなったから。
口は開かない。……喋りかけてくるな。死体かどうかなんて、とりあえず剣を突き立ててから確認すりゃいい。そうすればもれなく返事は来ないはずだ。
「生きたい?」
「あ?」
二度目の声掛けに、さすがに不満が声に出た。
なんで話しかける。こんな道に転がる分かりやすい災厄みたいな俺に。
──そんなの。
「いきた、く」
「わかったわ」
喉は乾いた血の味がして、うまく喋ることができなかった。なのに女は俺の言葉をどう取ったのだろうか。
その影がしゃがんで近づいた気配に、さすがの俺も目を開けた。
「あ、目が開いた」
俺に降りかかっていた日光を代わりに浴びて、その金髪が輝いていた。緑がかった瞳は若葉と同じ色だった。
「やっぱり」
なにがやっぱりなのかは分からないが、さながら天使で今際の際に見る顔としては悪くない。
「ねえ貴方、助けてあげる」
目を開けた俺に、女は薄く笑ってそう言った。
「その代わり、助かったら……私の言うことを聞いてね」
瀕死の俺が言い返せないことも蹴り倒せないのもいいことに、女はそう言うと俺の体に手を伸ばした。悪魔か。
それでもあまりに躊躇なく俺の体に触れてきたから、やっぱり天使なのかもしれないな──と。
彼女が落としてくれた影のおかげで今度は眠りに落ちることができた。
【2】女の話
ずっと一緒だったから応えられないと、彼は言った。
「妹のようにしか思えないんだ」
ごめん、と言って私の頭を優しく撫でる。
その手が好きだから、口を塞がれたわけでもないのにもう何も言えなかった。
私の十余年積み募らせた愛の告白は、今まさに彼の手で手折られた。
彼の名前はロイヴ・グレンストール。
甘い垂れ目に、上品にまっすぐ伸びた高い鼻。少し長い金髪に灰色の目。世界で一番美しい顔。
父同士の仲が良く、交流することが多かった二つ年上の幼馴染。
父はより高い地位の相手との結婚を望んでいたから、ロイの家と仲が良くとも婚約などは結ばれなかった。メリットがない。
姉が侯爵家との婚約が決まると、お前は自由にするといいと父は言った。姉の縁談のおかげで、妹の私はメリットではなく愛で相手を選んでいいと言ったのだ。──共に生きる相手を。
だから私は迷わずロイに伝えた。
幼い頃より、ずっと好きだったと。
イース・グローア。グローア子爵家の第二息女。
いつも彼が褒めてくれる長い金髪を、今日はいっそう綺麗に整えてきた。若葉の色と彼が褒めてくれた目で、まっすぐに見つめた。
十八歳。ほとんどの人生を、彼だけを見て過ごしてきた。太陽に焦がれる花のように。
そうして伝えた告白は、花を手折るより容易く断られた。
出会ってからずっと、同じ場所に咲いていた。
この街にいる限り、彼の面影を見てしまう。
そして私は、別宅がある離れた町へ住まいを移すことに決めた。父が頭が痛そうに正気かと聞いてきたので頷いた。
使用人も誰もいらない。
彼を知る人を連れて行きたくなかった。きっと思い出話をしてしまう。
自然豊かな場所にある別宅は、さほど大きくはないとはいえ一人には十二分に広い。そのまま山に繋がる広い庭は、手入れをしていなくても常に四季折々の花が咲いていた。
しばらくは不慣れな生活の基盤を整えることに必死で彼のことを考えずに済んだ。
幼い頃に知り合って、十年以上傍らで過ごした。
本を共に勧め合い、ダンスの練習だって共にした。控えめで目立つことを嫌う彼と踊ることは一、二度だったけれど。
端麗な容姿を派手に着飾ることを好まず、酒も好まず。
今後や事業や領地のことを真剣に考えてきる、生真面目で紳士的な彼が好きだった。
触れ合いなど、儀礼的なエスコートと頭を撫でるその手だけだった。
自分を美しく保つ努力はすべて彼のためだった。
なのに、妹のようにしか思えないなんて言われたら、引き下がるしかなかった。
彼の灰色の瞳に、愛に浮ついた目で映りたかった。
夜空に浮かぶ黄金の月を見るたび、彼の髪を思い出した。
そうして幾晩も一人で眠り、新しい屋敷で朝を迎えてしばらく経った。
庭に出ていた時にその音は聞こえた。
太陽の眩しさに目を細めながら見上げる。
いつにない木々のざわめき。屋敷のすぐ裏の山から激しい音を立てて、鳥の群れが飛び立っていった。
何かあったのだろう。
一人で過ごすようになって、身軽なドレスを選ぶばかりだったおかげで、山の中へ進むのを躊躇わなかった。
山は我が家のものであったから、確認したほうがいいだろうと判断した。半分は好奇心。
さほど森の奥まで進むことなく出会った。
いきなり鼻の奥についた、土と葉より重たいその匂いが、なんなのか分からなかった。
そこで倒れる男の姿を見て、鼻腔に感じたその匂いが血の匂いだったと知る。
「だ……な……」
誰なの。なんなの。
初めて見る人間の《《そんな》》姿に、喉の奥で声が詰まる。
空を仰いで倒れる姿は天の迎えを待っているようでさえあった。
その体から流れただろう血の中に横たわり、裂けた服からは目を背けたくなるような体躯の損傷が見えた。
倒れている男は赤毛だった。癖のある赤毛は、血と同じ重い色をしている。
……こんな血の量、きっと死んでる。
そう思って、近づいた。
地面に広がる血を踏まないようにその顔を覗いて──息を飲んだ。
似てる。
覗いたその男の顔立ちは、あまりにも彼に似ていた。
目を閉じているといっそうわかる甘い垂れ目。顔に影を落とす品のいい高い鼻。
傷だらけで汚れている。それでも、幼いうたた寝の時に覗き見た彼の寝顔そのものだ。
どうして彼が。
いや、彼じゃない。
地面に広がるその色に正気を取り戻す。
髪の色が違う。
「……生きてる?」
咄嗟に聞いてしまった私の声に反応するように、倒れるその顔の眉間に皺が寄せられた。
目の前に倒れるその体の心臓は止まっていなかったようで、誰かは知らないが思わず安堵に息を吐いた。
治療すれば助かるかもしれない。
けれど私は思い至る。
こんなにも傷ついた人間は、生きていけるのだろうか。そもそも、こんな傷を負うような出来事があって尚、生きたいだろうか?
そう思わせるほどに、その腹の傷は深そうで、何より血溜まりは大きかった。
怪我をした人物をそうそう見たことがなかったから、その思いが声になった。
「…………生きたい?」
こんなに傷ついていても。
叫べないほどの痛みの中でも。
──それでもあなたは生きたいか。
「あ?」
血溜まりが重低音に震えた。
「いきた、く」
掠れてその声は聞きづらいが、見知った声に十分似ていた。久しぶりに聞いたその声に胸を掻きむしりたくなるが、堪えた。
生きたいかなんて──馬鹿なことを聞いた。
「わかったわ」
返事をしてくれたことが証拠だ。生きたいに決まってるだろう。
しゃがみ込んで近付いた。
愛しい声にそっくりなその人物に、恐れなど感じなかった。
「あ、目が開いた」
血溜まりの中のその男の目が、ゆっくりと開いく。
「やっぱり」
目を開けたその顔は、思ったとおり……思った以上に彼によく似ていた。
「ねえ貴方、助けてあげる」
だから、悪魔みたいなことを思いついてしまった。
生きたいのでしょう?
命を対価に要求をするなんて、ひどいことだという自覚はあった。
「その代わり、助かったら」
それでも叶えたい望みがあった。──愛した男に抱きしめられたい。
例えそれが、愛した男と違う魂の器でも。
見目が同じなら、私の魂は救われると思った。
「私の言うことを聞いてね」
男は汚れていたし血まみれだったけれど。
愛しい男と同じ声と顔をしたその姿に、抱き締めることを躊躇わなかった。
【3】男の話
嗅ぎ慣れない甘い匂いに意識を揺さぶられて目が覚めた。
目を開くと、今までの人生で縁のなかった華やかな照明。
感じたことがない寝心地に、すぐにベッドだと気付かなかった。藁ではない柔らかさ。清潔そうな白いシーツ。
掛けられていた布団を捲ろうとして、走った痛みに舌を噛んだ。
腹の傷は手当されていた。何か貼られていると、頬に手を当てる。治療用のガーゼだった。
自分の身を確認していると、声がかけられた。
「起きたのね」
長い金髪に緑の瞳。お貴族様にしてはシンプルなドレス。天使のような見た目。
「まだ傷が塞がってないから、寝てた方がいいわよ」
部屋の奥から現れたその女は、あまりに普通に俺と目を合わせた。
「水は飲む?」
「あ、ああ」
怯える様子もなく淡々と聞かれ、つい頷いてしまう。
女は頷くと俺に背を向けた。
腹の痛みは焼けるように痛かったが、状況が気になって身を起こす。
屋敷のリビングのようだった。
重そうなカーテンを脇に控えさせた大きな窓から、暖かな日差しが差し込んでいる。
真ん中には大きなテーブルがあって、さらに向こうにキッチンがあった。
金髪の女は俺に背を向けてキッチンに立っている。
俺が寝るベッドの近くには壁側に寄せられたソファ。
不釣り合いにベッドがリビングにあるのは、俺のためだろうか。
キッチンから振り向いた女が、コップを持って来た。
「どうぞ」
「すまない」
差し出されたコップに手を伸ばす。僅かに触れてしまった女の指先は冷たかった。
状況も女の目的も何も分からない。
それでも毒も警戒せず水を飲んだのは、この場の主導権が俺にないからだ。体は痛くてろくに動けない。
冷たい水に体中の細胞が生き返った。
飲み干したコップを俺から受け取ると、緑の目が俺を見た。
「あの日から三日間眠っていたのよ」
「あの日」
反射的な復唱。朧げな記憶を遡る。
「あの日よ」
葉の茂る木々の向こう。青い空。
「血まみれのあなたを助けた、あの日」
──天使かと思った、あの金髪。
「言うことを聞くから助けてくれって言ってたじゃない」
悪魔みたいなあの言葉。
思い出せばあの日の邂逅が鮮やかに蘇った。
「捏造してるだろ」
俺が異議を唱えると、女は小さく笑った。
「あ、バレた?」
なんだよこの女は。
瀕死だったとはいえ、男を連れ込んで危ないと思わないのか。
「わからねぇのか、俺がどんなやつかって」
ご立派な家に小綺麗なおべべ。争いや怪我とは無縁だっただろう。だからわかんねぇだろ。
ただそれにしては、あの日あまりにも血まみれの俺に躊躇いなく手を伸ばしてきた。
髪の毛と同じ金色のまつ毛で縁取られた緑の目が俺を見た。
「分かるわよ、山賊でしょ」
「……分かってて、なんで」
なんで俺を助けた。
俺の言葉を理解して、女は笑った。
「言うことを聞いてくれるって約束だったでしょ」
了承なんかしてない。
憮然と押し黙る俺に、女はおもむろに手鏡を渡してきた。
受け取って映し出された自分の姿に、間抜けに口が開いた。
「…………は?」
そこに映る俺は、金髪だった。
慌てて自分の髪を触る。癖のあるよく知った固く荒れた髪の感触じゃない。手櫛が通る、見知らぬ感触。
灰色の瞳はそのままに、傷は記憶通りに。
ただ髪色と髪型を変えられて、まるで別人のような印象になった俺が映っていた。
なんで。
「よく似合ってるわ」
「……俺を匿うためか?」
鏡から顔を上げて女に聞いた。
俺の言葉に、まるでバレたとばかりに目を見開いた。
「山賊で、しかも殺されかけてた俺の身を隠すためか?」
それしか考えられなかった。
草花や鉱石を使った染料で、髪を染める技術があるのは知っていた。だが高価で、俺のような庶民……いや、その日暮らしの貧民なんて関係ない話だと思っていた。こんなことまでして。
「……お前の目的はなんだ?」
興味が湧いた。
死にかけの俺を救って治療を施し、リビングにベッドを用意して看病をした女に。
俺の身元を隠すように、勝手に俺の髪まで染めた女に。
「言ったじゃない。言うことを聞いてほしい、って」
俺と女は二人きり。
屋敷に他の息遣いは感じない。召使がいないのは訳ありなのか。
怪訝な俺に対して、女は真剣だった。
「私の傍に、いてほしいの」
【4】女の話
癖のある赤毛を、呼び寄せた理容師に染めさせた。眠る男を染めることに理容師は驚いたが、傷だらけの男の様子に何かを察したのか深くは聞いてこなかった。
癖のある赤毛が、見慣れた金色に染まる。
真っ直ぐな金色になったその髪に、天使の輪のような艶ができた。
品のある高い鼻。その顔は目を閉じていても、十分好きな男の姿を想起させた。
それから数日。やっと目を開けてくれた──灰色の目を。
鏡に映る自分を確認する男に、私は声をかける。
「よく似合ってるわ」
本当に、想像以上に。
彼にそっくりだ。
「俺を匿うためか?」
考えもしなかったその言葉に、思わず目を見開いた。
「山賊で……しかも殺されかけてた俺を隠すために髪を染めたのか?」
髪を勝手に染めたことを、なんて答えようかと考えてはいた。いい回答が見つからなくて困っていたのに、彼の方から正答を出してくれた。
頷かない。微笑みだけで応えた。
そんな私を、当たり前に彼は訝しんだ。
「……お前の目的はなんだ」
そんなの決まってる。やっと聞いてくれた。
「傍にいてほしいの」
好きな男と同じ姿になった、あなたに。
「私の名前は、イース・グローア」
私の名乗りに、彼は溜息を吐いた。
彼と同じ見目で、彼がしない表情を見せてくれる。
「俺はエルドル」
エルドル。
口の中に名前を含んで、呼び心地を確認する。
そして他の名前と比べて、二文字で呼びたいと思ってしまう。
「エル、って呼んでも?」
「勝手にしろ」
この感じだと、性格は彼とは正反対のようだ。とはいえ見た目はほぼ同じ。声だってよく似てる。
「お前いくつだ?」
なのに口調は、全く違う。
「十八よ」
さすがに口調まで直させるのは無理だろう。
彼がどこまで従ってくれるかも分からない。
それに、怪我が治った途端に《《何されるかも》》分からない。
乱暴されるかもしれない。最悪──殺されるかも。
それでも、愛した男と同じ顔をした男になら、何をされてもいいと思えた。その顔を最期の景色にできるなら。
私の言葉に、彼は──エルは、ああそうかと頷いた。
「あなたは?」
「二十一」
ロイより一つ上。
見た目から歳は同じぐらいだろうと思ったが、その通りだった。
「やっぱり年上なのね」
確認したいこともできてしまうと、ふっと沈黙が舞い降りた。
「………………食欲はどう?」
「あー……」
私の質問に、彼は一度宙を見た。
「多少」
「フルーツはどう? 切ってくるわね」
彼の返事も聞かず、私はキッチンに向かった。
まるでロイに尽くしてるようで嬉しい。
切ったフルーツを渡すと、礼を言って食べ始めた。食器はぶつかって音を立てるが、黙っている姿はロイだ。
愛した男と過ごしている。
錯覚だとしても、幻覚じゃない。
その顔に警戒は溶けしまう。
「まだ傷、痛いでしょ。ゆっくり休んで、眠ってて」
ベッドの上の捲れた布団をかけ直して笑いかける。
彼が何か言うかと思ったが、何も言わず布団の中でおとなしくする姿は、少し意外だった。
根はいい人なのかもしれない。
いや、中身なんてどうでもいい。
私はただ、好きな男の代わりを求めただけ。
例えそれが張りぼてでも、十分だった。むしろいっそ、魂もなく中身は空っぽであればいい。
【5】男の話
女は──彼女は俺に対して献身的だった。
柔らかなパンとスープを作り、フルーツを切り、俺の包帯を変えた。
部屋の掃除も彼女自身が行う様子に、さすがに浮かんだ疑問を口にした。
「なんで一人なんだ」
「時々雇ってる人に掃除とか洗濯とかは来てもらってるわ。この部屋には入らないでもらってるけど……」
聞きたいのはそれだがそれじゃない。
なんで貴族らしい女が一人で住んでいるかということなのに、伝わらなかったのかそれは答える気がないのか。
「あんまり人がいたら、不都合でしょ」
それはどちらの不都合のことなのかわからない。
「訳ありか?」
「訳がない人なんている?」
俺の言葉に気分を害した様子もなく、彼女は腰に手を当てた。
「あなたも、私も」
その会話はそれきり終わった。
どう見てもまともじゃなかった俺の訳を聞かないその胸にあるのは、度胸なのか恐れなのか。
献身的な看護のおかげだろう。跡が残るものの傷は癒え、起き上がる度に顔を顰めることもなくなった。
「背が高いのね。この服はどうかしら?」
包帯を変える必要がなくなった俺に、小綺麗な服が与えられた。
「小さくない? どう?」
「大丈夫だ」
てっきり使用人のような服を与えられるかと思っていたら、上等な服を与えられて驚いた。
「丁度いい」
しかもサイズもぴったりだ。
「よかった」
白いシャツを着た俺を見て、彼女は緑の目を細めて微笑んだ。
「似合うわ」
慣れない服のせいだろう。首元が痒くて、その服の胸元は開けて着た。
怪我が治って寝てばかりいる必要がなくなると、同じテーブルで食事を取るようになった。
「フルーツを切ってくる」
夕食後にフルーツを食べるのが好きらしい。
食器を下げるのを手伝ってから、椅子に座って彼女が戻ってくるのを待つ。
──ふいに。
ナイフを持った金髪の後ろ姿が跳ねて、銀色が音を立てて落ちた。
「いっ!」
立ち上がりキッチンに駆け寄った。
「イース」
ナイフを落とした彼女の手元を見れば、白い指先から血が出ていた。
「切ったのか」
「あ……え、ええ。た、たいしたことないわ」
狼狽えたような顔をしているのは、自分の怪我に慣れていないからか。
「お前は座ってろ」
「え、ええ……?」
触れた指先は冷たかった。
「俺がやる」
その日から食後のフルーツは、なんとなく俺が用意するようになった。
今までと違う、滑らかな切り口で剥いたフルーツが食卓に並ぶ。
でこぼこで皮の残ったフルーツも嫌いではなかったが、怪我したところを見てしまえばしょうがなかった。
【6】女の話
「イース」
名前を呼ばれて心臓が止まった。
「切ったのか」
名前を呼んだその声が、あまりにもロイそっくりで、動揺してしまった。
「あ……え、ええ」
エルの声だ。落ち着け。
「た、たいしたことないわ」
向けられる眼差しも、同じ灰色。
私が染めた、美しい金髪。
彼みたいだ。
その声に再び名前を呼ばれるなんて、夢みたいだ。
「お前は座ってろ」
けど、口調は彼とはまったく違う。
「え、ええ……?」
「俺がやる」
そう言うと、彼はナイフを拾い、滑らかな手つきでフルーツの皮を剥いた。
「上手いのね」
「そりゃ、自分の食いもんくらい用意しないといけなかったからな」
まあ今までは皮ごと食ってたけど。
そう言うと、あっという間にフルーツの皮を剥いてしまった。
──ロイだったら、きっとこうは出来ないだろう。貴族の男子である彼に、料理の技術など必要ない。
「ほらよ」
「んっ!?」
その慣れた手つきに感心していたら、彼は──エルは、買ったフルーツを私の口に突っ込んできた。
それから自分も一切れ口に入れて、目を細める。
「美味いな」
ロイに似ているから傍に置いた。本当なら口調だって似せてほしい。そう思うのに、私の心臓を高鳴らせたその笑顔はまったくロイには似ていない。
「あ?」
と、感じ悪く聞き返すのは癖らしい。慣れればそれに威圧感は感じなかった。
エルは無骨だったが私が嫌がることもせず、言ったことはなんでもしてくれた。
家具の移動、高いところの掃除……。
起きている時間は、ほぼ一人で過ごすことがなくなった。
「本でも読んでていいのよ?」
「興味ねぇ」
彼はよく本を読んでいて、本を見るときの伏せられた目が好きだったから残念だった。
エルは、誘わなくても買い物にまで着いてきた。
「いいのよ? 一人で家でゆっくりしてても」
「自分で酒を選びたいからついてくだけだ」
そう言うくせに、一度もお酒は買わなかった。
「新しいドレスを買いに行くだけよ?」
「あ? お前、何拾ってくるかわからねぇだろ」
ロイと同じ顔でまったく違う口調で言われた言葉に、思わず笑ってしまった。
「馬鹿ね」
あなたを拾ったのは、好きな男と同じ顔だったからよ。
好きな男が手に入らないなら、せめて同じ顔の男だけでも。自分の慰めのためにあなたを拾ったのよ。
──他に何も、拾うわけないじゃない。
あなたに代替以外の感情も、抱くわけ、ないわ。
ロイと同じ瞳の色のその奥に宿る感情に、私は知らないふりをした。
【7】
両手にはパンやら野菜やらが入った紙袋を抱えてる。
俺たちは路地裏を見つめたまま、さっきっから一歩も動いてない。動けない。
「……拾ってもいいかしら?」
「お前、もう俺に馬鹿って言うんじゃねーぞ」
同じ考えじゃねぇか。
持っていた紙袋の軽い方をイースに渡す。
「重くないか?」
「大丈夫」
俺は空いた片手を、路地裏に伸ばす。
「こっち来い…………そこの毛玉」
俺たちの視線の先には、物陰からこちらの様子を伺う子猫がいる。
暗がりにも小ささが分かる猫だ。俺たちは買い物の帰りに、路地に逃げ込むその姿を見付けたのだ。
「ほら来い毛玉」
子猫は俺の伸ばした手を威嚇するように毛を逆立てる。
「馬鹿。そんなふうに言ったら逃げちゃうでしょ!」
「あ?」
眉間に皺を寄せた俺に、イースが先ほど渡した紙袋を突き渡してきた。
それからドレスの裾が汚れることも厭わずしゃがみ込むと、子猫に向かって両手を伸ばす。
あまりに警戒がなさすぎる。
「怪我したらどうする」
「別にいいわよ」
「あ?」
よくねぇよ。
俺の視線に怯えることなく、イースは子猫に声をかけた。
「ほら、おいでおいで」
イースの長い髪はいつも花の匂いがする。
子猫は鼻をひくつかせて、恐る恐るこちらの様子を伺っている。
「大丈夫よ」
怖くないわ、と彼女が甘い声を出す。外でそんな声を出すな。
「拾ったら言うことを聞けって言われるぞ」
「ちょっと!」
「ほんとだろ」
眉を上げるイースに、俺が喉を鳴らして笑っていると、ふと子猫が前足を上げた。
「あ、来そう! おいでおいで〜……」
再び眦を下げたイースに、子猫はおずおずと近付いて来る。路地裏から出て来た子猫の瞳は緑色だった。
「いい子ね」
すかさず彼女は柔らかく抱き上げて、その子猫を腕に閉じ込めた。
「寂しかったでしょう? 一人で怖かったでしょう?」
一体どういう気持ちでそれを聞くのか。
緑の瞳は見つめ合って、子猫はみゃあ、と小さく鳴いた。
「……拾ったじゃないか」
「あなたも一緒だったじゃない」
腕の中ですっかり大人しくなった子猫の体を撫で、イースが目を細めた。
「痩せてるわね。うちでミルクを飲みましょう」
献身的なのはこの女の性か。
わかってはいたが一晩だけでなく、家に迎える気満々らしい。
「名前を決めなきゃね」
イースが俺を見た。
「ねえ……エルは、どんな名前がいいと思う?」
いつも俺の名を呼ぶ前に一拍空く。
呼びかけて、一拍。それから、エル、と。
「……そうだな」
エル。
L、ルイ、レイ……。
「ロイ」
適当に思いついた名前を口にした。
その途端彼女は手を止めて、目を見開いて俺を見つめた。
撫でられる手が止まって、子猫がイースの顔を見上げた。
「おい」
その目を覗き込んで呼びかけると、はっと息を吸い込んで表情を取り戻した。
「その名前はダメ。他の名前にしましょ」
そう言って、俺の前を歩き出した。
「私が決めなきゃダメみたいね」
子猫に語りかけたその表情は見えなかった。
「ふふ。あったかい」
その子猫の温もりで、彼女の指先の温度は上がるだろうか。
こうしてあの屋敷で生活を共にする存在が、ひとつ増えることになった。
【8】女の話
テーブルの上にカットされたフルーツが乗った皿が置かれた。
「ありがとう」
「おう」
エルは返事をすると私の向かいに座った。
音を立てて椅子に座る姿に品があるとは言えない。それでも黙っていれば、品のある彼の姿を重ねることができた。
金髪。灰色の瞳。品のある高い鼻。
どうしても、よぎってしまう。
ロイとなら、どんな生活をしていただろうかと。
想像していると、足元に暖かいものが触れた。
「よしよし、お腹いっぱいになった?」
今日拾った子猫。足元のその存在を抱き上げて膝に乗せる。
私と同じ緑色の瞳。
「グリン」
口をついて出たその単語に、すぐにエルが頷いた。
「緑ってことだろ、いいんじゃねぇか」
エルは口に入れたフルーツを飲み込むと、私の膝の上にいる子猫に向かって呼びかけた。
「グリン」
呼ばれていると分かったわけでもないだろうに、にゃあ、と子猫は返事をした。
その声を聞いて、一瞬エルの口の端が緩んだのを私は見逃さなかった。
「こいつ天才だな」
「もう、馬鹿ね」
そんな浮かれた顔をして。
「そうね」
私もそうかもしれない。
そして一人だった生活は二人になり、二人と一匹になった。
「おい、グリンがなんか咥えて走ってったぞ」
「止めてよ! あれは私のネグリジェよ!」
「あ?」
高いところに逃げたグリンを容易く捕まえると、ネグリジェを奪い取り私に向かって勢いよく放り投げた。
「わ」
頭に覆い被さったネグリジェから顔を出すと、エルはグリンに笑いかけていた。
「次はもっと上手くやれよ」
シーツについた猫の毛をバルコニーで払っていると、エルが横から現れてシーツを奪った。
「貸せ」
言い返す間もなく取られて、力強くシーツを叩く。
「ありがと」
それからシーツを被せられて、視界が白くなる。
「ほらよ」
「もう」
シーツから顔を出して、バルコニーで陽を浴びる彼を見つめた。彼の髪の毛が鈍く光った。
灰色の目。品のいい高い鼻……髪の色は、金色が落ちてきていた。
「……エル」
「あ? なんだ?」
彼の足元に絡みついてきた子猫の姿は、迎えた時より丸みを帯びた。
それだけの時間が経った。
だからこそ、提案するのを少し躊躇った。それでも言った。
「そろそろ、また髪の毛を染めに行かない?」
私の提案に、エルは二つ返事だった。髪を染めさせる私の意図を誤解したままだから。
グリンを家に留守番にさせて、私たちは町に出ると、あの日世話になった理容師の店に赴いた。
「私、外で待ってるわ」
「中にいろって」
そんなの暇じゃない。
不満げな私に、エルも負けじと不満げな顔をした。
そんな顔でそんな表情をしないでほしいのに、彼はそんな顔をして私に言った。
「……俺はお前の言うことをきいてんだよ」
言われた言葉がどんな意味か分からなくて首を傾げた。
「馬鹿」
それから彼は理容師の手で再び見事な金髪に染められ、その姿をみて私は思い出した。
──傍にいてほしいの。
私があの日、彼に言った言葉を。
好きな男と同じ顔をしていたから故に、彼に向けた言葉を。
理容師の店から出ようと扉に手をかけたエルが目を細めた。
「なんか聞こえねぇか?」
耳を澄ますと、確かに店の外──町の広場から聞き慣れない音楽が聞こえた。
答えたのは理容師だった。
「流しの音楽隊ですね。たまに来るのですよ」
扉を開くと、揃いの衣装を着た大人たちが楽器を奏で、町の人々が集まって耳を傾けていた。
私たちも聴衆の輪に入る。
「悪くねえな」
随分久しぶりに、こんな優美な楽器の音色を聴いた。
「そうね」
次第に盛り上がりを見せたその場に、集まっていた人々が踊り出した。
ところどころで、パートナーと手を取って流れる音に揺蕩っている。
エルが私に手を伸ばした。
「踊るか?」
──ああどうして、その顔でそんなこと言うの。
「踊れないわ」
だって、全然一緒に踊ってもらえなかった。
「踊れるって」
その顔でそんなこと言わないで。
「ごちゃごちゃ考えんなよ」
彼は私の手を取ると、腰に手を添えて私の体を引いた。
久しぶりに踏んだステップに足がもたつく。
「下手でしょ」
「そんなの俺もだ」
見上げると、品の高い鼻がすぐ傍にあった。
灰色の目。
至近距離で見つめあって、触れている彼の手は熱い。
「けど、悪くないだろ?」
彼の金色の毛先が、私の顔に当たる。
染められたばかりの金髪には、天使の輪のような艶があった。
それから夜が更けて、音楽団が楽器を仕舞ってダンスパーティーは終わりになった。
明日には別の街に行くらしい。
「面白かったわね」
「そうだな」
余韻に浮かされながら屋敷に戻ると、出迎えが現れた。
「グリン、ただいま」
抱き上げて撫でると、子猫らしい柔軟さですぐに腕の中から抜け出す。お気に入りの場所に戻るのだろう。
「イース」
その声に名前を呼ばれると、未だに心臓が高く跳ねてしまう。
「……なあに?」
その声が、私の好きな男の声だから。──それがあなたでも。
「嫌だったら、止めろよ」
なんの脈絡もなかった。
真隣からかけられた声に、なんのことかと顔を上げると、顔に影が落ちて酸素が奪われた。
「ん、んん……っ」
それは乱暴な口付けだった。まるで貪るような。
どちらのものかわからない唾液で滑って、重なった唇にやっと隙間ができて、息を吸う。
「っ、エ、ル」
途切れ途切れに名前を呼ぶと、糸を引いて唇が離れた。
「イース」
私の頬を包む両手が、熱い。
品のいい高い鼻が私の鼻にあたっている。
灰色の瞳はまるで熱に浮かされたようだった。
どうしてそんなふうに、私の名前を呼ぶの。
「イース」
まるで愛しいものみたいに。
あなたは私を、愛しているはずがないのに。
……あなたって、誰?
ロイ? エル?
私は目の前の男を、誰だと思ってるの?
「言うこと聞く。嫌だったら、」
また唇が重なった。音を立てて唇を甘く食まれる。惜しむように何度も。
「……言えよ」
離れた唇に、吐息と声がかかった。
──何も言えなかった。
初めてのキスはどんな味かと想像したことがある。頭の中でこの味の果実の名を探す間もなく、また唇が重なって、思考力と酸素が奪われてしまう。
息の吸い方なんて知らない。泳ぐように息継ぎができたと思ったら、また欲に濡れた唇が私を溺れさせた。
視界の端に金髪がチラついたけど、彼のものか私のものかわからない。
「イース」
水音と浅い呼吸の隙間から聞こえたのは衣擦れの音だった。
必死に視線を動かせば、彼が自分の服のボタンを外しているのが見えた。
彼は私の腰を抱いて、もつれ合いながら移動した。
リビングのソファに倒れ込んだ時には、彼の上半身は布を纏っていなかった。
「おい」
ソファの上で、私に覆い被さる彼から声が降る。
「なんか言えよ」
「……言っていいの?」
なんて言えばいいのか、分からないのに。
「あ? 分かった」
灰色の瞳が射るように鈍く光った。
灰がそんなに激しく燃えるなんて知らない。
「何も言うな。言わせねぇ」
低い声は触れ合って聞くと体の奥が揺れるなんて知らなかった。
何度も角度を変えて口付けは深さが増して、誰にも侵されたことのない口腔内に舌が入ってきた。
胸元に熱を感じると、私の服に手がかけられていた。
私はその手に逆らわない。
だってずっと──この顔の男と触れ合うことを夢見てた。
精一杯受け入れながら、私を目の前の男の体を確認する。
服の下から暴かれた硬い筋肉質の体は、自分とは違った。
彼の素肌は私には熱い。
その体の輪郭に触れていく。
彼の胸元からお腹にかけて隆起する傷痕に触れて、指を止めた。
止まった私の指先に、彼が口付けを止めた。
「あ? ……もう痛くねぇよ」
──あの日の傷跡。
あの日出会った、山の中で倒れていた赤毛の男が負っていた傷。
「……あなたは、」
目の前の男の頬に手を添えた。
「エル」
灰色の瞳は、間違いなく愛した男と同じ色。
「お前がそう呼ぶなら、俺はそうだ」
けれどその瞳の奥に宿る感情を、私は知らない。
彼は彼で、彼は彼じゃない。
傷跡に触れて、私の中の熱が急速に冷めた。
「ごめんなさい」
言った途端に、すぐに肌は離れた。
「いや」
私の上から降りてソファに背を向けて立ち上がると、後ろ手で髪を掻いた。──金色の髪を。
「悪かったな」
いつものような憎まれ口ではなかった。
「水、用意する」
彼は私に背を向けたそのまま、キッチンに向かう。
一人残されたソファの上。
どちらのものかわからない顎に伝った液体を、愛と呼んでいいのか分からなかった。
【9】男の話
「水、用意する」
そう言ってキッチンに向かい、コップに水を入れた。それから女に渡す姿など昔の俺を知る人間が見たら惨めだと笑うだろうか。
「ありがと」
「おう」
水を受け取った彼女の乱れたままの胸元に先ほどの余韻があった。俺が注いだ水を口に含んで、その胸元が上下する。俺は全然惨めじゃない。
「あの……エル」
「あ?」
珍しくしおらしい声を出すから、謝る気かと思った。
「あなたは」
彼女が口を離したコップを受け取って、残っていた水を飲んだ。
「私がここに一人で住んでる理由を、聞かないのね」
「今更だな」
それに今かよ。
「前戯に過去の話なんて選ばねぇよ」
記憶の蓋と体を開かせ方を同じにするほど、俺は幼くはない。
「まあ《《言うことは聞く》》が?」
俺の言葉に、一拍キョトンとして、それから意味がわかったようで小さく笑った。揺れる肩から金色の髪が落ちる。
「そうね」
「そうだ」
彼女は俺を助けた。そして別人のような穏やかな人生を与えた。
俺の話はそこから始まって、それがすべてだ。山賊エルドルはただのエルになった。
「まだ、喉が乾いてるの。もうちょっとちょうだい」
「あ?」
手の中のコップは空だ。キッチンに水を入れに行こうと背を向けようとしたら、彼女に手を掴まれた。
「………………馬鹿」
なんだよ。
「今、よ」
「だから今、」
緑色の瞳が俺を見た。その目は足りないと言っていた水分に濡れて光っていた。
湿ったような唇の色と、乱れたままの胸元。
「……馬鹿はお前だ」
言外の意味が分かって、そのまま押し倒してやることもできた。
その手と欲望を振り払って背を向ける。
「水入れてくる。飲んだら部屋に戻って寝ろ。……次喉が渇いたっつったら、水なんて入れてやらねぇからな」
いつもより早い時間に目が覚めた。朝日の色は彼女と同じ髪の色だから、もう眠れそうにはなかった。
グリンが起きている気配もない。
何をしようか、なんて考えるような余裕ができた自分に驚く。
常に命の瀬戸際だった今までの生活に、そんな余暇はなかった。
本でも読むといいと言っていた彼女の言葉を思い出して、部屋の隅にある本棚に手を伸ばした。
どのタイトルも晦渋でよく分からなかったが、それでも一番短いタイトルの本を手に取った。詩集だった。
小難しいことばかり書いてある。分かりきったことを嘆くように書いてある。
紙を捲っていると部屋に近づいてくる足音が聞こえたが、そのまま手元の紙を捲った。
部屋の入り口に彼女が現れた気配がした。
「ろ……」
声をかけられて、俺は本を閉じる。
「あ?」
イースは口元を手で覆っていた。本を読む俺の姿を、信じられないとでもいうように。
「本でも読めって言ったのはお前だろ」
失礼だなと笑うと、そうね、とイースは俺から目を背けた。
「そうね、言ったのは、私だわ」
俺たちの間に、みゃあ、と鳴き声が飛び込んできた。
「グリン」
今日は屋敷のどこを寝床にしていたのか。足元に現れたグリンを彼女が抱き上げる。
「おはよう、グリン。……エル」
自分と同じ目の色の色の子猫を撫でながら、彼女は朝を告げた。
貴族の屋敷といえども田舎町のひっそりとした屋敷に、客人は来ない。一日は穏やかで、そんな日々を自分が送ることに、罪悪感と後ろめたさはあったが、もうこの日々を手放せなかった。
本は意外と悪くなかった。字は読めるとはいえ、今までは読めるような環境もなければ、読む必要もなかった。
この日の夜は紙の文字を照らし出すのに十分な月明かりだったから、俺は窓辺に置かれたソファで本を読んでいた。
部屋の入り口に現れた気配には気付いていたが、話しかけられなかったので話しかけなかった。
衣擦れの音とページを捲る音が重なって、俺から声をかけた。
「イース」
「気付いていたの?」
気付かないわけがないだろう。どんな環境で生きてきたと思ってるんだ。
「寝れないわ」
「あ? 襲うぞ」
歩み寄ってくる姿は、子猫に手を伸ばすようにに無防備だ。
「なんか言えよ」
「馬鹿」
馬鹿なのはお前だろ。
そう言う代わりに手を引いた。
引いた勢いで俺の上に座らせると、腕の中から見上げてきた。
「ちょっと」
「あ?」
少し不服そうな顔だが、抵抗はなかった。
「言えよ」
文句があるなら。
言えよ。抜け出せよ。止めないから。
もう、と言うから逃げ出すかと思ったのに、彼女は腕の中に収まり直した。
「話しに来たのよ……あなたと」
緑色の目に、金髪の俺が映った。赤髪は夕闇に紛れやすかったのに、金色はそれを許してくれない。
「そうか」
「本、面白い?」
「ああ」
彼女の髪は、昼間嗅いだ花の同じ匂いがした。
「面白いな。どんな奴がどんな顔で書いてんのかと想像すると」
「何それ」
俺の言葉に、華奢な体が腕の中で小さく揺れた。
「どんな顔なの?」
「小難しいヤツが澄まし顔で書いてんだろ」
「もう、馬鹿ね」
そう言う声は楽しそうだ。
「私、この本だったらこれが好きよ」
そう言いながら、俺の腕の中で本のページを捲る。何度も読んだのだろう。本の後ろの方を開いて一枚、二枚と捲ると、すぐにそのページを見つけたようだった。
「あった。ここの……」
嬉しそうに振り向いた顔が、俺と目が合うと固まった。
腕の中でそんな顔をされたら、もうたまらなかった。喉が渇いて仕方なくて、欲望を飲み込みたかった。
「喉、渇かねぇ?」
「…………渇いたって言ったら、どうするの?」
そんなの決まってる。
頷かれたらもう、溺れさせることを決めていた。
「私、」
もう何も言わせたくなかった。
顎を掴んで顔を上げさせると、白い喉が緊張を飲み込んだ。
「イース」
名前を呼ぶ。それから、その唇で喉の渇きを癒そうとした。
その時に──足元から小さな声が聞こえた。
「…………グリン」
彼女の顎から手を離し、足元を見るとそこには子猫のグリンの姿があった。
俺が名前を呼ぶと、返事をするように鳴いた。
「起きちゃったの?」
彼女が伸ばした腕の中に、グリンが飛び込んだ。
水を差された。
「部屋に戻るか?」
「え?」
グリンを撫でる彼女の手が止まった。
「もうちょっと……ここにいる」
「そうかよ」
なら俺が言うことはない。
俺は黙って、彼女が子猫を撫でる様を見ていた。月明かりに、目を閉じることができなかった。
【10】女の話
「イース」
私の名前を呼ぶ声は、愛した男の声。
月明かりのせいでその顔がよく見える。──愛した男の顔だ。
顎を掴まれているせいで、その顔から目が背けられない。
名前を呼ばれてるのに、呼び返せない。
「グリン」
足元に現れた存在のおかげで手が離されて、起きちゃったの、と声をかけた。
腕を伸ばすとグリンはすぐに飛び込んできた。
境界線を飛び越える気持ちで彼の元に来たのに、その顔を見たら何もかも分からなくなってしまった。
話そうと思ったのに。
「起きちゃったの?」
猫に話すしかできなくなってしまった。
「部屋に戻るか?」
「え?」
彼の言葉の意味を考えて、それが思いやりだと気がついた。
「もうちょっと」
私はあなたと。
「ここにいる」
「そうかよ」
日付と体の輪郭の境界線を越えたかった。けれど本を捲り始めた彼に、もうその気はなさそうだった。
もう一度彼の傷に触れたかった。
触れた指先を今度こそ離さず、ここまでの経緯すべてを話したかった。
私とあなたが出会う前の。
そしてあなたに手を伸ばした理由と、今もあなたを手放せないその理由を。
聞いてくれたらいいのに。
出会ったばかりの頃、訳ありかと聞かれて頷いただけだった。それが退路を塞いだ気がする。
話したい。話せない。
離したくない。
「眠いか?」
「そうね、ちょっと」
嘘をついて目を閉じた。
「俺もだ」
彼の言葉が、嘘か本当かわからない。
彼は本を置くと、私を背中から抱きしめた。
それにグリンが驚いて、私の膝から飛び降りた。
「よく眠れそうだ」
「そうなのね」
背中から心臓の鼓動が伝わる。耳元にかかった息のせいで私の心臓が跳ねた。
「私もよ」
嘘ばっかりだった。
出会った時から、隠匿と欺瞞しかない。
このまま夜よ明けないで。
姿を見なければ、彼を彼だと思わずに済む。
朝よ来ないでと思うのに、明日も明後日もあることが希望だった。
だからゆっくり伝えていけばいいと決めて、腕の中で眠った。
窓から差し込む太陽の光で明るい部屋の中で、彼の顔が間近にあった。
「起きてたの」
「起きてたよ」
ソファの上で横たわる私の身体は、彼の腕の中に閉じ込められていた。
「起こしてよ」
「言わなかっただろ」
鼻先が触れそうな位置で言われる。もう、と息を吐くと、耳元に手が伸びた。
私の髪を一房手に取って耳にかけて、囁く。
「眩しい」
──そんな触れられ方を、私はずっと前からされたかった。
「……エル」
名前を呼んだ。朝の光の中で呼ぶ名前を、私はもう間違わない。
「イース」
彼の腕の中は熱い。
見つめ合って、ここから先は彼の指先に任せようと、もう何も言わなかった。
秒針のリズムと心臓のリズムが離れていく。
あのキスの先に、今ならいける。
そう思ったそのとき、窓の外から大きな硬い音が聞こえた。馬の蹄の音と、地面を転がる車輪の響き。
小石が車輪に弾かれた音がして、彼が呟いた。
「馬車か」
屋敷に近づくその音は商人の荷車の音としては速く、客人にしては重いし、そもそも客人がくる予定なんてない。
「待っとけ」
エルは立ち上がり、訪問者を確かめに行った。
駆ける馬車の音は止まり、開かれた扉からその声が聞こえた。
「驚いたな」
一体、何に?
よく知ったその声に非日常を感じて、ソファから足を下ろした。
玄関の扉の外に、その姿があった。馬車から降りてきた金髪の人影を、私はよく知っている。
「イース」
その姿のせいで、声がどちらから聞こえたのかわからなかった。
「……まさかと思ったよ」
今度の声は確実に馬車から降りてきたその姿からだった。
「本当に僕に似ているじゃないか」
ロイ。
綺麗な金髪に、灰色の目。品のいい高い鼻。
奇しくも今日エルが来ている服と、よく似ている服を着ている。
違う、エルが似せているのだ。──私はロイがよく着ていた服を選んでいるから。
驚きを隠さないロイの後ろから、もう一つ人影が降りてきた。
「いや本当に、同じ顔じゃないか」
年嵩のある声の、低くて重い呟き。
「お父様」
どうしてここに、お父様が。それにどうして、ロイが一緒なの。
見られたくなかった。知られるはずがないのに。
何も言えない私に、父が瞳を伏せて話し始める。
「昨日街に来た楽団がな、この町でロイを見たと言ったんだよ」
エルの顔を見上げられない代わりに、ロイの顔が視界に入った。その神妙な顔は確かに彼の表情だ。
「私とグレンストール卿、そしてロイと三人で楽団を眺めていたら……どうして今日はここに? と、ロイに話しかけてきてな」
吹いた風に髪が弄ばれて、視界を遮った。
邪魔だから直したいのに、指先が動かない。
「昨日あの町で一緒だった女性は一緒じゃないのかい? と言うから、他人の空似だろうと笑ったんだ」
聞きたくない。聞かせたくないのに、父の語りは続く。
「音楽を気に入ったから食客として招き入れた我が家で、お前の肖像画を見ると、この女性だと」
私たちは、二人で過ごしていただけなのに。
「肖像画のお前が、ロイと同じ顔の男といたと言ったんだよ」
誰に何も言ってないのだから、暴かれたくなかった。
こんな形で暴かれたくなかった。
「ロイと同じ顔だなんて言い過ぎだろう。けれど……お前にその、良い人ができたのなら、どんな男だろうかと見に行こうと思ったんだ」
そう言うと、父が視線を向けた。──エルに。
「とてもよく似ている……本当に、ロイそっくりだ……」
父が私に歩み寄った。
乱れた髪を整えて耳に掛けられると、その顔がよく見える。──憐れむような表情が。
「そんなにロイを愛していたのか……同じ顔の男を探し、傍に置くほど……」
違うの。
何も言わないエルに向かって言いたかった。
けど、何も違わない。何も言えない。
「イース」
久しぶりだね、と言う声は柔らかかった。
「……ロイ」
声が震えていたかもしれない。分からない。
体の芯から冷え切ってしまって、もう感覚がない。
父が一歩引いて、歩み寄ったロイがその代わりに私の目の前で跪いた。
「妹としか思えないなんて、言ってごめん」
同じ顔だ。同じ声だ。
なのにそんな表情も声色も、エルにはなかった。
「きみがこんなにも僕を想って、そして悩んでいるとは知らなかったんだ」
跪いてそのまま、勝手に私の手を取った。
私を見上げる灰色の双眸。
「もう一度、考え直させてほしい。だから……帰ってきてくれないか」
「そんなの」
あまりに勝手だ。
「ごめんね。けど、時間が経たなきゃ……こうならなきゃ、分からなかったんだよ」
ロイの声は優しい。
エルの声と同じなのに、どうして違うのか。
跪くロイの後ろの父と目が合った。
「安心していい、イース」
何を安心しろと言うの。
「お前の姉さんの結婚相手が、多額の支援をしてくれていたから、ロイの父、グレンストール卿とも……婚約の持参金は、話がついてる」
「そんな」
どうして今更。
──ここに来る前だったら、泣いて喜べたのに。
「淡い初恋だろうと、時間が経てばお前も戻ってくるだろうと思っていたんだ」
まさか、と父はエルを一瞥した。
「まさかこんなにもロイに似た…………代わりを見つけて、そんな風に過ごしているとは、思わなかったんだ」
言わないで。代わりだなんて言わないで。
けれど自分がそうさせた。
髪の色を染めさせて、似た服を着せた。
彼に彼の代わりをさせた。
──こんな風に明かされたくなかった。
「きみは、イースのために、顔を変えたりしたのか? 身分を? いや、もう、とにかく」
何も言わないエルを見上げて、父は続けた。
「もう自由にすると良い……ただ、内密にしてほしい。イースがここを離れたら、この屋敷をあげてもいい。だからどうか、言わないでくれ」
子爵の娘が、好きな男の格好をさせた男を慰めに傍にいさせた──なんて汚点になるからな。
と、父は言った。
私とエルの日々を、汚点だと言った。
そうさせたのは私だった。
「……今日はもう、私たちは帰るから、別れを済ませたら帰ってきなさい」
何か言おうとしたロイを父が制した。
「ロイ、今日は私と街に戻ってくれるかい?」
二人は馬車に乗り込んで、その中からロイが私に呼びかけた。
「待ってるよ。あの日からやり直そう」
彼の純粋な金髪が光の色に透ける。
それから馬車の扉が閉められて、土煙を立てて走り去っていく。
風に土埃が舞わなくなっても、私は隣の彼の顔を見れない。私の隣に残っているたった一人なのに。
「よかったな」
その声は冷たい。
「よかったな。本物が迎えに来てくれてよ」
名前を呼ばなきゃいけない。
あなたの名前を呼んで、話さなきゃいけない。
「……エル」
「気付いてたか?」
私は名前を呼んでやっと、彼の顔を見上げることが出来た。
「お前は『エル』って言うとき、躊躇うんだ」
──そんな顔を見たくなかった。
エルの表情に、私は身動きが取れなくなって、部屋に戻る後ろ姿に手を伸ばすことはできなかった。
それでも彼は食事を共にしてくれたし、いつものようにフルーツも剥いてくれた。
それが尚更悲しかった。
問いただして詰ってくれればいいのに、彼は私に何も聞いてこない。
気まずい沈黙が流れながら、食後の飲み物を飲んでいた──その時。
「おい! グリン!」
にゃおと鳴いて、いたずらに光る緑の目がテーブルの上に飛び乗った。
今日はろくに相手をしていなかったからか。
私も、エルも。
一人で痩せっぽっちだった警戒心の強い子猫は、相手をされないと悪戯する天真爛漫な猫になりつつあった。
名前を呼ばれると、グリンは満足そうに鳴いた。それから私たちを見て──揺れた尾が私のグラスに当たった。
「あっ」
グラスが床に落ちて、音を立てて割れる。
驚いたグリンは飛び降りると、一瞬で部屋から消えてしまった。
「もう……」
椅子を降りて、割れたグラスの破片に手を伸ばす。私の目の前にエルの手が伸びてきた。
「俺がやる」
「いいのよ」
それでも手を伸ばそうとすると、その手を掴まれた。
「貴族の嬢ちゃんは椅子に座っとけ」
「何それ」
そんな言い方。
「あ?」
エルは眉間に皺を寄せて、低い声で唸った。
「こういうことは下々のもんに任せろよ」
「何よ、それ」
今までそんな風に言わなかったのに。
どうして急に、私たちの間に線を引いて突き放すの。
理由は分かってる。冷たくされて然るべきだ。
「私とあなたに、上下なんてないわ」
だから引くわけにはいかなくて、落ちた破片に向かって手を伸ばした。
伸ばした指先に尖った破片が刺さって、咄嗟に手を引っ込めた。
「いっ……」
引っ込めた指先を見れば、赤い血がぷっくりと出てきている。
「この」
エルが私の手首を掴んだ。
「馬鹿」
怪我をした指先が口に含まれて、突然のことに息が止まった。
指先で感じる、エルの熱。口の中は暖かくて、柔らかくて、どこまでも生々しかった。
「エル」
躊躇ってない。私はもう、この名前を呼ぶことを──躊躇わない。
名前を呼んだら、咥えていた私の指先から唇を離した。
「イース」
灰色の瞳に見据えられる。
「俺は、」
開かれた唇に言葉が紡がれるのを待つ。
終わったら、私のことも話すから。
だからそれから、これからのことを──。
言葉を待っていたのに、エルの表情が変わった。
「あ?」
振り向いて、エルの視線の先を辿る。
ネズミを咥えるグリンが、私のすぐ後ろにいた。
「きゃあああ!」
グリンがその場にネズミを置いた。その顔はどこか誇らしげだ。ネズミは動かないので、どうやら死んでいるらしい。
叫びながらその場を離れた私に、エルが笑う。
「ははは! お前ももう一人前なんだな!」
「狩りができたな!」
エルはそう言って笑って、グリンの小さな体を抱き上げた。
グリンはエルの腕の中で、やっと遊んでくれるのかとばかりの嬉しそうな顔をしている。
二人とも子どもみたいで、親子みたいだった。
「行けよ」
いきなり言われたから、誰に向けて言ったのか分からなかった。
エルは私を見ていた。灰色の瞳で。
「どうせ俺とお前じゃ、世界が違うんだ」
「そんなこと」
「あるんだよ」
すぐに言い返した私を、エルが遮った。
「俺とお前は世界が違う……俺は汚いことをしてたんだ、だから瀕死で倒れてたんだよ」
グリンはエルの腕の中で、気持ちよさそうに喉を鳴らしている。
「お前のことは助けられたから襲わなかっただけだ。髪の毛を染めるのも、身元や山賊の過去を隠して匿われてると思って……言われたから、傍にいただけだ」
これは別れの言葉だ。
私たちは、別れを悟ってやっと、過去の話をすることができた。
──傷ついて、やっと。
傷ついたところから曝け出すことが出来た。
「よかったな。俺はあの男の代わりになったか?」
「…………好きよ」
「あ?」
我慢ができなかった。今伝えなきゃ届かないと思った。もう戸惑ってる時間の猶予がないから、伝えないといけなかった。
漏らした私の想いに、エルは顔を顰めて、それから笑った。
「俺と同じ顔をした男のことだろ」
「違うの」
「錯覚だよ」
「違うの、エル」
「違わねえよ!」
突然上げられた大きな声に、グリンが驚いて腕の中から逃げ出した。
「お前は俺を通してあの男を見てただけだ! 今までも──今も!」
否定できない。
「同じ顔をしてたから俺を助けたんだろ! 違うか!?」
「違わない……」
その通りだ。
私は否定できない。けど言わなきゃいけない。
「私が、間違ってた」
今まで自分が間違っていたと。
だから出会ったこと自体を、間違いにも汚点にもしないでほしい。
「……そうだよ。お前は間違ってる。お前が好きなのは、あの男だ。俺じゃない」
エルはしゃがんで、落ちたままの破片を拾い始めた。
私が染めさせた金色の髪。
「エル」
「あ?」
掛けられる言葉は、もうこれしかなかった。
「グリンのことを、よろしくね」
「連れていかねぇのか?」
「ええ。きっと不慣れな場所じゃ、不安で悪戯するわ。だから、よろしくね」
もうこの家を出たら、私はもうここに帰らない。暗に屋敷のことを言い含めた。
「はは」
エルは下を向いたままで、破片を拾う手を止めない。
「いい仕事代だ」
もう私たちの間には線が引かれてしまって、きっともう交わることはないんだろうなと思ってしまった。
あなたの色を変えさせた私に、あなたが引いた線を踏む権利なんてないから。
暖かい日差しの降り注ぐ玄関の外に、馬車を呼んでいた。私が生まれ育った街に帰るための馬車を。
その日のグリンは朝から姿を見せなかった。
屋敷の中のどこかにはいるだろう。跳ねるような足音はしていた。
「探してくる」
エルが屋敷の中に探しに行った。
これで見送られずに済む。
「では、お願いします」
御者は戸惑ったが、そのまま強引に出発させた。
小さいが自然に恵まれて、過ごしやすい町だった。
古いが自分たちで手入れをした屋敷には愛着があった。
「……さようなら」
今日のことも、明日には過去になる。
過去に別れを告げたくてここに来たのに、ここも過去になってしまった。
自分が傷ついたなんて言う資格はない。
傷跡のある彼が、一人にならなくてよかったと、あの日拾った子猫の存在に心から感謝した。
久しぶりに見た生家は華やかで、屋敷の調度品は新しく高価なものが多く目に付いた。
「おかえり、イース」
出迎えてくれた父と母と包容を交わすと、その温もりに波立っていた心が少し凪いだ。
「部屋は変わっていないから、ゆっくりするといい」
私の部屋は出る前と変わっていなかった。
この家にふさわしいドレスに着替えようと、クローゼットを開けた。
その中の彩りに少し気が引けた。
こんなにも色はあるのに、私は赤色を金色に変えさせる傲慢な女だった。
世界で一番綺麗な色を、金色だと疑っていなかった。
赤色の夕日に心を打たれたこともあったのに。
エル。あなたの髪を思い出せる。出会ったときは、他と同じ赤色で少し癖っ毛だった。
感傷的になっていると、ノックの音が飛び込んできた。
「イース」
扉の外からかけられた声は父のもの。
「はい」
「ロイが来ているよ」
今、その顔を見たくなかった。
その顔を見てしまえば、感情に浸ることもできない。
「着替えてから、参ります」
わかったと言って遠ざかる足音を聞いて、今まで纏っていたドレスを脱ぐ。
ふと窓の外を見ると、青い空に鳥が飛んでいた。
羨ましく感じて、それから重たいドレスを着て部屋を出て階段を降りた。
美しく整えられた花と生垣のあるガーデンテラスで、並べられたお菓子に手をつけることなくロイは待っていてくれた。
金色の髪が風に靡いて、同じ色のまつ毛に縁取られた灰色の目を伏せて、手元で本を読んでいた。
美しい顔。
私が好きな男の顔。
「イース」
私の気配に気づくと、本を畳んでこちらに顔を向けてくれた。
「おかえり」
「ただいま」
間違えてはいけない。
呼ぶ名を決して、間違えてはいけない。
「……ロイ」
向かい合って座ると、私の目の前のティーカップに紅茶が注がれた。
「どんな本を読んでいたの?」
「詩集だよ」
ロイは読んでいた本の表紙を見せてくれる。
「もうすぐサロン《集まり》で自分の考えた詩の発表をするんだ」
「そうなのね」
真剣に本を読んでいたのは、詩を考えていたかららしい。
──面白いな。どんな奴がどんな顔で書いてんのかと想像すると。
──何それ、どんな顔なの?
──小難しいヤツが澄まし顔で書いてんだろ。
私の顔を見て、ロイが目を細めた。
「きみに嬉しそうにされると、僕も嬉しいよ」
「え?」
私は今、目の前のロイのことではなく、馬鹿ねと答えた会話を思い出していた。
慌てて口元を手で覆った。
「そうね」
泣きそうだ。
「嬉しいわ」
何もかも私から捨てた。
泣く資格なんてない。
「あなたと一緒にいられて」
嘆く必要なんてない。
その日の夕食は家族で取った。
召使いが食器を用意し、猫だっていない穏やかさを絵に描いたような夕食風景。
生まれ育った家を離れてた期間は人生のほんの少しのはずなのに、どうにもお客様然とした居心地の悪さを感じてしまう。
食後に飲み物を飲みながら父が言った。
「姉が良家に嫁いで金銭的に恵まれたのも……これも運命だったのだろう」
よかったわね、と母が両手を叩いた。
「近いうちにパーティーを開かない? ロイとの婚約を祝って」
「そうだな。それがいい」
父がグラスを掲げて乾杯しようと言った。
「娘の未来に、祝福を」
掲げられたグラスの中で運命が揺れていた。
部屋に戻って、窓の外を眺める。
月は煌々と輝いて、欠けているのに眩しかった。
【11】男の話
一人でのんびりと月を眺める余裕もなかった。
「……おい」
ずっと聞こえるその声に、さすがに抱き寄せることを決める。
「鳴くなよ」
見送りもさせてもらえなかったなんて。
みゃあみゃあと、ずっと聞こえるその声はグリンだった。いつも彼女が座ってた椅子の上に座って鳴いている。
昼間は彼女の部屋にいて、馬車の走り去る音を聞いてからもうずっと、彼女を求めるように鳴いていた。
抱き寄せると俺の顔を見上げた子猫の目は緑色。彼女と同じ目の色。
昨日の出来事を思い出す。突然の来訪。彼女の父親と、共に現れた俺と同じ顔をした男。
俺は、純粋な金髪のあの男の代わりだった。
似ていたから、俺を傍にいさせただけ。彼女が俺に言った願いは一つだった。
──私の傍にいてほしいの。
あの願いは、本当はあの男に言いたかった言葉なのだ。
俺ではないあの男に、叶えられたかった願いなのだ。
その願いが叶えられた今、俺の役目は終わった。
愛されていたと思うほど、おめでたいわけじゃない。自分が今までしてきたことを忘れているわけじゃない。
彼女と俺がしていたのは、愛の真似事。
なるほど。
「詩をつくるようなヤツの気持ちがわかった気がするな」
けれどなにも、歌えない。
燻った想いの名前を知らないから、俺は何も歌えない。
「お前ももう一人前なんだろ、泣くなよ」
俺はそう言ってグリンを撫でて、そのままソファで眠った。
商店の賑わう広場に出ると、いつもフルーツを買っている店のやつから声をかけられた。
「今日は一人? 買って行かないの?」
どちらも返事は同じだ。
「……ああ」
うるせえ。
どいつもこいつも。彼女と過ごしたこの町が、俺を一人だと思い知らせる。
揺れる木々の葉一枚でさえ、俺に彼女を思い出させる。緑の目は若葉の色をしていた。
何も買わずに屋敷に戻る。
庭は花が咲いていて、その匂いに彼女の髪を思い出したから、もうどうしようもない。
屋敷に入ってソファに座る。
今更一人で、どうやって過ごせばいいのか分からない。
足元でグリンが鳴いて俺を呼んだ。
「あ?」
見ると、そこには捕まえたであろうネズミの体があった。
「ははは」
元気出せってことか? これを俺に?
いや。
「あいつにか? もう、ここには居ないんだ」
だから分かれよ。諦めろよ。
「山賊が与えられてどうすんだよ……俺」
俺の存在は偽物でも、過ごした日々は本物だろう。
グリンはみゃあと鳴かなかった。
【12】女の話
私とロイの婚約を祝って開催されるパーティーはもう明日に迫っている。
隅々まで管理の行き届いたロイの家の庭は、あの屋敷の咲きっぱなしの花たちとは全然違う。
「父がお気に入りのワインを取り寄せてたよ」
「まあ、そうなの」
隣を歩くロイのエスコートは紳士的だ。
「ねえ……ロイ」
「ん?」
聞き返す時だって、ガラの悪い言葉はない。
「どうしたんだい?」
眼差しは柔らかで、口調には貴族らしい品がある。
「パーティーに備えて、ダンスの練習とかしなくていいかしら?」
そう聞くと、ああと相槌をして視線を逸らされる。
「僕たちは主役なんだし、むしろ座って見ている方がいいだろう」
「踊らないの?」
「それより挨拶回りとかの方が大事だ」
とても彼らしい返事だった。
「そうね……」
「そうとも」
ロイが頷く。
「事業に集中して家名を大きくしたいんだ」
わかってくれるね? とロイは言った。
「わかってくれるだろう? 僕をずっと、見てきてくれたきみなら」
ええそうよ。
私はずっとあなたを見てきた。
だから間違えてしまったの。もう間違えない。
次に手を取る相手を、私はきっと間違えない。
月がない夜。明日はパーティーだというのにまったく眠れなかった。
招待しているという客人のリストを父から渡されていた。蝋燭の明かりでそれを眺める。
殆どが姉の繋がりと、ロイの事業に興味がある客人ばかりのようだ。
私は誰の名を呼ぶでもなく、壁の花であればいいのだろう。
それを望んでいたはずだ。
ロイと結ばれることだけを、願っていたはずだ。
蝋燭の明かりに手元の紙を眺めていると、窓の方からカタンと物音がして顔を上げた。
閉めていたはずなカーテンが夜の風に静かに揺れている。
変だな、と立ち上がったその時。それが聞こえた。
「不用心だな」
昼間に聞いた声と同じ。
なのに──闇と共に窓から現れたその声は、まったく違う。
エル。
今日同じ顔を見た。いや、全然違う。ロイはそんな表情をしない。
「なん、エ」
「静かにしろ」
現れたその窓から室内に押し入ると、私の肩を掴んだ。
その手が熱くて強くて、痛い。
「俺は山賊だ」
エルが私の顎を持ち上げた。
山の中で蝋燭の明かりに照らされて、その髪色は赤く見えた。
「奪いにきたんだ」
エルが続けた。
「俺は俺らしく──お前を」
灰が燃えている。彼の瞳が蝋燭の明かりに揺らいでる。
「エル」
名前を呼んだ。
私が呼ぶと、捕まえた顎先が引き寄せられて──
にゃあ、と私たちの間に柔らかいものが現れた。
「グリン……!」
エルの胸元から飛び出してきたその姿は、一緒に過ごした緑の目の猫だった。
「ああ、少し大きくなった?」
柔らかくて温かい体の感触を確かめると、私から体を離したエルが言った。
「グリンが鳴くんだ」
腕の中でにゃあ、と鳴いた。
「お前を探して、ずっと泣くんだ」
こんな身勝手な私だったのに、求めてくれるのか。
そう言われたら、抱きしめずにはいられない。
「俺もコイツも、お前に拾われたから、お前の言うことを聞くんだ」
もう一人ではいたくない。
この温もりを離したくない。
愛してる。
傍にいたい。
だから言ってくれ、とエルが続けた。
「奪ってほしいと言ってくれ」
【13】男の話
「奪ってほしいと言ってくれ」
言ってくれたらその通りにするつもりだった。
俺に願いを叶えさせてほしかった。
俺の言葉に笑ってくれると思ったのに、彼女は傷ついた顔をした。
「言えないわ」
その言葉に耳を疑った。
「行けないわ、私……」
「イース」
「あなたとは、行けない」
「イース……!」
断られてしまえば、名前を呼ぶしかできなかった。
俺が呼ぶたびに、泣きそうな顔をするのに──どうして。どうしてお前は。
「私はあなたの傍にいる資格がないわ」
「そんなの」
そんなの俺が悩まなかったと思うのか。
どんな思いでここに来たと思ってる。
どうしてお前がそんなことを言うんだ。
彼女の金髪は蝋燭の弱い明かりでも光って見えた。
「……あなたと彼が違うことを、私はよく分かったの」
「…………それは」
それはどういうことだと、聞こうとして飲み込んだ。
拒絶の後では、もう聞きたくはなかった。
拳を握りしめた俺に、彼女はゆっくりと言った。
「けれど、願いを叶えてくれるなら、一つだけ」
お願いさせてと俺に言った。
いくらだって叶えるのに。
「あ?」
言われれば何個だって、叶えてやるのに。
「ふふ……ねえ、やっぱり私、寂しいの」
なら俺に、出会ったときと同じことを言えばいいのに。
彼女は俺の目を見ずにこう言った。
「だから、今更だけどグリンを引き取ってもいい?」
「勝手だな」
「そうね」
俺の嫌味などまったく刺さっていなさそうだった。彼女に撫でられて、グリンが喉を鳴らしている。
「けどいつも、付き合ってくれたわね」
「言われたからな。言ったのはお前だろ」
傍にいてと。俺に望んだのはお前だろ。
俺の言葉に、悲しい顔で笑った。
「ごめんなさい」
悲しいなら泣いてくれたらいいのに、涙の一滴も流しやしなかった。
「謝られたら、俺が許さないわけがないだろ」
彼女は、許しも、俺のことも求めなかった。
「どうか私みたいな女は忘れて、自由に生きて。縛り付けて、ごめんなさい」
俺を見上げて彼女が言った。
「エル。あなたは私の光よ」
眩しさで目をくらませて、そのまま奪って窓の外に飛び出してしまいたかった。
「あなたが作ってくれた影の中で、私は生きていくわ」
【14】女の話
正式な婚約披露パーティーというわけではないが、客人は多く、華やかなパーティーになった。
私の視線の先では楽団が音楽を奏で、広間の中央では煌びやかなドレスを纏った客人たちが踊っている。
ドリンクをテーブルに置いて、隣に立つロイの顔を見上げた。
私の視線に気付いたロイが、口を付けていたグラスを離す。
「どうしたんだい?」
灰色の瞳から目を背ける。広間で踊る人たちは花のようだ。
「少し、踊りたくなってしまって」
「イース」
どうしたんだい、と彼が眉を下げた。
「今までだって、僕はこうしていたじゃないか」
そうね。そうよ。
私はどんな場所でも、ロイの横に立っているだけで幸せだったのに。
なのに、その声のせいで、どうしても望みを言いたくなってしまう。
その声は、望みを叶えてくれると思ってるから。
「……戻ってきてからの、きみは少し変わったね」
「え?」
「一体、きみは僕みたいな男と、どんな風に過ごして、何を言わせていたんだい?」
声に不穏があった。嫌な空気になると思って、緊張で肌がピリついた。
顎を引いた私に、ロイは穏やかさを取り戻して笑いかけた。
「きみはあんまり、家から離れてた時のとこを話さないから」
「……あなたと離れていた時期のことなんて、忘れてしまったから」
嘘よ。忘れてなんかいない。
目の前の顔を見る限り、忘れられるわけがない。
パーティーの喧騒が、どこか遠く聞こえる。
分かったよ、とロイが頷いた。
「……たまには、踊るのも悪くないかな?」
そう言ったロイが、私に手を伸ばした。
伸ばされた手に、私が──。
その瞬間、いくつもの混じった悲鳴が、パーティー会場を切り裂いた。
「なんだ!?」
悲鳴は広間の奥からだった。他の空間に続くその扉の奥から転がるように現れたメイドが会場中に叫んだ。
その服の裾には、煤がついていた。
「お逃げください!」
尋常でないその様子に、音楽が止まり人々が騒然とする。
「火が! 火が上がっております──火事です!」
途端に会場中はパニックになった。
緊張が伝播して悲鳴が飛び交い、食器が割れる音がする。
そんな客人たちを前に、ロイが高らかに言った。
「落ち着いてください。出口はすぐ、あちらです!」
この場全員の命を慮るその言葉の横で、私はたった一つの命のことしか考えられなかった。
「グリン」
私の猫。私と彼の猫。
すん、と吸い込んだ空気に知らない匂いがした。
「火元!?」
「に、二階の奥の部屋からです」
ロイの言葉に、避難してきたメイドが答えた。気が付いて火を消そうと試みたが火の回りが早く間に合わなかったと。
グリン。
広間の奥から階段を登った二階の部屋で、私はグリンを待たせている。
「イース! 僕たちも外に行こう」
移動を始めた人たちを見て、ロイが私の腕を掴んだ。
「先に行って」
私はその手を振り払う。
「私、行かなきゃ」
「イース! どこへ──」
淑女らしさを捨て置いて、メイドが出てきた奥の扉に向かった。
「そっちは危ないだろう!」
後ろから掛けられた声に、一度振り向く。
「すぐに戻るわ!」
──その顔のところに。
広間から飛び出して、メイドたちが避難してきた奥へ進む。奥の方から聞こえた弾くような音は、火の粉の飛ぶ音なのか。
階段の先が気味の悪いほど明るい。──それでも階段を駆け上がる。持ち上げるドレスの裾が重い。
階段を上がりきると、奥に見たことのない大きさの炎が見えた。形がないそれは屋敷の壁や床を食べるようだった。
額に汗が伝ったのは、熱さだけのせいじゃない。
まだ階段と部屋からは遠い。大丈夫だ。
閉めていたはずの部屋の扉は開いていた。
出てきちゃだめよとグリンに言いきかせていた、私の部屋の扉。中に入って部屋の中に呼びかけた。
「グリン! グリンー!」
いくら呼んでも出てきてくれない。こんな時に。
慣れない場所で傍にいることもできず一人にさせてしまった。怖がって隠れているのかとベッドの布団を捲る。いない。ベッドの下にもいない。カーテンの向こう。いない。机の下。いない。
ドアが開いていたから、この部屋から抜け出してしまっている可能性もある。──まさかもう既に。最悪の可能性を想像して目眩がした。
お願い早く姿を見せて。一階に降りてもう外に逃げている? 部屋の中でまだ探していないところは?
「グリン」
クローゼットの扉を開けた。足元を見ると、そこには見慣れたその姿があった。
「ここにいたの」
にゃあ、と鳴いたその声は、悪戯をした時と同じ声。
「隠れんぼなんてしてる場合じゃないのよ。おいで」
呼び寄せるとすぐに腕の中に飛び込んできた。抱き締めて柔らかな体の奥の心臓の鼓動を確認する。よかった。
すぐにここから離れなきゃ。
部屋の外へ出ると、感じたことのない熱気を浴びた。火の手はもうすぐそこに迫っていた。禍々しいほどの明るさに、頭の中まで白く照らされた。
こんなに熱いのに体の奥から凍りつく。
怖い。
グリンを抱くために奮った勇気はもう尽き掛けている。動かなきゃ。そう思うのに火はまるで大きな生き物だった。睨まれれば動けない。
「イース!」
聞こえた声が、誰のものか分からなかった。それでもその声に再び体が動いた。
「早く! こっちだよ!」
「……ロイ」
階下に来ていた見慣れた金髪は、急かすように叫んだ。
「そうだよ! 早く!」
私が行くべき声の先。
腕の中の柔らかな体温を確かめる。足よ動け、行かなきゃ。戻らなきゃ。
足を動かしたその時、いっそう強い爆ぜるような音が聞こえた。
「ひ」
同時に炎が視界に飛び込んでくる。音を立てて勢いを増した火は、階段の手すりと足場を燃やし、そこから壁を伝って侵食した。
「早く! イース!」
熱い。火が揺れている。
火が空気を飲み込む音に、思考が飲み込まれる。
「イース! 来るんだ!」
ロイが火の粉を払いながら階段を登り私に手を伸ばす。
私の後ろの部屋の奥で、火の手のせいかガラスが割れるような音がした。もう後ろにも逃げられないのか。
「イース」
別に大きなわけではなかったその声が、はっきりと聞こえた。背後からかかった声の主が、今度はすぐに誰か分かる。
「エル」
振り向くとそこには、手を伸ばしてくれるロイと同じ顔があった。それでもまったく違うその姿が、ガラスを割って入ってきたのだと、足元に煌めく破片で分かった。
「この馬鹿」
火に照らされて、その髪は赤く見えた。──そんな髪色など、今更どうでもいい。
階段を登ってきたロイが、私の背後の姿を見て息を呑んだ。
「きみは……!」
「早く来い」
音を立てて燃え始める私の部屋の中で、エルが私に手を伸ばした。彼の足がガラスを踏む音がした。
「イース! 僕はこっちだ!」
ロイが手を伸ばして私を呼ぶ。
私を前と後ろから呼ぶ顔は同じで、声も同じ。
それでももう、はっきりと違いが分かる。
──だから、手を伸ばすことを躊躇う。
通り過ぎた過去を炎の中に見て逡巡した。
私が行きたいのは──生きていきたいのは。
「イース!」
眼前が赤く染まった。と思ったら白く染まった。
熱い。眩しい。
天井まで覆った炎が、私を飲み込むように音を立てて迫った。
目を瞑って腕の中のグリンを強く抱き締めた。
私の体を包んだのは、覚悟していた熱さじゃなかった。
「馬鹿はお前だ」
激しい衝撃音がした。爆風と木が割れる音。同時に体の中にその衝撃が伝わった。
何が起きたのかと、ゆっくり目を開ける。
「……エル」
「あ?」
いつもと同じ感じの悪い返事。
私を庇うように抱き締めた目の前のその顔から、血が流れていた。顎を伝った血が落ちる。
「怪我を」
頭から顔にかけて傷を受けたようだった。足元に血の付いた木片が落ちていた。
「ひどい顔か?」
赤い炎に照らされて、血はいっそう赤黒く、その髪は金より鮮やかに光って見える。
「お前はこの顔だから好きになったのにな」
「馬鹿ね」
分からずや。
目の前の男の顔に額を擦り付けた。
「今の方が男前じゃない」
命を奪い尽くそうとする凄まじい音がする。
全てを飲み込もうと炎が舌を伸ばしている。
彼の髪が、顔が、赤く照らされている。
その輝きの中で答えは出ている。
「私が好きなのは、あなたの魂よ」
どんな見目でも関係ない。
赤く輝くあなたが誰より、美しい。
「イース!」
「ごめんなさい」
好きだったその顔に私は告げる。
「ありがとう」
ロイが眼前の火の粉を振り払った。
「その男と、行くのか?」
「ええ」
この男となら、死んでもいい。
業火に焼かれても、灰になって混ざり合えるのならそれでよかった。
「分かった」
ロイが頷いた。
「僕は、遅かったみたいだね」
私の人生で誰より早く出会った男が、そう言った。
「行くぞ」
腕の中のグリンごと、エルが私を抱き上げた。
「もう離してやらないからな」
エルの頭から流れる血が私のドレスに染みを作る。
血に塗れても、それでもいい。
「ずっと傍にいて」
「あ? ……今更だな」
そしてそのまま──炎が広がりゆく部屋の窓に向けて駆け出した。
【15】ある男の話
「心配したぞ!」
屋敷の外にでると、父とその友人が駆け寄ってきた。
ああと頷いて体に付いた煤を払う。
「ほら、ジャケット」
渡されたのは、自分のものではないジャケットだった。
「え?」
渡してきたの顔を見ると、お前のだろうと言ってきた。
「ロイ。お前が渡してきたんじゃないか」
そんな心当たりはない。
「我々が外に出たのを見て──彼女はどこだと言ってジャケットを脱いで屋敷の方に飛び出したじゃないか」
一体どうやって、二階の窓から飛び込んだのだろう。──僕と同じ顔をしたあの男は。
「そのあとまたお前が現れて、同じことを聞いてきた時には火事の恐怖で狂ったのかとおもったぞ」
「は」
笑ってしまう。
僕のものではない、薄汚れたジャケットを見て笑ってしまった。僕のふりをして会場に入ろうとしていたのか? もう分からない。
「はははは!」
同じ顔でも、中身はまったく違うと思った。
笑ってしまう。笑いが止まらない。
「どうした? ロイ? ……イースは?」
ずっと笑い続ける僕を見て、悲しみで狂ったのだと誰も彼女のことを聞いてこなかった。
笑い続けると喉が渇いた。
炎の中に消える彼女の姿は、今までで一番美しい姿だった。
Fin.




