第一章:「始まりの合図」
月曜日の朝。
東京はいつも通り、せわしなく回っていた。
築十年のオフィスビルの五階。
小さなマーケティング会社で、私はチームリーダーとして働いている。
20代も後半になると、周りは「結婚」「転職」「実家のこと」なんて話をし出す頃。
でも私は、まだ“走ること”を止められずにいた。
「ひなさん、これレビューお願いします。」
後輩がファイルを差し出す。
「うん、午後までには返すね。」
デスクの上には、終わらないToDoリスト。
コーヒーは、いつの間にか冷えていた。
「もう、ほんと働きすぎ!」
ランチのとき、杏奈がサラダをつつきながら言った。
「…そう?」
私は少し笑いながら、心の奥で何かがチクリとしたことから目を背けた。
杏奈とは、もう5年弱の付き合いになる。
上京して最初の職場で出会ってから、プライベートでも仕事でも、ずっと一緒にいた。
似てないけど、合う。ぶつかることもあるけど、不思議と離れない。
そんな関係。
「今日、帰り行こうよ!」
「…どこに?」
「前言ってたとこ!ホストクラブ!!」
私は箸を止めた。
「…もう忘れたと思ってたのに。そんなに行きたい?」
「忘れないよ!でも、どうせ断られると思ってたし…。」
杏奈はちょっとだけ拗ねたように笑った。
行かない理由は、いくつかあった。
お金、時間、興味がない――そう思っていた。
でもたぶん、本当は違う。
“自分はそういう場所にふさわしくない”
心のどこかで、そう決めつけてた。
ホストクラブなんて、もっと自由で、もっとキラキラした人たちが行く場所。
そんな人たちだけがお金の代わりに“愛される”資格を持てる――そんな気がしていた。
「ね、今日行こ!ほんの1時間でいいから!」
杏奈の声は、まっすぐだった。
「…1時間だけだからね。」
この夜、私は誰かと出会う準備を、自分でも知らないうちに始めていたのだった。




