秋晴れの朝
末永は二週間前にカフェ『ポアロ』の窓を何者かに割られて以降、店の奥にある休憩室で寝泊まりするようになっていた。
警察は頼りにならない。自分自身で犯人を突き止めてやる。そんな気概と、長年、探偵業で飯を食っていたという自負心からの行動だったが、襲撃はおろか、怪しい人影を見かけることもなく、すこぶる平和に過ごしていた。
そして、簡易的なシャワーさえ用意すれば、自転車で十分ほどの距離にあるアパートに帰らなくても、このまま店に住めるのではないか、と思うようになっていた。そのほうが利便性があるのはもちろんのこと、裏のドアを開け放つと相模湾が見渡せる、というロケーションがよかった。これは、住宅街にあるアパートでは味わえない贅沢であり、朝起きるとすぐにコーヒーを淹れて外に出て一服、というのがルーティン化していた。
十月十三日の朝も、末永はいつものように、布団代わりに使っているシュラフから起き出すと、コーヒーをマグカップに注いで外へ出た。
秋晴れの、空気が澄み切った、朝焼けの海が広がっていた。海岸には誰もおらず、海にもサーファーが数人散在しているだけだ。目を閉じれば、聞こえてくるのは、波と風とカモメの鳴き声だけ。今日のように穏やかな日々が毎日続けばいいのに。
末永はそんなことを思いながら、外に置きっ放しにしてある椅子に腰かけ、紙たばこを取り出して火を点けた。不整脈のために医者から禁煙するよういわれ、東京に住んでいた頃はストレスを抱きながらも、その忠告を守っていたが、茅ケ崎に移り住んでからまた悪習が復活してしまった。いつも上手い空気を吸っているのだから、すこしくらい害のある煙を吸っても構わないだろう、というのが末永の都合のいい言い訳だった。
海を眺めながら、たばこを一本吸い終わり、カフェインが効いて頭が覚醒されてくると、末永は優から受け取った小説の続きを読んでしまおうと思い立ち、休憩室から原稿を取ってきて再び外の椅子に座り、プリントアウトされた文章に目を落とした。
優が書いた小説は、レオナルド・ダ・ヴィンチの若き日を描いたもので、彼が師匠ヴェロッキオに初対面するシーンまでを、末永はすでに読み終えていた。ちょうど、『ダ・ヴィンチ・コード』を読んでいて、ダ・ヴィンチに興味が湧いていたことや、優の文章が思ったよりも苦もなく読めることもあり、末永は物語に引きつけられていた。原稿を両手で持ち、昨夜に寝床で読んだ続きから黙読をはじめた。