第三章:「“名前”というドアノブ」
この世界で、人の名前を呼ぶことほど、力を持つ行為はないと思っている。
それは、人を“この場所に存在させる”魔法だ。
俺は今日も、『仁』を演じる。
優しさと余裕を纏い、孤独と過去を隠す。
ホストという仮面の内側で、誰よりも冷静に客の目を見る。
──キャラを演じていれば、お金になる。
──優しくすれば、求められる。
──でも、本当の“自分”なんて、誰も知らない。
その夜、杏奈とひなが来た。
俺はひなの目を見て、少しだけ息を止めた。
彼女の目は、疲れていた。
でも、濁ってはいなかった。
何かを捨てているようで、まだ何も諦めていない。そんな矛盾を孕んでいた。
「仁です、よろしく。」
いつもの声、いつもの所作。
ただひとつ違ったのは、名前を聞いたときの感覚だった。
──ひな。
優しい響きだった。
でもその名前の奥には、誰にも触らせない場所があるように思えた。
「君、仕事ばかりしてるでしょ。」
出会ってすぐに言う言葉じゃない。わかっている。
でも、そう言わずにはいられなかった。
彼女の“今”が、あまりにも自分に似ていたからだ。
誰にも頼れず、ただ日々をやり過ごす。
心を切り売りして、今日という日を埋めていた。
「…そうですね。」
ひなの声は、どこかくすぐったそうで、少しだけ痛かった。
言葉よりも先に感情が伝わってくる、そんな子。
俺はその夜、一度だけ笑った。
笑わないことが自分のスタイルだった。
…でも、彼女がうつむきながら自分の名前を言ったあの一瞬、自然と笑みがこぼれた。
──この子のこと、もっと知りたい。
そう思ってしまったから。
客を恋愛対象にするなんてありえない。
それは俺が決めているルールのひとつでもある。
だがひなには、何故か“それ”が通用しない気がした。
名前を呼ぶこと。
それは、ドアノブをひねるような行為だ。
触れることで、開いてしまうこともある。
まだ開いていないその扉の向こうに、何があるのかはわからない。
ただ、俺はもう気づいてしまっていたのだろう。
「ひな」という名前が、自分の中で静かに響いていることを。




