平和の味
第1章「空墓」
夜明け前の墓地は、霧に沈んでいる。
私は膝をついて、墓石の前に道具を広げた。革の鞄から銅の管を取り出す。先端は針のように細く、持ち手には目盛りが刻んである。
管を土に刺す。ゆっくりと、墓石の根元から斜めに。肉を裂くような抵抗があって、それから急に軽くなる。届いた。
目盛りを見ながら、ゆっくりと引く。
青い液体が管を昇ってくる。悲しみの色だ。
ガラス瓶を構えて、管の弁を開く。液体が瓶に落ちる。とろりとした粘度。熟成が進んでいる。十年物か、それ以上か。
瓶が半分ほど満たされたところで、流れが止まった。空になったのだ。
管を抜く。穴は自然に塞がる。墓の土はそういうものだ。何度刺しても、傷跡は残らない。
墓石には名前が刻んである。
読まない。
読むと考えてしまうから。この人がどう生きて、どう死んだのか。誰を愛して、何を悲しんだのか。
最初の頃は読んでいた。三年前、この仕事を始めたばかりの頃。墓石の名前を読んで、そこに眠る人のことを想像した。家族がいたのだろうか。子どもは。友人は。どんな人生だったのか。
今は読まない。
瓶に蓋をして、鞄にしまう。立ち上がって、次の墓へ向かう。霧の中を歩く。足音だけが響く。
次の墓も、その次の墓も。同じように管を刺して、同じように瓶に詰める。金色が出ることもある。喜び。赤が出ることもある。怒り。どれも同じように瓶に詰めて、鞄にしまう。
空になった墓が増えていく。感情を採り尽くした墓。ただの石と土。「空墓」と呼ばれる。
太陽が昇り始める頃、鞄は瓶でいっぱいになった。
「いい採れ高だな」
先輩が瓶を検品している。手つきは淡々としている。ガラス越しに液体の色を確かめ、傾けて粘度を見る。
「この悲しみは上物だ。熟成が効いてる」
精製室は地下にある。石壁に囲まれた狭い部屋で、棚には瓶が並んでいる。蝋燭の明かりで瓶の中身がゆらめく。青、金、赤、黒。色とりどりの感情。
「これは二十年物かな。いい墓を見つけたな」
先輩は瓶を棚に並べていく。私は次の作業に移る。精製だ。採ってきた感情から不純物を取り除き、味を調える。
濾過器に液体を注ぐ。布を通すと、細かい砂や土が取り除かれる。透明度が上がる。
「昨日の常連が来るぞ。悲しみを二杯、予約してる」
「わかりました」
作業を続ける。手は勝手に動く。三年もやれば、考えなくてもできるようになる。
夕方、店が開く。
黄昏亭は墓地の入口に建っている。石造りの小さな店。入口には骨を模した看板が揺れている。窓から墓地が見える。霧が墓石の間を漂っている。
カウンターに立つ。店内は薄暗い。蝋燭の灯りが揺れている。壁には感情の色見本が飾ってある。メニューは黒板に手書き。
最初の客が来る。
扉が開いて、一人の男が入ってきた。
身なりの良い男だった。仕立ての良い上着。磨かれた革靴。カフスボタンは銀細工。人間社会のドレスコードを完璧に守っている。わざわざ。
だが顔は——。
瞳孔が縦に裂けている。黄色い虹彩の中で、黒い縦線が蠢く。まばたきをするたびに、瞼の裏が透けて眼球の動きが見える。皮膚が薄すぎるのだ。頬骨のあたりでは、下の筋繊維がうっすらと透けている。赤黒い筋が、表情のたびにぴくりと動く。
鼻梁は人間より長く、鼻孔が縦に割れている。そこから吐き出される息は微かに甘い。腐った果物のような甘さ。
唇は人間に似せてある。だが笑うと口角が上がりすぎる。頬の途中まで裂けるように広がって、そこから歯茎が覗く。歯は白いが、一本一本が微妙に長い。犬歯だけではない。すべての歯が、少しだけ長い。
彼らはこの姿を「正装」と呼ぶらしい。人間に合わせて、できる限り人間らしく見せている。それでもこれだ。合わせてくれなかったら——考えたくない。
「いらっしゃいませ」
「悲しみを一杯」
声は普通だった。声だけは。
カウンターに座る。私は棚から瓶を取り出す。今朝採ってきた青い液体。グラスに注ぐ。
男は受け取って、ゆっくりと口に運んだ。目を閉じる。瞼の下で眼球がぐるりと動くのが透けて見えた。
しばらく動かない。
目を開けた時、涙が頬を伝っていた。
「いい悲しみだ」
男は目尻を拭った。だが表情は満足そうだった。
「子を失った親の悲しみだな。深みがある」
誰かの親だった。子を亡くして、悲しんで、そして死んだ。その悲しみが今、この男の腹に収まった。
「もう一杯」
「かしこまりました」
二杯目を注ぐ。男は飲む。また目を閉じる。
「……いい時代になった」
男がグラスを置いて言った。
「昔はこうはいかなかった」
「そうなんですか」
「生きた人間を襲うしかなかったんだ」
男は遠くを見るような目をした。
「感情を奪われた人間がどうなるか、知ってるか」
「抜け殻に」
「ああ。意志も感情も失って、ただ呼吸するだけの存在になる。死より恐ろしいと言われた」
私は黙って聞いている。
「だから戦争になった。何百年も。村が襲われ、家族が抜け殻にされた。人間は俺たちを魔物と呼んだ。憎んだ。殺し合った」
男は三杯目を注文した。今度は金色を。喜び。
「今は違う」
「安寧条約」
「そう。死んだ人間の感情で足りる。誰も傷つかない」
グラスを傾けながら、男は窓の外を見た。
「今日、王都の広場でデモがあったらしいな」
「デモ、ですか」
「『死者の尊厳を守る会』とかいう連中だ。毎月やってる。死者の感情を喰うのは冒涜だとか、二度目の死を与えているとか」
男の裂けた瞳孔が細くなった。笑っているのだろう。たぶん。
「人間同士で揉めてるんだから面白い。俺たちは関係ない。条約で認められてるんだから」
「そうですね」
「連中に言わせれば、俺たちは『墓荒らしに加担する悪魔』らしい」
男はグラスを空けた。
「昔は『村を襲う悪魔』だった。随分と出世したもんだ」
誰も。
私はグラスを拭いている。手は止まらない。
「百五十年、平和が続いている。いい時代だ」
男は代金を置いて立ち上がった。
「ご馳走様」
「ありがとうございました」
扉が閉まる。
誰も傷つかない。
墓の下の人は。
閉店後、私は店の前に立っていた。
墓地を見ている。霧の中、墓石が並んでいる。月明かりで白く浮かび上がっている。
誰も傷つかない。さっきの客はそう言った。
空墓が増えている。今朝も、いくつかの墓から最後の一滴を採った。感情を採り尽くした墓。名前だけが残っている。
誰かがここで眠っていた。誰かを愛し、何かに怒り、何かを悲しみ、そして死んだ。その全てが瓶に詰められ、売られ、飲まれた。
明日もここから感情を採る。
誰かが生きた証を、瓶に詰めて、売る。
何かを感じるべきだった。
三年前の自分なら、何か感じただろう。墓石の名前を読んで、そこに眠る人のことを思って。悲しいとか、申し訳ないとか。何か。
だが今は何も浮かんでこない。
店に戻る。明日の準備をしなければ。
夜明け前には墓地に行く。管を刺して、瓶に詰めて、売る。客は満足して帰る。誰も傷つかない。
誰も。




