第八章:「ずっと言えなかったこと」
杏奈に心配されるのは、実はすごく嬉しかった。
でもそれを言葉にできない自分が、ずっと歯がゆかった。
(…大丈夫)
そう心で唱えるたびに、自分に嘘をついているような気がして、胸がきゅっと苦しくなる。
でも、杏奈に心配をかけたくなくて、いつも笑ってごまかしていた。
――だけど本当は、とっくの昔に限界を迎えていた。
帰り道、杏奈の「仁さんのこと、どう思ってるの?」という問いが頭から離れなかった。
本当はその時、すぐに答えたかった。
でも、うまく言葉にできない。
心の中でずっとぐるぐるしていた想いが、まとまらなくて、喉の奥で詰まる。
次の日、私は仕事終わりに思い切って杏奈を呼び出した。
人の少ない夜のカフェ。
グラスの中の氷が溶けていくのをぼんやり眺めながら、しばらく黙っていた。
杏奈は何も言わず、ただ私の言葉を待ってくれている。
「…ごめんね、昨日。何も言えなくて。」
俯いたまま、私は声を絞り出した。
「ううん、いいよ。」
杏奈のその優しい声に、ようやく私は顔を上げた。
「私ね、仁さんのこと、本当に“好き”になっちゃったんだと思う。」
自分の口からその言葉が出た瞬間、目の奥が熱くなるのを感じた。
「最初はただの癒しだったの。優しくしてくれるし、話も聞いてくれる。私のことをちゃんと見てくれる気がして。でも、それがどんどん…違う気持ちになっていって。」
指先でグラスをなぞりながら続ける。
「でも、 “好き”になったらダメだよねきっと。向こうはホストだし。お金を払って会いに行ってるだけなのに、私、勝手に想いを募らせちゃって…。わかってるのに、止められないの。」
杏奈は、黙って頷いていた。
否定も肯定もしない。ただ、耳を傾けてくれることが、今は何より嬉しかった。
「最近ね、辛いの。会えない日が続くと、すごく不安になるし、会えた日は嬉しいけど、終わると虚しくて。でも、それでも行きたくなるの。仁さんに会いたくなる。」
自分でもどうしてこんなに不安定なのか、わからなかった。
心がこんなにも揺れるのは、生まれて初めてだった。
「仁さんって、不器用で、冷たい時もあって、言葉も雑で…でも、どこか寂しそうなの。
誰にも触れさせたくないみたいな壁があって、でもその奥に、誰かに愛されたがってる気がして。」
もう言葉を止められなかった。
ずっと押し殺していた気持ちが、堰を切ったように溢れてくる。
「その壁を私が壊せたらいいなって、思ってしまったの。彼の孤独を、私が包んであげたいって。」
杏奈が、そっと私の手を握った。
「ひな、あんたってほんとバカだよね。でも、優しい。…すごく、優しすぎるよ。」
その言葉に、涙が止まらなくなった。
「ごめんね、こんな話…。」
杏奈は首を振った。
「謝らないでよ。もっと早く聞きたかったくらい!私たち、そういう話、隠す仲じゃないでしょ?」
私はこくんと頷いた。
杏奈のその言葉が、どれだけ心を軽くしてくれたか、言葉にできなかった。
あの夜、初めて心の中の想いを口にして、私は少しだけ自分を許せた気がした。
そして、仁さんに向けた気持ちは「好き」なんだと、やっと言葉にできた。
その一歩が、私にとって大きな意味を持っていた。




