表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/11

葉山

 翌日、葉山町一帯は、文句のつけようのない素晴らしい秋晴れに恵まれていた。三浦半島西部に位置する海岸からは、南の方角に顔を向ければ江の島、さらに遠く天城山脈、伊豆半島の山々、薄っすらと富士山も見渡せた。太陽の光を反射して煌めく海面を、幾艘ものヨットが右へ左へと走っていた。色とりどりの帆をはためかせる風が心地よく吹いていた。

 これが休暇で来ていたのなら、それも中村という冴えない部下と一緒ではなく、一人きりだったらどんなにリフレッシュできたことだろう。

 まどかは微かに苦々しい気持ちを抱きつつ、相模湾を臨む高台に建つ、白亜の宮殿を思わせる豪奢な建物に入っていった。そこが、福田の父・幸雄が最後の安住の地に選んだ老人ホーム『葉山の(もり)』だった。

 受付で訪問客用のバッジをもらい、ロビーでソファに座り待っていると、目の前にあるエレベーターの扉が開いて、若い男性職員に車椅子を押されて、福田幸雄が姿を現した。

 現在七十七歳。総白髪で額にしわが三本、くっきりと刻まれ、その下にある両目は赤く充血していた。まどかと中村が立ち上がると、

「どうも、遠い所をわざわざ、ご足労おかけします」

 幸雄はいまにも泣き出しそうな震えた声でそういいながら会釈した。

 まどかと中村が悔やみの言葉を述べると、

「談話室を予約してありますので、そちらにご案内します」

 ポロシャツの胸に『小泉』というバッジを付けた男性職員が、ロビーの先にある個室のほうを手で示しながらいった。年齢は二十代前半だろうか。さすがに高級な老人ホームとあって、物腰が柔らかく丁寧な言葉づかいだった。しかし、彼の顔があまりに青白くて不健康に見えるため、まどかには、幸雄を迎えに来た死神のように思えた。

 テーブルと左右に三脚の椅子が置かれた個室に案内してくれると、小泉はまどかたちに飲み物の要望を訊いてから退室した。

 まどかが、改めて悔やみの言葉を口にすると、

「息子は自殺するような弱い男ではない。かといって、誰かから恨みを買って殺されたとも思えない」

 先手を打つようにして、幸雄は自分の意見を述べ、鼻水をすすった。

「ご連絡させて頂いたとおり、まだ真相は不明で調査中なんです。お父様から見て、息子さんは自殺するような悩みを抱えているようには思えなかった、ということですね?」

「あいつの仕事は、ゼロからイチを作り出して、そこからさらに百に膨らませていくものです。その苦労は、私みたいにずっと会社勤めをしてきた者には計り知れないものがあります。けれど、駆け出しの頃ならまだしも、あいつはもう十分すぎるほどの地位を築いた。仕事の悩みで自殺なんてことは考えられません」

 幸雄は、やっと自分の胸の内を打ち明けられる相手に会い、我慢していたものをぶちまけるように、テーブル越しに対座するまどかと中村を交互に見ながら、一気呵成に喋った。

 ドアがノックされ、小泉が三人分のお茶を運び退室すると、

「絵描きになりたい。そんな夢みたいなことをいって、あいつが美大を受けるといったときは、私も女房も大反対したんです。けれど、あいつはそれを押し切って入学した。そこで出会った同級生と自分を比べて、才能のなさに気づいて落ち込んだかと思えば、今度は漫画家になりたいと。どうしてそんなに険しい道ばかりを選ぶのか。サラリーマンになって家庭をもち、普通の幸せというものを手に入れたほうがいいじゃないか。美大に入りたいといったとき以上に、私たち夫婦は反対しました。でも、あいつは強情な性格なんです。案の定、売れない時期が続きましたが、結果的にあいつがいってた〝何者かになる〟というのは達成されたんです。それなのに、こんなことになってしまって……」

 幸雄が悲しみで言葉を詰まらせ、ハンカチで目頭を拭い終えるタイミングを見計らい、

「息子さんと最後にお会いしたのはいつ頃ですか?」

 ようやく、という気持ちで、まどかは質問を繰り出した。

「いつだったろう……そうだ、二週間ほど前だ。珍しく、前もって連絡せずに突然、姿を見せた。なんでも、湘南に住む学生時代の友人に会うとかで。そのついでにここへ寄ってくれた」

 二週間前といえば、福田はすでに異常をきたしていた頃だ。もしかしたら、その友人が、例の『最後の晩餐』の写真を送りつけてきた脅迫者なのではないか。まどかはそう思い、前傾姿勢になった。

「その友人の名前はわかりますか?」

「いや、聞きませんでした」

「湘南のどちらに住んでいる方かもわかりませんか?」

「わかりません。結局、その友人とも会えなかったといってました」

「そうですか……」

 諸説あるが、湘南といえば相模湾沿岸の全域を意味し、かなりの広範囲になる。いずれにしても、福田が住む目黒のマンションからは遠いというのに、前もって会う約束をしてなかったのだろうか? その点がまどかは気になった。もし自分が福田とおなじような行動をすることがあったら、それはどんな場合か。友人と連絡がつかず、相手が独身のため、病気で倒れたか、あるいは事件や事故に巻き込まれたことを心配して――。

「あの、その友人と、純の死となにか関係が?」

 まどかの思考を断絶するように、幸雄が不安げな顔を向けてきた。

「あ、いえ、参考までに訊いただけです。お会いしたとき、息子さんにどこか変わった様子はありませんでした?」

「なにも。いつもどおりでしたけど」

 幸雄は訝しむような表情を浮かべ、まどかの顔を見つめてくる。高齢の父親を心配させないようにと、福田は無理に通常どおりの振る舞いをしたのだろうか?

「息子さんが二十年近く描き続けてきた漫画の連載をやめた、ということはご存知ですか?」

「ええ。職員の方に頼んで、毎週、週刊誌を買ってきてもらって読んでますので」

「連載をやめるという話は、事前に聞いていたんですか?」

「ええ。それは一ヶ月ほど前に電話で」

「やめる理由はお訊ねしました?」

「疲れたと。ただひと言、そういってました」

「それに対してお父様はなんて返しました? 続けるように説得したりは?」

「いえいえ。私にそんな権利はありませんから。ただ、毎週の楽しみがなくなるのは寂しい、とだけは伝えましたけど。いま思えば、そんなこというべきじゃなかったのかもしれません」

「どうしてです?」

「一瞬、あいつは黙り込んだんです。それから『ごめん』と。声が湿っているように聞こえました」

「そうですか」

 もしそれが本当であれば、『無敵のリヴァイア』の連載を終えることは、福田にとっては不本意なことだったのかもしれない。やはり、誰かに脅されていたのだろうか? だとすれば誰に、なぜ? まどかは頭を悩ませた。

 その疑問を解く鍵を、幸雄が握っているかもしれない。事前に聞いた話では、幸雄は心臓に疾患を抱えているという。過去に急な発作で倒れたことがあり、あまり刺激的なことはいうべきでないことはわかりつつも、

「実は、息子さんと近しい方々の話では、一ヶ月ほど前から、息子さんの様子がおかしかったそうです」と告げた。

「といいますと?」

「なにかに怯えるような感じだったそうです。そんな姿、いままで見たことがないと。連載の終了を申し出たのもちょうどその時期で、編集者が何度説得しても、まったく耳を傾けてはくれなかったそうです。……そのことに気づきませんでした?」

「いえ、特には。いつもと変わらなかったように思いますが。とはいえ、私は携帯電話を持っておらず、インターネットというものにも疎いので、息子がここへ会いに来るか、たまに電話で話をするだけなので、頻繁に様子を確認していたわけではないのですが。……怯えるとはどういうことです? 息子は誰かに脅されてでもいたのでしょうか?」

「それはまだ捜査中でわからないです」

「息子は誰かに殺された?」

 悲壮な表情を浮かべる幸雄の顔を見て、やはり余計なことはいわなければよかったかと、まどかはすこし後悔した。

「落ち着いてください。まだそうと決まったわけではないので」

「はあ……」と幸雄は苦痛で顔を歪め、心臓のあたりを手で抑えた。

「大丈夫ですか? 職員の方を呼びましょうか?」

 幸雄は一つ大きく深呼吸をした。「いや、大丈夫。それよりはやく、息子がどうして死んだのかを知りたい。このままでは、あの世にいる女房に申し訳が立たない」

 落胆する姿を見て、幸雄が福田の財産を目当てに殺害した、という可能性はないのではないか、とまどかは考えた。すくなくとも、車椅子での移動を余儀なくされる幸雄が、自分の手で息子を殺したとは考えられない。となると、誰かに依頼したのか。誰に? その線もやはり考えにくい。目の前で悲しむ姿が演技ではないのならば……。

「これは念のための確認なので、お気を悪くしないで頂ければと思うのですが」

「なんでしょうか?」

「一昨日、十月十日の十三時から十五時のあいだ、どちらでなにをされてました?」

「ああ……」質問の意図を察したらしい。幸雄はため息を吐くように小さく声を発すると、「ここにいました。外出するときは申告しなければならないので、私のアリバイはすぐに確認できると思いますよ」

「わかりました。ありがとうございます。質問は以上になります。職員の方をお呼びしましょうか?」

「いや、それならおよびません。これを押せば、担当の職員がすぐに来てくれるので」

 幸雄は、ポケットから手のひらサイズのリモコンのようなものを取り出した。それに設置されたボタンを押すと、専属の職員を呼び出す仕組みになっているらしい。実際、数秒と経たずにドアがノックされ、

「失礼します」と小泉が顔を覗かせた。

「刑事さんたち、お帰りになられるそうです」幸雄は小泉にそういうと、まどかたちのほうを向いた。「玄関までお見送りしましょう」

 幸雄の体調を気遣って、まどかは丁重に断ったが、

「いえいえ。わざわざ東京から足を運んで頂いたのですから」ということで、玄関まで一緒に移動することになった。

 幸雄の車椅子を押す小泉の斜め後ろに位置して、まどかと中村は個室から出た。

 まどかはふと、小泉の手が荒れていることに気づいた。幼少期、皮膚の弱い母親がよく、冬場にあかぎれで痛々しい手をしていたことを思い出した。

 しかし、いまは夏と秋の境目のような暖かい気候だ。それでも手がそのような状態になっているということは、それだけ彼の仕事が大変だということだろう。

 海のすぐ近くで働いているというのに、小泉の肌は一切の日焼けを拒むように白く、腕は女性のように細い。ここに住む老人たちに生気を奪われているのではないか。そんなバカげたことを考えつつ、

「職員の方がマンツーマンでつくんですね」

 まどかは小泉に話しかけた。

「ご利用者に大体、三人から四人が交代制でついてます。福田さんの場合は、僕とほかに女性が二名」

 さすが、高級老人ホームと謳うだけのことはある。まどかは感心した。

「そのなかでも僕が一番、勤務時間が長いので、最近では僕のほうが悩み相談なんかすることもあります。どちらがお世話するほうなんだか、わからなくなってきてますよね」

 小泉が幸雄にふっと微笑みかける。

「とても優しい青年で助かってるよ。孫がいたらこんな感じだったのかな、という気持ちを味わってる」

 幸雄が太鼓判を押す。ここへ来て初めて笑みを見せた。小泉とかなり親密な仲であることが窺えた。確かに、年齢的には祖父と孫の関係でもおかしくない。福田が仮に〝普通の幸せ〟を追い求めていれば、いまごろは死ぬこともなく、父親を家で面倒見て、自分の妻と、小泉くらいの年齢の息子と一緒に暮らす世界線があったのかもしれない。

「そうだ、私のアリバイを確認するんでしたね。受付に問い合わせてください」

 幸雄が受付のほうを指さすと、小泉がそちらへ進路を変えた。

 中村が受付の女性に幸雄のアリバイを確認するのを待ちながら、

「小泉さんは、福田さんの息子さんには何度かお会いしたことあります?」

 まどかはそれとなく、彼に対しても事情聴取を試みた。それを察したのか、幸雄は押し黙った。

「はい。ちょうど勤務していたときだったので」

「二週間前に息子さんがこちらを訪問したときも、お会いになられました?」

「はい。ちょうど勤務日だったので」

「そのときの様子、どこか変わったところはありませんでした?」

「いえ……変わったところというと、具体的にはどういう感じですか?」

「なにかに怯える素振りを、一ヶ月前くらいから周囲の人たちに見せていたらしい」幸雄が口を挟み、小泉を見上げた。「ここへ来たときは、そんな様子はなかったよね?」

「そうですね。いつもと変わらないように見えましたけど」

 小泉はそう答えたが、幸雄を気遣った可能性もあるかもしれない。

「念のために、幸雄さんを担当する、ほかの女性二人の名前も教えて頂けますか?」

 小泉が口にした二人の女性の名前をまどかが手帳にメモし終えたところで、中村が戻ってきた。

「どうでした?」まどかよりも先に幸雄が訊いた。「私のアリバイ、ちゃんと確認できました?」

「できました。すいませんでした」

「いや、謝らないでください。それが刑事さんのお仕事なんですから」とはいいつつ、やはり気分はよくないのだろう。幸雄の顔から先程までの笑みは消えてしまった。

「アリバイというと……」

 小泉は興味を示したものの、余計な口出しをするべきではないと即座に判断したらしく、口を閉ざして慎んだ。

 しかし幸雄は、

「一昨日の十三時から十五時。つまり、そのときに息子が死んだというわけだ」と事務的に答えた。「小泉くんは休暇で、海釣りに行くといっていた日だよ」

「ああ、そうですね。でも結局、朝から雨が降っていたので、釣りに行くのは中止して、家でのんびりしてました」

 意外にアウトドアの趣味をもっているのか、とまどかは驚いた。

「福田さんも、その時間は大体いつも昼寝をされるので、外出することは滅多にないですよね」

 小泉に話を振られ、幸雄はゆっくり大きく頷いた。

「そう。一昨日も昼寝をしていた。そのときに息子がそんなことになっていたなんて」幸雄は涙ぐみそうになるのをグッと堪えた。「さあ、ここで立ち話をするのもなんです。行きましょうか」

 エントランスの自動ドアを出ると、幸雄の車椅子を押していた小泉は立ち止まった。

「では、ここで。お二人とも、ご迷惑をおかけしますが、どうか息子の死の真相を突き止めてください。よろしくお願いします」

 頭を下げる幸雄に別れの挨拶をいい、まどかと中村は捜査車両に乗り込んだ。幸雄は、二人の姿が見えなくなるまで、小泉と一緒にロータリーの屋根の下でじっとしていた。その顔には、一刻もはやく息子の死の謎を究明して欲しい、という切実な願いが感じられた。

「ここへ来るまで、実は心のなかでちょっと疑ってた」

 『葉山の杜』の敷地内から道路へ出て、幸雄たちの姿が完全に見えなくなったところで、まどかは口を開いた。

「なにをですか?」と運転席の中村が振り返る。

「幸雄さんが、福田さんの財産目当てで殺したんじゃないかって」

「あれでは無理ですよ」

 中村は笑う。〝あれ〟というのは、車椅子に乗っていることを意味するのだろう。

「あるいは、誰かに依頼して殺してもらったか」

「闇バイト的なものでってことですか? でも、幸雄さんはネットには詳しくなさそうでしたよ」

「嘘をついてるのかもしれない。それに、殺人の依頼をするなら、別にネットを通じなくてもいい。むしろ、意思の疎通が取りやすい身近な人のほうが便利だったりするかもしれない。その場合、相手に余程の信頼を寄せてないと、情報が漏れる可能性があるけど」

「え、まさか先輩、あの小泉って職員を?」

「いま一番、すくなくともあの老人ホームで一番、幸雄さんと親しいのは彼でしょ」

「いや、でもいくらなんでも考え過ぎじゃないですか? 幸雄さんは本当に悲しんでいるように見えましたし、小泉って子は優しそうで、殺しなんてするような子には見えませんでした」

「中村」まどかは窘める口調で彼の横顔を見た。

「見た目で判断するなってことですよね。わかってます。けど……」

 中村は納得ができない様子だった。実際のところ、まどかも幸雄や小泉が犯罪に関わるような人物には見えなかった。けれど、福田と関係がある以上、そして殺人の可能性があるからには、現段階では彼らにも疑いの目を向けなければならなかった。

「あ、雨」と最初に気づいたのは中村だった。見上げると、『葉山の杜』を訪れたときの快晴が嘘のように、いつのまにか雲が広がっていた。

「女心と秋の空、ですね」

 独り言のように呟いた中村の言葉によって、麗華の脳裏にはなぜか麗華の姿が浮かんだ。けれど、千葉県警によれば、ホストの流聖とゴルフ場へ行った、という彼女のアリバイは確かなものだった。

 そして、鑑識に調べてみてもらったところ、『最後の晩餐』の写真からは福田と、最初に封筒からその写真を取り出したアシスタントの指紋しか付着してなかったという。仮にそれが何者かによる脅迫のメッセージを含んだものであったとしても、その犯人の得体は知れなかった。

 まどかは中村に気づかれないよう、こっそりため息を吐いた。今回の捜査は長引く。刑事としての十年以上のキャリアが、まどかにそんな嫌な予感を抱かせた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ