第二章:「初めて名前を呼ばれた夜」
「ねえ、ほんとに行くの?」
タクシーの中、私は窓の外を見ながら言った。
「言ったでしょ? たまには羽伸ばそって!きっと楽しいよ!」
杏奈はスマホのカメラでリップを直しながら、嬉しそうに笑う。
夜の街は、昼とは別人だった。
派手なネオンとともに、賑やかさで充満する人や店。
どこか現実ではない場所に来たみたいだった。
タクシーが止まり、降りた先には一軒のビル。
看板も控えめで、一見するとただの雑居ビルのように見える。
杏奈が慣れた手つきでエレベーターのボタンを押した。
「ひな、緊張してる?」
「…してる。ちょっとだけね。」
「大丈夫!私がいるから!」
エレベーターが静かに上がっていく。
数字が増えるたび、胸の奥がざわつくような感じがした。
「いらっしゃいませ。」
エレベーターのドアが開いた瞬間、別世界が広がっていた。
暗すぎない照明、ガラスのように磨かれた床、壁に飾られた高級そうなシャンパンの数々。
大きな音楽とともに、私はホストクラブへと足を踏み入れた。
「初めての方ですね。ご案内します。」
どこに行きたいも、誰に会いたいもなかった私は、杏奈にお店を選んでもらっていた。
どうやら杏奈は、大分前にこのお店に来たことがあるようだ。
内勤の方にお店のシステムを説明してもらい、写真から3人を選ぶように言われた。
(正直、好みの人はいないな…)
写真をパッと見ていいなと思った人、目の前で他のお客さんのヘルプについていた人、杏奈が指名したホストと仲のいい人、この3人を私は選んだ。
選んで間もなくすると、一人のキャストが横に座る。
その人は写真で選んだ人ではなく、どうやら順番にキャストが入れ替わるようだ。
お酒が入っていないとあまり話せない私は、盛り上がることもなく、そのまま次の人がやってきた。
次の人も選んだ人ではない。趣味の話もしたが、それほど盛り上がることはなかった。
(なんだ、ホストってこんなもんか。あんまり楽しくないんだな…)
私の最初の、正直な感想だった。
そして、3人目が来た。
金色の髪にしっかりとメイクされた顔、白いシャツに黒いスキニー。
「仁です、よろしく。」
少しだけ頭を下げた彼の声は、落ち着いていて、なぜか私の中で何かが引っかかる感覚になった。
目の前で他のお客さんのヘルプについていた人、彼は私が選んだうちの一人である。
誰が見ても綺麗な顔をしている彼のことを、私は美しい彫刻、美術品だと思った。
でも何故か、彼の目がどこを見ているのかわからない。
視線は合っているのに、どこか違うところを見ているようで。
笑っていないのに、印象に残る顔。
それは美しさから感じられるものだったのだろうか…優しさと冷たさが、同居しているようだった。
「ひなです。」
「…ひな、ね。かわいい名前。」
そう言って仁さんは少し笑った。
たった一言、名前を呼ばれただけなのに、何故か鼓膜に残る。
呼吸が一瞬だけ止まった気がした。
「君、仕事ばかりしてるでしょ。」
突然のその言葉に、私はドキッとして、言葉が出なかった。
何故そんなことを、初対面の人に言い当てられなければならないのか。
でも、図星すぎて否定できない自分がいた。
「顔に出てるよ。目の奥が疲れてる人って、大体そう。」
仁さんはグラスを持ち上げ、氷を回す。
「…そうですね。」
こんな風に、自分の心の奥を見抜かれたことなんて、これまで一度もなかった。
仕事柄、人を観察することに長けているんだなと、ただ純粋にそう思った。
その夜、仁さんはたった一度しか笑わなかった。
でもその一度が、私の心に強く印象に残っていた。
私はこの時、まだ知らなかった。
この日から、自分の人生が静かに、でも確実に変わり始めていることを。




