キャバクラ嬢
「あいつ……先生が死んだのはお気の毒だけどさ、私になにを訊きたいの? 話すことなんてなにもないし。私たちもうなにも関係なかったんだから」
寝起きで不機嫌だからか、あるいは福田への怒りなのか、カフェのテラス席でまどかと中村に相対した、アイこと本名・相沢香奈は、顔の半分近くを覆うほどの大きさのサングラスを取る素振りも見せず、電子たばこをひっきりなしに吸いながら、吐き捨てるようにそう口にした。
「なかったということは、以前は福田さんと関係があった、ということですね?」
通常どおり、まどかが質問者、中村がメモ係という役割分担だった。
「あったはあったけど」香奈はまどかに顔を向けて唇を歪ませ、「別に惚れてなんかいなし。これありきの関係だったから」人差し指と親指で丸をつくった。〝お金〟という意味らしい。福田の死を知っても、なにも感情のブレがないところを見れば、ドライな関係であったことは容易に想像できた。
「その関係はいつからいつまで続いていたんですか?」
「いつだろ? 私が『花月』に入って、そんな経ってないときからだから、一年前くらいから先々月、八月まで」
ということは、まだ福田に異変が生じる前には別れていたことになる。
「別れはどちらから切り出されたんですか?」
その質問をされた途端、香奈はさらに機嫌が悪くなり、唇を噛んだ。
「あいつが女に対して節操がないってのは、六本木では有名だけどさ、新しい子が入ってきた瞬間に乗り換えるのはあり得なくない?」
「そうですね」まどかは乾いた声で相槌を打った。
「でしょ? あいつもあいつだよ。私の客だってわかってるのに手ぇ出しやがって。ほかの店だったら追放ものだよ。うちの店、そこらへん甘いからさ。ふざけんなよ」
ほかのキャストの指名客を奪うことは、業界内の隠語で〝爆弾〟と呼ばれ、店によっては重大なタブー行為であることは、以前、ホスト・クラブで事情聴取したときに、まどかは耳にしたことがあった。『花月』ではそれが見過ごされているらしい。
とはいえ、先輩から客を奪うレイカはもとより、おなじ店のなかで女性をとっかえひっかえする福田も分別がない。香奈が怒るのももっともだ。
しかし、まどかは、
「いま仰った〝あいつ〟というのは、『花月』で一緒に働く、レイカさんで間違いないですか?」と、香奈の怒りをさらに焚きつけることを口にした。
なんだ知ってるのか、とでもいいたげに、香奈は一瞬、まどかを無言で見つめると、
「そう」と、ぶっきらぼうに答えて電子たばこを吸い、顔を背けて煙を吐いた。
「別れてから、福田さんと二人きりで会うことは?」
「ないよ。顔も見たくなかったし」香奈は顔を逸らしたまま答えた。
「『花月』で最後に見かけたのは?」
「一週間くらい前かな。覚えてない」
「最近、福田さんの様子がおかしいと感じたり、そんな噂を耳にしたことは?」
「なんか、妙におとなしくなった感じはしたけど」ここでようやく、香奈はまどかのほうへ顔を向けた。「ねえ、この事情聴取って、どういう意味なの? あいつは自殺なの? それとも誰かに殺されたの?」
「それはまだなんとも判断がつきかねます」
「もしかして、殺しだったら、私が容疑者になるかもしれないってこと? いっとくけど、夜の仕事してたら、ああいうどうしようもない客の相手するのなんてしょっちゅうだから。いちいち腹を立てて殺したりなんかしてたら、世のなか、殺人事件だらけになるから」
まどかは納得するように頷いたが、心のなかでは素直に肯定してなかった。男と女の情。そして札束が行き交う夜の街では、たとえその気がなくても、ふとしたきっかけで殺人事件に発展してしまう例を何度も目にしてきた。香奈が感情的になり、福田を殺害した可能性は十分に考えられた。
「ただの参考としてお訊きするだけなので、気を悪くなさらないで頂きたいのですが」と前置きして、まどかは香奈のアリバイを訊いた。
「やっぱり疑ってんじゃん」
香奈は不満を漏らすも、「えっと」と呟きながら斜め上を見て、前日の十三時から十五時になにをしていたか思い出す素振りを見せた。
「昨日は昼過ぎまで寝て……そうだ、ジムで軽く汗を流してた。ほら、あそこの」
香奈が指差す先には、全国展開するフィットネス・ジムのチェーン店があった。
「受付でロッカーの鍵を受け取ったから、記録が残ってるはず」
しかし、それなら他人がなりすますこともできるだろう。ジム内に設置された防犯カメラも一緒に確認しなければならない。まどかはそんなことを考えながら、
「ありがとうございます」と丁重に頭を下げた。中村もメモを取る手を止めて、まどかに倣った。
「もう終わり?」
「はい。……あ、すみません。最後に一つだけ」
「なに?」
「仮にですけど、福田さんが何者かに殺されたのだとしたら、容疑者として誰が一番に考えられますか?」
「さあね。さっきもいったけど、あいつホントに節操なかったし、きれいな飲み方するタイプじゃなかったから、男女問わず、いろんな人から恨みを買ってるんじゃないかな」
「そうですか」
「あいつは絶対、私が一番怪しいとかいいそうだけど」香奈は苦々しげな表情で、吐き捨てるようにいった。
「あいつというと?」
「レイカ」
「レイカさんと福田さんの関係はどこまで?」
香奈が機嫌を損ねるであろうことはわかりつつも、まどかは踏み込んで訊いてみた。
「知らないよ、そんなの」案の定、香奈の言葉は刺々しくなった。「金にものいわせて、注ぎ込むだけ注ぎ込んで落とすのが、あいつのいつもの手だから。レイカはレイカで、前の店ではばんばん枕営業してたって噂だから、もうやってんじゃない」
〝枕営業〟というのは、客と肉体関係を結ぶことを意味する。
「二人がケンカするような場面を目にしたことはありませんか?」
「ない。あんな奴ら見たくもないし、店にいるときはいつも目を逸らしてたもん」
「そうですか。わかりました。貴重な時間を割いて頂き、ありがとうございます」
「ホントだよ。これっきりにしてよね」
最後まで機嫌が悪かった香奈を残し、まどかは中村とともに一旦、駐車場まで戻り、香奈に見えないルートからジムへ向かった。真っ先にアリバイを調べに行く姿を見られては、香奈の気分を害すると考えてのことだった。
前日の十二時四十二分、香奈が受付にロッカーの鍵を受け取った、という記録が残っていた。それから十五時二十六分にチェックアウトを済ますまで、館内のあらゆる防犯カメラに香奈の姿はしっかり映っていた。
「相沢香奈はシロですね」
ジムから出ると、中村が断定するようにいった。同意しようとしたまどかの腹が鳴った。
「遅くなっちゃったけど、昼でも食べよっか。まだ時間あるでしょ?」
レイカは美容院の予約を十七時に入れてあるという。それまでまだ一時間近くはあった。
まどかは中村を引き連れ、すぐ近くにあるファミレスに入った。食事タイムのときは、捜査中の事件について語るのはなし、というのが二人のあいだの暗黙のルールだったが、
「やっぱり、福田先生の死に関して、ネット上で凄い騒ぎになってますね」
注文した品を待つあいだ、スマホを見ていた中村が、ついうっかり、という調子でそう口にした。
「あ、すいません」とすぐに顔を引き攣らせ、スマホを見るのをやめようとする。
「いいよ」まどかは微笑んだ。福田の死を世間がどう捉えているのか、自分でも調べようとしていたところだった。「なんて騒ぎになってるの?」
「いろいろと憶測が飛び交ってますけど、自殺説が一番多い感じですね。やっぱり、『無敵のリヴァイア』を、あんなふうに終わらせたっていうのと合わせて、ノイローゼだったんじゃないかって」
「ふーん、まあ、そうなるか」
「リヴァイアの葬式を開こうって話も出てるみたいです」
「そんなに人気だったんだ」
まどかは目を見張った。昔、ボクシング漫画の主人公のライバル役が作中で死に、出版社主催で葬式がおこなわれ、大勢のファンが参列した、という逸話を耳にしたことがあるが、リヴァイアはそれに匹敵するほどの人気を誇っているということだ。
「人気ですよ。もし本当に葬式があるなら、僕も参列したいくらいです」
「私にはよくわからないな、そういう気持ち」
「先輩には、好きな漫画のキャラクターとかいなかったんですか?」
中村は女性キャラにも詳しいらしく、まどかでも聞いたことがある有名な名前をいくつか例として口にしたけれど、
「私、漫画とかアニメに全然興味ないから」
まどかは首を横に振った。
「じゃあ、好きなアイドルとか俳優は?」
「いない。男はろくでもないって、子どもの頃に学んだし。見てくれがよかったり、口が上手い男はとくに嫌い。虫唾が走る」
「……なにかあったんですか?」
「まあ、ちょっとね。あと、他人に多くを期待しても、裏切られたときに悲しくなるだけでしょ」
地面から数十センチの高さでブラブラと風に揺れる両足の映像が脳裏に浮かびそうになり、まどかは慌てて意識から引き離した。
「先輩、いままでどんな人と付き合ってきたんですか?」
「え、どんなって……普通だよ、普通」
考えてみたら、まどかはこれまで、一年以上、男性との交際が続いたことがなかった。その原因は自分にあることは自覚していた。交際相手がすこしでもほかの女性に注意を向けた途端、腹が立ち、急激に興味を失ってしまうのだ。
しかし、その反対に、自分にだけ熱烈に愛情を注いでくる男性と一緒にいても、息が詰まってしまい、気持ちが覚めてしまった。
そんな〝体質〟になってしまった理由は把握していたし、結婚に失敗した母親を見て育ったために、結婚への憧れなんてものはさらさらなく、そのスタンスで三十五歳になるいままで生きてきた。いまさらそれを変える気はなく、一生独り身で生きていくつもりでいた。
「女性の目から見て、福田先生みたいな男性ってどう思うんですか?」
「女をとっかえひっかえするって意味で?」
「はい。やっぱり嫌悪感を抱くものなんですか?」
「私はそういう男に近づいたりはしないし、福田さんに会ったこともないから、どうも思わないけど、当事者の女性たちは腹が立つもんなんじゃないかな。さっきの彼女も、口ではお金だけの割り切った関係っていってたけど、顔を見れば怒ってるのがわかったでしょ」
「プライドを傷つけられたわけですからね。なかには、殺したいほど憎くて、実際に犯罪に手を染めてしまう人もいるかもしれませんね」
「中村はまだないと思うけど、私は実際にそういう事件を担当したことがある。あるいは、『花月』に通う別の客が妬んでってこともあるかもしれないし」
「となると、疑わしい人の数は凄く増えますね。だって、福田先生が狙う女性はいつも、夜のお店で人気のキャストばかりだったみたいですから」
「そうだね。客の嫉妬心を煽って、女の子がほかの男性客に福田さんを殺させた、っていう可能性だって考えられるし」
だとしたら、香奈のアリバイがあっても、福田の死に無関係とは言い切れなくなってくる。単純に福田の自殺ならばどれだけ楽か。しかし、それを示す強力な証拠はなにもない。捜査が長引きそうだな、と思い、まどかは内心でため息を吐いた。
注文した品がテーブルに並ぶと、まどかと中村は黙々と食し、まどかが先に食べ終えたタイミングでスマホが鳴った。画面を見ると、『花月』の店員から教えてもらった、レイカの電話番号だった。
応答すると、同伴客の予定が変わったため、三十分はやく美容室に向かう、とのことだった。だとすれば、のんびり食事をしてる暇はない。まどかは通話を切ると、まだ皿に半分近くカレーを残している中村を急かし、店をあとにした。
レイカこと本名・大沢麗華が予約を入れた美容室は、ファミレスから徒歩圏内にあった。店の前で待っていると、まもなく麗華がタクシーで乗りつけて姿を現した。見るからに高級そうな薄手のコートを羽織り、そのなかには煌びやかなドレスを着ている。化粧は施してないが、素肌でも輝きがあり、道行く男性がことごとく振り返る美しさがあった。
夜の仕事に就く女性は、店の公式サイトに掲載されている写真よりも、実際は見劣りする、いわゆる〝パネルマジック〟であることが多々だということをまどかは知っていたが、麗華の場合はむしろ実物のほうが、あどけなさが感じられる分、かわいらしく見えた。
そして、写真で見たとおり、香奈にどことなく顔立ちが似ていた。だから、彼女とおなじく麗華も高慢で鼻もちならない女性なのかと、まどかは予想していた。
ところが、
「お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした」
まどかが声をかけると、麗華は非常に済まなそうに顔を歪め、丁寧に頭を下げた。その所作、言葉遣い、透きとおるような声質。おなじギャル系でも、香奈は育ちが悪く、麗華はお嬢様。そんな印象を受けた。
福田がひと目で麗華に鞍替えした気持ちが、まどかは即座に理解できた。おまけにスタイルもいい。中村が見惚れているのを感じたが、まどかも彼女に対して眩しさを覚えた。
そしてよく見ると、麗華の目はほんのり赤く充血していた。福田の死の報せに涙を流したのだろうか?
ヘアカラーのリタッチを受けるという麗華に付き添い、まどかと中村は美容室の奥にある個室に入った。
麗華は、髪の毛が伸びて黒くなった部分を染める、ということだったが、まどかの目には、地毛が生えてきているのは数ミリに満たず、いわれなければ気づかないほどだった。その点、香奈は地毛が一センチ近く伸びていたことを思い出し、美意識の高さでも麗華に軍配が上がると、頭のなかで決めつけた。
美容師が慣れた手つきで、麗華の髪の毛にヘアカラー剤を塗布する。それを横目に、鏡越しに麗華の顔を見ながら、まどかは質問をはじめた。
「お時間を頂いたのは、福田さんに関して、いくつか質問をするためなのですが」
まどかがそう切り出すと、麗華はみるみる悲しそうな表情になり、鏡台の上に置いてあるティッシュを一枚手に取ると、それを目頭に押し当てた。
「すみません。先生があんなことになるなんて、まったく思いもしてなかったので、まだ心の整理ができてないんです」
演技なのか本当に泣いているのか。まどかは見定めようとしたが、どちらとも判断がつきかねた。だから、
「心中、お察しします」といって、麗華が落ち着くまで待つことにした。
やがて美容師が施術を終え、ヘアカラーが髪の毛に浸透するまでの待ち時間、なにか飲むかと麗華に訊いた。麗華はほうじ茶を頼んだ。美容師は気を利かせ、まどかと中村にも飲み物を訊いたが、二人は丁重に断った。
美容師がほうじ茶を持ってきて鏡台の上に置き、退室したところで、
「福田さんは、約二ヶ月前から麗華さんを指名されていたと聞きました」と、まどかは口を開いた。
「そうです。元々は、おなじ『花月』で働くアイさんのお客様だったんですけど。刑事さん、それはもうご存知ですよね?」
はい、とまどかが素直に打ち明けると、鏡に映る麗華は苦笑した。
「『花月』では禁止されてないとはいえ、ほかのキャストの、しかも先輩のお客様を横取りするような真似は、よくないです。私もそれはわかっています。だから最初は、指名をお断りしていたんです。だけど、私への指名がとおらないなら、もう『花月』には来ないと」
「福田さんが?」
欲しい物はどんな手段を使ってでも手に入れる。まるで子どものように、自分の欲望に忠実だった福田の人柄が端的にわかるエピソードに、まどかは内心、呆れてしまった。と同時に、それくらいなりふり構わず、自分のやりたいことを推し進められる性格だからこそ、漫画家として大成したのだろう、と納得がいった。
「はい。先生は『花月』にとって大事なお客様だから、指名を受けて欲しいとマネージャーから懇願されて。アイさんも納得してると聞いたので、私はその話を受けることにしたんです」
「先程、アイさんから話を伺ったのですが、そんな感じには思えませんでしたけど」
「そうなんです」麗華は目を見開いて語気を強めた。「マネージャーに嘘つかれたんです、私。アイさんのこと好きですし、仲よくなりたいと思ってたんですけど、先生の件で、私が奪い取ったみたいに思われて、口を利いてくれなくなっちゃいました」
「そのことについて、福田さんからなにか話は?」
「アイさんのことについてですか? なにもありません。私、二人がどれだけの関係だったのかまでは知らなかったですし、訊くのも失礼だと思って」
「失礼は承知で単刀直入にお訊ねしますけど、麗華さんは、福田さんとはどこまでの関係だったんですか?」
「私はあくまでも、お店だけの関係でした。外で食事をしたりするのは、同伴だけでした。アフターにもお誘いされたんですけど、それは断ってました」
〝同伴〟というのは、出勤前に客と食事などをすることを意味して、〝同伴料〟という料金が発生する。つまり、キャストにとっては仕事の一部になる。
一方、〝アフター〟は営業時間終了後に客と食事などをする行為を指し、これはキャストの給料自体にはなにも反映されないため、いわばサービス残業といえる。主に指名客との関係を良好にするためにおこなうものだが、肉体関係を迫るため誘う客も多く、キャストにとっては身の危険もある行為といえた。
「福田さん、よく納得されましたね」
「すんなりとは納得してくれませんでした。毎回、しつこく誘われました。刑事さんにこんなこと話すと問題になっちゃいそうですけど、正直、月にいくらあげるから身体の関係をもたせて欲しい、ともお願いされました。でも、私、先生のことそういう対象には見れなくて、絶対にお断りするようにしてました」
「麗華さんにとっては、福田さんはあくまでも大事なお客の一人だったわけですね?」
「はい。でも、凄く私のこと甘やかしてくれるところは好きでした。私、三歳のときにお父さんが亡くなってしまって。ずっと、お父さんの愛情みたいなものに憧れを抱いていたので、先生はその願望が叶ったみたいで、出会えたことが凄くうれしかったんです。だから、突然、こんなことになってしまって……」
込み上げる涙を、麗華はティッシュで拭った。しばらく泣くかと思われたが、急になにかを思い出したように、鏡越しにまどかを見つめてきた。
「そういえば、先生はお台場の海で見つかったんですよね?」
「はい。波打ち際まで流されてましたけど、検死の結果、溺死した模様です」
「え、でも、それなら、おかしい……」
麗華は顎に手を添え、俯き加減で呟きながら、なにかを考え込む様子を見せた。
「なにか気になることでも?」
「自殺か他殺か、事故か、まだわかってないんですよね?」麗華は顔を上げ、再び鏡越しにまどかを見てきた。
「はい。現状では」
「自信はないですけど、自殺とか事故ではないと思います」
妙に確信めいた麗華の口調に、
「どうしてですか?」と訊いたまどかだけでなく、中村も前傾姿勢になった。
「だって、先生、子どもの頃、波にさらわれて溺れたのがトラウマで、海には絶対に近づきたくないっていってましたから」
「そのことは、ほかの方もご存知なんですか?」
「わからないですけど、私がプールで溺れたことがあって、水が怖いっていったら、先生がその話をしてくれたんです。でも、いままで築き上げてきたイメージがあるから誰にも秘密だよって。知ってる人はすくないんじゃないですかね。編集者の人とかも、なにも知らないからか、先生の前でサーフィンの話とか平気でしてましたから」
確かに、溺死体で発見されたというのに、歴代の担当編集者たちは誰もそんな話はしてなかった。福田が自殺か事故で死んだのだとしても、苦手な海に近づくだろうか? 麗華の疑問は一理あるような気がして、まどかは小さく頷いた。
「ほかの方々から聞いたところ、福田さんはここ一ヶ月、なにかに怯えるような様子だったということですが、麗華さんもそれは感じてました?」
「はい。でも、私は先生と知り合って間もなかったし、忙しい方でしたから、仕事に追われているのかな、ぐらいにしか思ってませんでした」
「誰かに脅迫されている、といった類の話は?」
「脅迫されてたんですか?」麗華は目を剥く。
「例えばの話です」
「知らないです、そんな話」
「では、福田さんが、法に触れる薬物を使用する姿を目撃したか、あるいはそのような噂を耳にしたことは?」
「ありません」火の粉を反射的に払うように、麗華は即答した。「そんな噂があるんですか?」
「あくまでも、例えばの話です。これは関係者のみなさんにお訊ねしているので、気を悪くなさらないでお答えください。昨日の十三時から十五時のあいだ、麗華さんはどこでなにをされてました?」
「それって、その時間に先生が亡くなったってことなんですね?」麗華は再び泣きそうになったが、なんとか堪えて、「その時間は、お客様に誘われて、千葉でゴルフをしてました」
福田とは同伴以外、店の外で会わなかったというのに、休日に一緒にゴルフをしに行く客がいるのか、とまどかは指摘したくなったが、それは麗華の勝手だ。余計な口出しをする必要はない。
「申し訳ないですが、その方の連絡先と、ゴルフ場の名前を教えて頂けますか」
「え、そこまで調べられるんですか?」
予想外の展開だったのか、麗華は慌てる様子を見せた。
「ちゃんと裏を取らないと、アリバイ確定にはならないので」
「でもまだ、先生が誰かに殺されたって決まったわけじゃないですよね?」
「でも、福田さんが自分から海へ行くはずはないと。自殺や事故の可能性は低いと、たったいま仰られてましたよね?」
「それはそうですけど……」
麗華は表情をくもらせる。アリバイなんて本当はないのか。あるいは、一緒にゴルフへ行った相手を教えることになにか不都合があるのか。明らかに様子がおかしかった。
「事情を話せない事情が、なにかあるのでしょうか?」
まどかがすこし圧をかけるように問うと、麗華は一瞬、躊躇うように唇を噛みしめたが、
「そこにあるバッグ、取ってもらってもいいですか」と、鏡台の上に置いたハイブランドのバッグを指差した。
まどかがバッグを手渡すと、麗華はそこから名刺入れを取り出し、
「この人です」
ゴールドに輝く派手な名刺をまどかに差し出した。ひと目でホストだとわかる写真入り。紙面には新宿にあるホスト・クラブの店名とともに、『流聖』という名前が記されていた。
「お互いの営業に支障が出ちゃうので、私と流聖が付き合ってることは、絶対に誰にもバレないようにしてもらえます?」
「お約束します」
麗華がゴルフ相手を教えるのに躊躇したのは、そういう意味があったのか、とまどかはすこし落胆した。福田の死に関係した隠し事でもしているのではないかと疑ったからだ。だが、まだ麗華のアリバイが確定したわけではない。
千葉のゴルフ場の名前を麗華が口にし、中村がメモを終えるのを見計らったところで、
「最後に一つだけ質問させてください」まどかはそう前置きをして訊いた。「仮に福田さんが誰かに殺されたのだとしたら、一番の動機がある人は誰だと思いますか?」
「それって、ここだけの話ですよね?」麗華は声を潜める。
「というと、どなたか思い当たる方が?」
「先生の人間関係すべてを把握してたわけじゃなくて、あくまでも私が知る範囲内ですけど」
「構いません。参考までに訊くだけなので」
「絶対にいわないですよね?」
しつこく念を押す麗華の様子を見て、彼女が誰の名前を口にするのか、まどかには聞かなくともわかったが、
「絶対に口外しません」と請け負った。
「じゃあ、やっぱり、私とのことで恨みをもってるアイさんじゃないですかね」
予想どおりの答えが返ってきたため、まどかは笑いそうになるのを堪えて、
「そうですか」
「もしかして、向こうも私が怪しいっていってました?」
自分のことは棚に上げて、麗華は顔をしかめた。
「そんなことはありません」余計なことを訊かれる前に、まどかは切り上げることにした。「ご協力、ありがとうございました。これで失礼させて頂きます」
麗華はまだなにかいいたそうだったが、まどかは中村を急かすように個室をあとにして、美容室から出た。
「私はゴルフ場に電話するから、中村は流聖ってホストにアリバイの確認をしてくれる?」
「わかりました」
中村はすぐにスマホで電話をかける。まどかもポケットからスマホを取り出そうとするが、
「あれ?」感触がない。
「どうしました?」
「落としてきたかも。ちょっと待ってて」
まどかは再び美容室に入り、個室のドアをノックしようとすると、僅かに開いていた。そこから笑い声が聞こえてくることに気づき、ノックしようとして上げた手を引っ込めた。
ドアの隙間から個室のなかを覗くと、麗華は美容師と笑い合っていた。先程まで、福田の死に沈痛な面持ちを浮かべていたのとは別人のように、陽気な顔をしていた。どちらが演技なのかは一目瞭然だった。まどかはわざと、ノックと同時にドアを開け、
「すいません、忘れ物をしてしまいました」
室内に入った。その瞬間、麗華の笑顔が凍りつき、バツが悪そうに口元を歪めた。
「スマホですよね? そこに置いてあります」
なにも知らない美容師が、麗華と会話していたのとおなじ軽い調子で、まどかがさっきまで座っていた椅子を指さした。そこには、スマホが置いてあった。まどかはそれを手に取り、
「お楽しみのところ、お邪魔しました」
麗華の顔を覗き込んで嫌味をいうように挨拶をしてから部屋を出た。
店の外に出ると、
「流聖ってホストと、ゴルフ場に電話したんですけど、麗華さんは昨日、彼と一緒にゴルフ場に行ったようです。……本当に本人かどうかは、防犯カメラなどで裏取りしないといけませんけど」
中村がそう報告した。
「ありがとう。青柳さんに報告がてら、千葉県警に協力してもらって、ゴルフ場に確認してもらうようお願いしてみる。ひとまず車に戻ろっか」
駐車場へ行き、捜査車両に乗り込むと、まどかはまず青柳に、それから角松に捜査状況の報告を済ませた。まだ殺人事件と断定できていないことや、福田の父親への事情聴取は明日にならないとできないため、今日の業務は終了ということになった。
本庁に戻り、改めて青柳に対面で報告を済ませ、中村と明日の予定を決め、いくつか簡単な書類作業を片づけてから退庁した。