国民の推測
事後、男はまどかとの心のかよわない情事の痕跡をすぐさま消したいとでもいうように、さっさとベッドから出てバスルームへ向かってしまった。
その中年太りした、たるみ切ったうしろ姿を見送りながら、まどかは枕元に置いてある電子たばこを手に取り一服した。日中、仕事をしているときは口にしないニコチンが肺から吸収され、捜査で凝り固まった脳をほぐしてくれる。そんな気がした。
サイドテーブルに置いた缶チューハイでアルコールを注入すると、男だけが達した不満がすこしは和らいだ。
ラブホテル特有の糊の利いたカバーがかけられた枕を背にして、まどかは上半身を起こした。男が『流しておくと勃ちがよくなる』という、大画面のテレビに映るアダルトビデオの映像をぼんやりと眺めながら、
――あいつとはもうこれきりにしよう。
まどかはそう決めた。〝あいつ〟とは、バスルームで鼻歌を歌いながらシャワーを浴びている男のことだ。三ヶ月ほど前にマッチングアプリを介して知り合った。『既婚。割り切った関係を希望』という、相手のプロフィールを見て会うことに決めた。
自分の素性は隠し、刑事ではなく商社勤めで既婚者、と偽っていた。開発職に就いているという男の身柄も本当かはわからず、まどかにとって、そんなことはどうでもよかった。ただ、したいときにして、ストレスを発散できればいいのだ。
まどかはここ数年、独身の男と交際したことがなかった。しばらく付き合いを続けると、どうしても二人のあいだに〝結婚〟の文字が浮かぶようで面倒だからだ。
シャワーの音が止まり、脂肪で段々になった腹をバスタオルで拭きながら、男が出てきた。相変わらず鼻歌を歌っているのが癪に障った。
「そっか、今週から海外出張か。しばらく会えないね」
男はベッドの端に腰かけ、情事の前にまどかがついた嘘をすっかり信じた様子で口にした。
「そうだね」もう二度と会うこともないかな、と心のなかで付け足し、「私もシャワー浴びてくる」
三十五歳になったいまでも警視庁の独身寮で暮らすまどかにとって、広々としたラブホテルのバスルームは快適で、バスタブにゆっくり浸かりたいと思うのだが、情事前は男に急かされ、情事後は自身がさっさと帰りたくなるため、いつも叶わずにいた。
今日も素早く身体を洗い、バスタオルで拭きながらベッドへ戻ると、男はスマホを手にしていた。その待ち受け画面には、二人の娘の画像を載せていることをまどかは知っている。偶然なのかはわからないが、マッチングアプリで出会う不倫願望の強い男に限って、対外的には〝よきパパ〟アピールをするのはなぜだろう? と腑に落ちなかった。そういえば、あの人もそうだったな、と幼少期のことを思い出しもした。
「知ってる?」まどかが近づくと、男は顔を上げた。「漫画家の福田純がお台場で死体で発見されたって」
「知らない。有名な人なの?」
まどかが素っ気なく答えると、
「嘘だろ」男は嘲笑うように口角を上げた。「『無敵のリヴァイア』って知らない? すっごく有名な漫画だけど」
「知らない。漫画に興味ないし」
その捜査に自分が当たってると知ったら、この男は仰天するだろう。そのときの顔を想像して、まどかは笑いが込み上げてくるのを堪えつつ、身体を拭き終え、着衣をはじめた。
「へえ、リヴァイア知らない人に初めて会った。海外で暮らしてたのが長かったからかな?」
それがまるで国民必須の知識であり、知らないまどかは非常識人であるかのような口ぶりだった。
「どうだろ」実際には海外で暮らした経験などないため、まどかはすぐに話を逸らした。「そんなに面白いの、その漫画?」
「めっちゃくちゃ。新連載されたとき、俺はちょうど大学に入学したばっかりの頃だったけど、これは絶対に売れるって確信したね。案の定、すぐに人気が出たけど、まさか二十年近い長期連載になるとは思わなかった。しかも、そのあいだずっと、クオリティが下がらないんだもん。天才だよ、福田先生は。特にさ、登場する悪役が毎回、かっこいいんだ。二十年もやってれば、新しいキャラクターのネタも尽きそうなものなのに、マジで凄い。優秀なブレーンでもいるのかな? 全部、一人で考えてたとしたら凄すぎる」
男は興奮して熱弁していたが、
「だからこそ、なんであんな終わり方をさせたんだろ」と急に声のトーンを下げた。
「あんな終わり方って?」当然、その点についてまどかは知っているが、無知を装って訊いた。
「無敵のはずのリヴァイアが、呆気なく殺されて、なんの予告もなかったのに、突如として連載が終了。回収してない伏線がいっぱいあるっていうのにさ。風呂敷、広げるだけ広げて、読者を見捨てるのかよ。今日発売された『ラン』で最終話を見たときは、福田先生に裏切られた怒りすら覚えたけど、昼間になって訃報を知ったから、もうさ、今日は一日、感情がめちゃくちゃになっちゃって仕事に集中できなかった」
へえ、と無関心な振りをしつつ、まどかはさりげなく訊いた。「自殺?」
「警察はまだ、事件なのか事故なのかわからないって」
「自殺と他殺、どっちだと思う?」
「そりゃ、自殺じゃないに決まってるだろ」
そんなわかりきったこと訊くまでもない、といいたげに、男は笑いながら断定した。
「どうして?」
「だってもう、死ぬまでなにもしないで生きていけるくらい稼いだし、これからだって、印税やらなにやらが、なにもしないでもがっぽり入ってくるんだぜ。おまけに独身で、女好きって噂が絶えない。そんな人が自殺すると思うか? 俺だったら絶対にしないね。この世の春を存分に謳歌するよ。連載を急にやめたのだって、いい女と知り合って、仕事なんてそっちのけにしたくなったからなのかもしれない」
「二十年近くも真面目に連載してたのに?」
「もう体力的にもきつくなってたんじゃない? それにさ、自殺するのにわざわざ、海まで行くかな? 俺だったら行かないな」
確かにそれは一理あるな、とまどかは心のなかで賛同した。お台場で死ぬことになにかしらの意味がないのであれば、自宅から離れた場所まで移動する必要はないのではないかと思った。
「俺がもし自殺するなら、首吊りを選ぶな。あれって、首に全体重がかかって数秒で意識を失うから苦しまないって聞くし。知ってた?」
男が続けて口にしたその言葉に、まどかは吐き気が込み上げるのを我慢して、
「自殺じゃないとしたら?」と瞬時に話題を変えた。
「それは知らん。事故で溺れたか、金目当てで誰かに殺されたか」
麗華の話では、少年時代に溺れたトラウマがある福田が、海に近づいて事故に巻き込まれて溺死、という可能性は薄そうに思えた。だとすると金目当て……遺産相続者となる父親の幸雄が容疑者の筆頭になるのだろうか? あるいは、元妻の早乙女恭子にも遺産が転がり込んでくる契約が交わされていた?
まどかが頭のなかで推理を展開させているあいだも、男は話を続けた。
「今頃、警察が躍起になって調べてんじゃないの? これだけの有名人の不審死だから、マスコミだって放っとかないだろうし」
実際、マスコミだけでなく、福田のファンを名乗る人々からも、死の真相を訊き出そうと、本庁にひっきりなしに電話がかかってきていることを、まどかは青柳から聞かされていた。
「まあ、俺は女か金絡みの殺しの線が有力だと思うけどな」
それが恐らく〝世間一般の大多数の見解〟なのだろう。
まどかはスーツを着終えたところで、
「じゃあ、私は帰る」
あっさり別れの挨拶をして、ドアのほうへ足を向けた。
「え、もう帰るの? 嘘でしょ? 俺、まだ服着てないよ」
「明日、朝はやいからもう帰る。じゃあね」
まどかは振り返らず、うしろ手を振りながら靴を履き、ドアをすこし開けて、廊下に誰もいないことを確認してから、「じゃあね」ともう一度いって廊下に出た。あの男と会って肌を合わせることはもう二度とない。そう考えながらエレベーターに乗り込んだ。




