最初の犠牲者
「お台場海浜公園の砂浜の波打ち際で男性が倒れてます。どうやら死んでるみたいです」
10月11日の明朝、湾岸警察署に若い女性の声で通報が入り、現場に機動捜査隊が駆けつけたところ、穏やかな波に打たれながら俯いて横たわる男性の死体を、野次馬たちが遠巻きに取り囲んでいたが、捜査員が問いただしても、通報者は誰も名乗り出なかった。
死体を仰向けにすると、口元に白色の泡沫が付着し、顔や首、手足に漂母皮化――長時間、水に浸かっていたために、皮膚上にできるしわ――といった、溺死体の特徴が見られた。
司法解剖でさらに詳しく調べた結果、肺のなかは海水で満たされ、そこから採取されたプランクトンや大腸菌類は、お台場の海水と一致。さらに、耳の穴や口内、着用している衣類のポケットなどに入った泥や海藻類も、お台場の海中のものと合致することが判明した。
しかし、現場に遺書らしきものは見当たらず、胃のなかから微量の睡眠導入剤が検出されたこともあり、自殺か他殺、あるいは事故と決めるには早計で、慎重を要すると判断された。
死亡推定時刻は前日――10月10日、日曜日――13時から15時のあいだ。目撃情報を募っているが、当日のその時間帯は雨が降っていたこともあり、いまのところ有力な情報は得られていない。
ただ、身元に関しては、死体が着用するジーンズのポケットのなかから財布が見つかり、そのなかから普通自動車免許証が発見されたことで判明。捜査員の一人が〝人気漫画家の福田純〟であることに気づき、署長が即決で本庁からの応援を要請した。
なお、財布のなかには現金2万6074円と各種クレジットカードが入っていたため、強盗殺人の線はないだろう、という見解が所轄の刑事たちの総意だが、周辺一帯をダイバーが捜索しても、スマホが見つからない点に疑問がある、ということだった。
以上、湾岸警察署に到着したまどかと中村が、挨拶に訪れた際、越谷署長から直々に聞いた捜査状況だった。
「あとのことは、主任の角松から指示を仰いでもらって欲しい」
署長が隣に立つ角松修警部補に視線を送った。
「ご足労、感謝します」
髪の毛にちらほらと白いものが混じり、目尻にしわのある細身の角松は、まどかよりもひと回りは年上だろうか。声に抑揚がなく、顔の表情の変化も乏しく、感情を表に出さないタイプに見えた。
「場所を変えましょう」と別室にまどかと中村を案内して椅子に座るよう促すと、角松はすぐさま話をはじめた。
「署長から説明があったとおり、現状では自殺か他殺、あるいは事故であるかは判断しかね、福田さんの生活圏内が管轄外にあることも踏まえて、ウチの署員とではなく、お二人で組んで捜査をしてもらおうと思ってます」
通常、管轄内の地理を熟知する所轄の刑事と、本庁の刑事がコンビを組むのが常だが、いまはまだ正式な合同捜査ではない。捜査の範囲が管轄外におよぶのであれば、人柄をよく知る中村と行動をともにしたほうが、まどかとしては気が楽で、効率もいいように思えた。
「承知しました。それで、我々はまずなにを調べれば?」
「福田さんが長年、週刊連載していた『無敵のリヴァイア』という作品が、今日発売された今週号で幕を閉じたことはご存知ですか?」
隣に立っている中村のことを意識しながら、まどかが「はい」と答えると、角松は一瞬、〝知っているのか〟と驚いた様子で目をすこしだけ開き、すぐに咳払いをして話を続けた。
「担当編集者に問い合わせたところ、今週の掲載分の打ち合わせをした際に、角松さんはなんの前触れもなく、突如として、不死身の存在であるはずの主人公の死という結末によって、連載を終了させることを伝えてきたそうです。単行本の累計発行部数は一億部を超え、アニメ化されて世界中で人気を獲得している作品なだけに、編集者は戸惑い、編集長と一緒に頭を下げて、翻意するよう必死になって説得を試みたそうです。せめて休載か、あるいは、いずれ続編の連載の可能性を残す手段として、主人公の死は回避できないかという妥協案も提示したそうです。けれど、福田さんの意志は固く、結局、本人の意向どおりの原稿が掲載されることになったそうです」
福田本人と、彼の代表作である『無敵のリヴァイア』に関する基本的な情報については、ここまでの移動中、まどかは中村に運転を任せ、スマホでネット検索して目をとおしていた。
「その話し合いのとき、福田さんに変わった様子は?」
「いつもは非常に明るく快活な方だったそうですが、打ち合わせのときは別人のように塞ぎ込んでいたそうです」
「鬱病ですか?」
「そのような精神疾患は抱えていないはず、とのことです。歴代の担当編集者からも、そんな話を聞いたことはなく、鬱病というよりも、なにかに怯えるような様子だったそうです」
「怯える? 誰かに脅迫でもされていたとか?」
「編集者もそれを疑い、それとなく探りを入れたそうですが、余計な詮索はするなと、物凄い剣幕で怒られたそうです。あとにも先にも、福田さんが激昂する姿を見たのはそれが初めてだったと。非常に驚き、それがきっかけになり、説得はもう無理だと諦めたそうです」
それほどムキになるということは、やはり誰かに脅迫されていたということだろうか? まどかはその線を疑ってみたが、誰に、どうして、なにを目的に? 疑問が次々に沸くが、いまはまだ福田に関する情報が乏しいだけに、なにも判断できなかった。
――いや、脅迫ではなくて、あるいは……。
「ヤクの可能性は?」
覚醒剤、大麻、コカイン、ヘロインetc.
読者の期待に応えなければ、というプレッシャー。または、精神的にも肉体的にもハードな仕事をこなすカンフル剤として、著名なクリエイターが麻薬を常用して逮捕される事件は絶えず起きている。福田がなにかに怯える様子を見せていたのは、その副作用によって、幻覚や幻聴に悩まされていたからではないか。まどかはそう推理したのだが、
「それはありません」角松は即座に否定した。「編集者によれば、そんな噂を耳にしたことは一度もなく、司法解剖でもそんな痕跡は見つかりませんでした」
そうですか、とまどかは捜査手帳にメモしたが、思いついたまま口にしただけのため、特に落胆はしなかった。
「編集者は、今日は一日中、社内にいるそうです」と角松。
「その聴取に、ということですね?」
「お願いします」
「アポを取って、すぐに会いに行きます」
ということで、中村がすぐさま、福田の担当編集者である長塚に電話をかけ、一時間後に会う約束を取りつけた。
署内にいるほかの捜査員に簡単に挨拶を済ますと、中村が運転手になり、出版社『幸福社』がある千代田区へ向かった。
移動中、まどかは中村からタブレットを借りて、『無敵のリヴァイア』の電子コミックを一話から読みはじめた。未来からタイムリープしてきた最強のサイボーグ・リヴァイアが、地球侵略を目論むエイリアンに立ち向かうという、いかにも少年コミック的な勧善懲悪のストーリー展開。単純だが、だからこそ、普段から漫画を読む習慣のないまどかでも、すんなりその世界観に浸ることができた。なによりも、主人公のリヴァイアだけでなく、登場する敵役のエイリアンたちのキャラクター・デザインが、ことごとく格好よく、『幸福社』の地下駐車場に到着しても、ページをめくる手が止まらなかった。
「先輩、どうですか?」中村はエンジンを止めると、まどかが夢中になって漫画を読み耽っていることをよろこぶように微笑んだ。「面白くないですか?」
「うん。ちょっと侮ってた」
「アポの時間まで30分近くあるんで、まだ読んでても大丈夫ですよ」
「このエイリアンとか、めっちゃカッコよくない?」
まどかがタブレット画面を見せると、中村は「あー」と納得した声を漏らした。
「エイリアンが好きでハマったって女性ファンが結構、多いんですよね。僕の学生時代の女友達も、ビジュアルがきっかけで好きになって、グッズを集めてる子が何人かいますよ」
「中村はなにが好きなの? この作品の」
「僕は、リヴァイアの圧倒的な強さと、か弱い地球人を守ってくれる頼もしさ、ですね。連載がはじまったとき、僕、学校でいじめられてたんです。だから、僕もこんなふうに強くなりたいなって。ずっと憧れを抱いていました。刑事になろうと思ったのも、リヴァイアのように、困ってる人を助ける正義の人になりたいと思ったからなんです」
へえ、とまどかは心から感嘆した。読者の人生を左右してしまうほどの力があることに驚き、『無敵のリヴァイア』だけでなく、漫画という媒体を見直した。そんな作品を描き続けてきた福田に尊敬心を抱いた。
「だから……」中村は急に湿った声を出した。「ショックです。リヴァイアの連載が終わってしまっただけでなく、福田先生が亡くなってしまったことで、もう続編を期待することはできないんですから」
まどかは、まだ福田の死のニュースが報じられる以前、SNSに投稿された、『無敵のリヴァイア』のファンたちの〝声〟を思い出した。そのなかには、リヴァイアがサイボーグという設定のため、『未来に戻って修理されて帰ってくるんじゃないか』と考察して、続編を期待する意見が飛び交っていた。
ところが、つい先程、福田の死が伝えられると、中村のように悲しむ声が続出した。と同時に、自殺か他殺、あるいは事故かどうかも不明のため、福田の死の謎を究明するサイトが乱立していた。
「捜査に私情を挟んじゃダメですよね、すいません」中村は無理に笑顔をつくった。「そういえば、先輩はどうして刑事になろうと思ったんですか?」
「私は……」
口を開いた途端、まどかの脳裏には、宙にぶらぶらと浮かぶ両足、だらりと脱力した両腕、唾液や鼻水が滴ったTシャツ、嘘のように伸びた首、それから――。
「ウッ」
まどかは吐き気を催し、強制的に記憶を遮断した。
「大丈夫ですか?」
中村が驚いて素っ頓狂な声を上げた。目を覆いたくなるような惨殺死体を目の前にしても、顔色ひとつ変えたことのないまどかが、初めて見せる取り乱した姿に面食らった様子だ。
まどかは後輩に弱みを見せてしまったことを恥じらいつつ、思い出した。中村とはまだ一度も、首吊り死体がある現場に一緒に臨場したことがない、ということを。
「大丈夫、なんでもない。昨日、ちょっと食べ過ぎちゃって、胃がもたれてるだけだから」
まどかは、中村が気を利かして差し出してくれたハンカチを、丁重に断りつつ微笑み、腕時計を見た。
「もうそろそろ行こうか。これ、ありがとう」
タブレットを返すと、まどかはさっさと車から降りて、エレベーターのほうへと足早に歩いた。
一階へ上がり、受付の女性に用件を伝えると、まもなく長塚は姿を見せた。まだ二十代だろうか。色白で肌艶がよく、リムレス眼鏡がよく似合う、理知的な顔立ちをしている。漫画家の生活リズムに合わせて、編集者も不規則な日常を送り、不健康な見た目をしているのではないか、とまどかは予想していたため、理系の大学院生といわれても納得してしまいそうな長塚を見て、すこし意外に感じた。
しかし、それは遠目から見ての印象で、「お待たせしました」と近づいて来た長塚の目は充血していて、口元には点々と髭が生えていた。福田の担当編集者として、不測の事態への対応に追われている影響がはっきりと出ていた。
名刺を交換し、まどかが悔やみの言葉を口にすると、
「ちょっといま、会議室がすべて埋まってしまっていて、そちらで話をするのでも構いませんか?」
長塚は申し訳なさそうな表情を浮かべながら、ロビーの片隅にパーテーションでいくつか簡易的に仕切られた個室を手で示した。
そこは編集者が、漫画家志望者の持ち込みに応じる場所に使っているらしく、いまも紙の原稿を素早くめくって目をとおす編集者らしき男性の前で、栄養失調かと思うくらい痩せた若い男性が、膝に両手を置き、緊張の面持ちで感想をもらうのを待っていた。
「それで、福田さんは自殺だったんですか?」
テーブルを挟んで、まどかと中村に対面する形で椅子に腰かけると、長塚は早速、声を潜めて切り出した。
「それはまだわかりません」
まどかが代表して答える。中村はメモ係。役割分担は決まっていた。
「福田さんはこのところ、様子がおかしかったそうですね。説得にも耳を貸さず、強引に連載を終えてしまったと聞きました」
「はい。予定では、『無敵のリヴァイア』は、あと二年は連載が続くはずでした。ざっくりとですが、最終話までのあらすじも知らされてました。それが……」
ストレスで胃が痛むのか、長塚はしかめ面をしながらお腹をさすった。
「大丈夫ですか?」
「はい、いえ」長塚は曖昧に返事をすると、泣き笑いの表情を見せる。「連載を続けるように説得できなかっただけじゃなくて、先生が死んでしまって。もう僕、編集部で居場所がないですよ」
「福田さんが亡くなられたのは、長塚さんのせいではないですよ」泣き言に付き合ってる暇はない。まどかは淡々とした口調で続けた。「福田さんはどうして急に連載をやめると? 本当になにかしらの兆候はなかったんですか?」
「ないです」
「リヴァイアが死んでしまう、という結末にすることも、先生は譲らなかったんですか?」
我慢できず、といった様子で口を挟んだ中村は、まどかに謝罪するように目を伏せた。まどかはそれを咎めず、
「そうなんですか?」と中村を見た。
「そうです。むしろ、それが目的のような口ぶりでした」
「それが目的、というと?」
「『リヴァイアを殺さなきゃいけなくなった』。僕と編集長でしつこく説得に回っていたとき、ついポロッといった感じで、先生はそう口にしました。『どういうことですか』って訊いたんですけど、『うるさい』って突き放されてしまい、それ以上、詳しい事は聞けなかったんですけど」
「怯えた様子だったとか」
「はい。先生、お酒が大好きで、いつも接待で料亭に行くのを楽しみにしてたんです。だから、機嫌を取ろうと料亭にお連れしようとしたんですけど断られました」
「誰かに脅迫を受けていた可能性は?」
「ストーリー展開が気に食わないとか、あのキャラクターが嫌いだとか、ほとんど脅迫に近いクレームなんて、数え切れないくらいあります。人気作であればあるほど、アンチは多いですから。それに、熱烈なファンほど、自分の思ったとおりに話が進まないと怒りますからね。当然、今週号が発売されれば大騒動が巻き起こるのは予想してましたけど、印刷所かどこかから、〝リヴァイアの死〟の情報が漏れてしまったらしく、数日前から編集部には問い合わせの電話が殺到して、対応に追われていました」
「それじゃあ、今朝なんてもっと大変だったでしょうね」
まどかがちらっと横目で見ると、中村は恥じ入るように顔を俯けた。そのやりとりの意味を知るはずもなく、長塚は共感してくれたことに感激したように大きく頷き、
「酷かったですよ。いっそのこと電話線を切ってしまおうかと思うくらい。それに加えて先生の死……。僕、なんか悪いことしたかなぁ」ため息混じりに嘆いた。
「長塚さんが知る限りでは、福田さんが精神疾患を抱えているという情報や、その兆候はなかったんですね?」
「ありません。歴代の担当者からも、そんな話は一度も聞いたことはありません。いつも本当に明るくて豪快な人柄で。最近では作業効率のいいデジタル作画を選ぶ漫画家が増えましたけど、先生は紙とペンが触れ合う感触が好きとのことでアナログにこだわっていました。週刊誌での連載は体力的にきついですけど、時間を見つけては、『漫画家志望の若者に夢を与えるため』といって、アシスタントを引き連れて、銀座で豪遊してました。それでも20年近く、一度も原稿を落としたことがありませんでしたからね。もはや生きる伝説でした」
「だとすると、なぜ突然、塞ぎ込んでしまったのか余計に気になりますね。人間関係でトラブルを抱えていたという話は?」
「え、あの、それはつまり、他殺の可能性もあるということですか?」長塚は目を剥いた。
「ですから、現状ではまだなにも判断しかねます」
そうですか、とテーブルに視線を落とした長塚が、なにか言い淀む雰囲気を醸し出すのをまどかは察し、
「なにか、ご存知のことがあるなら、どんな些細なことでもいいので、仰ってくれませんか。真相を知るため、あらゆる可能性を探る必要があるので」
と問い詰めるも、長塚は視線を逸らしたまま、唇を噛みしめ、悩ましい表情を浮かべる。
「長塚さん。お願いします。捜査が長引けば長引くほど、マスコミや一般人が好き勝手に噂を流して、騒動が大きくなるばかりですよ」
「でも……」
「なにを躊躇なさってるんですか」
「こんなことをいったら、死者の名誉を汚すことになるかもしれない」
「こんなこと、とはなんです?」
「困ったな」長塚はため息を吐き、「僕がいったってことは内緒にしてくれますか?」と顔を上げ、おでこにしわをつくりながら、懇願するような目でまどかを見る。
「もちろんです。お約束します」
じゃあ、といいつつも、長塚は数秒だけ躊躇い、
「女性関係で、まあちょっと、問題を抱えていたといいますか。先生、酔っちゃうと、手当たり次第に口説く癖があったので」苦笑いを浮かべながら、そう口にした。
「女性から恨まれていた?」
「まあ、そういうことも、まったくないとはいえません」
歯切れが悪い。まどかはイラ立つのを顔や声に出さないよう努めた。
「二股とか、そういったことですか?」
「そうですね。はっきりいってしまえば、もっと多いですけど」
「相手は?」
「いろいろです。夜のお店に勤めている女性から、バーで知り合った人。それから……ウチで働いてる子にも」
「その女性、いま社内にいますか?」
「いますよ」
「あとで呼んできてもらえますか。それから、福田さんの歴代の担当者も」
「全員、出社しているので大丈夫です」
「ありがとうございます。福田さんがよく飲みに行っていた夜のお店の名前はわかりますか?」
「はい。いくつかありますけど、最近は六本木の『花月』というキャバクラを贔屓にしていました」
「誰かお気に入りの女性が?」
「レイカっていう、店でナンバーワンの女性をいつも指名してました。『絶対に落としてやる』と鼻息を荒くさせてましたね。……この子です」
長塚がまどかに向けたスマホの画面には、青いドレスを着た女性が映っていた。『花月』の公式サイトに掲載されている宣伝写真らしい。長い髪はミルクティ色に染められ、日本人離れした派手な顔立ち。グッと押し上げられた胸は、ドレスからこぼれ落ちそうなほど豊満だった。
その姿を見て、まどかは移動中に見た福田のプロフィールを思い出した。現在45歳。23歳で漫画家デビューするも、しばらくは売れず、不遇の時期を過ごした。しかし、26歳のときに発表した『無敵のリヴァイア』によって、人気漫画家の仲間入りを果たす。30歳のときに、当時18歳だったグラビアアイドルの早乙女恭子と結婚するも、10年後に離婚――。
まどかには、スマホの画面に写るレイカと、中村のタブレットで検索した恭子の若かりし頃のルックスが似通っているように思えた。
レイカの画像の下には『21歳』と表記されている。若さを失いつつある恭子を捨て、彼女の昔の姿を彷彿とさせる、親子ほどに年齢の離れた女性に走る……。
――男ってバカだな。
まどかは白々とした気持ちになりながら、話を切り替えた。
「福田さんには離婚歴がありましたよね? 彼女との関係はどうだったのでしょう?」
「良好、とまではいかないですけど、恭子さんには多額の慰謝料を払いましたからね。それで先生、『結婚はコリゴリだ』っていってました。恭子さんが先生のことを恨んでるってことはないんじゃないですかね。慰謝料を元手に美容クリニックを経営して、いまではインフルエンサーとしても活躍してますから。まあ、それはあくまでも僕の意見であって、実際のところ、恭子さんがどう思ってるかはわからないですけど」
長塚の言う通り、現在33歳の恭子は、美容業界で一目置かれる存在になっている。まどかは、彼女のSNSにも目をとおしたが、セレブな日常をこれでもかと投稿して、成功者アピールに余念がない様子だった。美容に興味があり、金持ちのライフスタイルに憧れを抱く女性からの支持が厚いようで、総フォロワー数は百万人を超える。
グラビアモデルとして活動していたときは、知る人ぞ知る存在だっただけに、ネット上では、『福田を踏み台にして成功した』『結局、金のための結婚だった』などと口さがないコメントも飛び交っている。実際のところ、福田と結婚してなければ、いまの暮らしを手に入れることは不可能だっただろう、とまどかも思った。
――女はしたたかだ。自分はその範疇に漏れるけど。
まどかはそんなことを考えながら話を続けた。
「レイカさん以外に、最近、福田さんと関係があった女性はいますか?」
「それが、その前に同棲までしてたのが、おなじ店に勤務してるアイって子なんですよ。先生、本能のままに行動しちゃうんで、女の子の気持ちなんてまったく考えないんです。この前、『花月』にご一緒したとき、僕らの席にレイカちゃんがついたんですけど、遠くの席からアイちゃんが殺気を放つのが感じられて、ヒヤヒヤしました」
「そのアイって子の写真も見せてもらえますか」
「あ、はい、どうぞ。この子です」
長塚が掲げたスマホの画面には、先程のレイカが髪型とドレスの色を変えただけに見える、そっくりな女性が映っていた。その画像の下には『25歳』と表示されている。福田の女性の好みは、見た目に関しては共通しているが、どうやら〝鮮度〟にこだわっていたらしい。まどかは呆れて、苦笑いを堪えることができなかった。
「ありがとうございます。ほかに女性関係でトラブルは抱えてませんでした?」
「うーん……。僕が知る限りではそのくらいですかね」
「では、男性とのあいだにトラブルは?」
「先生は結構、はっきり物をいうタイプでしたから、好き嫌いは別れますけど、まさか殺してしまうほど憎まれていたってことはないと思います。すくなくとも、僕はそんな争いを耳にしたことはありません」
「あの」と、中村が久しぶりに声を発した。質問していいか? と問うようにまどかを見る。
「どうぞ」
まどかが許可を与えると、中村は長塚へと向き直った。
「小熊彰先生との仲はどうだったんですか?」
その質問を聞いて、まどかは移動中に中村から耳にした話を思い出した。福田が『無敵のリヴァイア』を連載してから半年ほどが経過した頃、小熊はリヴァイアとは正反対の設定の作品『最弱ヒーロー・プータン』を描き、一躍人気漫画家の仲間入りを果たした。
しかし、作中でリヴァイアを揶揄したりバカにしたような描写があることから、福田の怒りを買った。「便乗商法だ」と指摘する福田に対して、小熊は「自意識過剰」と意見を退け、それぞれインタビューを通じて批判し合い、ネット上では「新人コンクールの授賞式で、福田先生が小熊先生を殴った」という噂が流れ、二人が犬猿の仲であることは、業界では有名だということだった。
――長年の鬱憤が溜まって、小熊が福田を殺害した?
まどかが脳裏に浮かべた推理は、長塚の乾いた笑い声を聞いて、雲散霧消してしまった。
「あれはプロレスなんですよ」
「プロレス?」まどかは首を傾げる。
「外野が勝手に騒いでるから、二人が面白がって、仲の悪い振りをしてただけなんです。実際のところ、『最弱ヒーロー・プータン』を描くように小熊先生に提案したのは、ウチのほうからだったみたいですし。対照的な存在がいれば、リヴァイアのキャラクターがより際立つだろうからって、福田先生は快諾してくれたそうです。そうじゃなければ、おなじ週刊誌で、あんなに堂々と、毎回毎回、パロディ的なネタを描いたりはしませんよ」
「じゃあ、実際には、2人の仲は?」
「いいですよ。しょっちゅう、一緒に飲んでますから」
「小熊さんも『花月』に?」
「はい。あ、好きな女の子がかぶってケンカなんてことは一度もないそうです。お二人とも、描いてる作品同様、女性の好みは真逆で、酒の席ではいつもそれをネタにしてましたから」
でも、実際のところはどうだろう。福田は例外だが、年齢を重ねて異性の好みが変わる人もいる。小熊が密かにレイカに恋心を抱いていたら……? まどかは一応、このことを心に留めておくことにした。
「差し支えなければ、小熊先生の連絡先を教えて頂きたいのですが」
「え、でも、いまいったとおり……」
「あらゆる観点から捜査をする必要があるので」
わかりました、と長塚は納得して、小熊の名刺をテーブルの上に置いた。そこに書かれた連絡先を中村がメモするのを横目に、まどかは別の質問を口にした。
「福田さんは、ご家族との関係は良好でした?」
莫大な遺産を目当てに、肉親が犯行におよんだ。その可能性を考えたのだが、
「先生は1人っ子で、お母様は3年前に他界。お父様は先生の援助で、国内で一番ランクの高い老人ホームで暮らしています。けど、足が不自由で車椅子に乗っているので、殺人なんてできないと思いますよ」
本人がダメでも誰かに依頼する方法だってある。まどかは、長塚の推測を右から左へ流した。
「ほかに親戚は?」
「ご両親のどちらも1人っ子で、お母様が亡くなったときは、連絡の苦労がなかったと仰ってました」
「そうですか。老人ホームの所在地はわかりますか?」
「ちょっと待ってください」長塚はスマホでネット検索して、その画面を中村に見せた。「ここです」
中村がそれをメモする。
「ありがとうございました。最後に、昨日の13時から15時にどこでなにをしていたか教えて頂けませんか?」
「アリバイってやつですか?」長塚は苦笑する。
「長塚さんを疑ってるわけではありません。念のために、関係者には全員、訊くことになっているので」
「わかりました」長塚は頷くと、「ああ……」と嘆くような声を出し、指で鼻をつまんで俯いた。わさびの刺激が鼻にツンときたときのような素振り。なんとなくわざとらしく見えて、
「どうしました?」まどかは冷ややかな目で長塚を見た。
「その時間に先生が亡くなったんだなぁ、と思うとなんだか悲しくなってきて。すみません。昨日は午後から休日出勤をしたので、ちょうどその時間はここにいました。福田さんの歴代の担当者たちもみんな一緒でした。今週号で『無敵のリヴァイア』の連載が終了してしまうので、ファンへの対応について相談して、その後に軽く打ち上げをしました。タイムカードを押してありますし、編集部の防犯カメラをチェックして頂ければ、僕のアリバイはちゃんと確認が取れるはずです」
それだけの材料があるならば、もし殺人事件だとしても、長塚は容疑者から外れる――なにか巧妙なトリックを使ってさえいなければ。
「わかりました。後ほど確認させて頂きます。先程話に出た、福田さんに言い寄られていたという編集部の女性と、歴代の担当者を呼んできて頂けますか」
「わかりました。手の空いてる者から順番に来るように声をかけます」
長塚が辞してから数分後、最初にやって来たのは、新入社員らしき初々しさが残る、20代前半と見られる女性だった。髪の毛は黒いが、濃い顔立ち。福田の好みそうな見た目をしていた。
佐藤恵梨香、と名乗ったその女性は、福田から口説かれた経緯を話すよう、まどかが促しても、最初は躊躇する様子を見せた。長塚のときとおなじく、死者の名誉を損なうのを気にしているらしかった。けれど、捜査に必要なのだと、まどかが背中を押すようにいうと、
「ホント、困ってたんです」恵梨香は苦々しげな表情を浮かべ、「稼ぎ頭の作家さんだから、あからさまに邪険にするわけにはいかないですけど、それが向こうはわかってるから、飲みの席で隣に座ると、身体を撫で回すように触ってきたり、卑猥な言葉を耳元で囁いたりしてきました」鬱憤を一気に晴らすように捲し立てた。
「ホテルに誘われたりは?」
「しょっちゅうです。1回いくら出せばいいんだとか、愛人契約を結ばないかって。しつこくいわれました。もちろん、それはちゃんと断りましたよ。精神的に苦痛で、上司に相談したんですけど、やっぱり大事な先生だからって、なにもいってはくれなかったんですよね。ああ、ここはそういうところなんだって、もう誰にもなにも期待しなくなりました」
眉間にしわを寄せながら、会社批判までした恵梨香だが、急に我に返ったようにきょとんとした表情を浮かべると、慌てて両手を振り、
「あ、違いますよ。確かに嫌な思いをしましたけど、殺意を抱くほどじゃなかったですから。私が殺したなんて考えないでくださいね」と主張した。
「大丈夫です」
恵梨香を安心させるため、まどかは笑みを見せて頷いた。刑事を目の前にして、こんなにも感情的に思いのたけを打ち明ける人間が、殺人を犯すとは思えない。これまでの経験則から考えても、恵梨香は重大な罪を犯す犯人像には結びつかない。とはいえ、いまは先入観なしでフラットに情報を処理するよう心がけた。
「佐藤さんのほかに、編集部内の女性で、おなじような被害を受けた方はいませんか?」
「一応、女の先輩はいるんですけど、みんななんていうか、その……」
察してくれ、というように、恵梨香は苦笑して見せた。
「福田さんの好みの女性ではない、と?」
「そうですね」恵梨香は微かに優越感に浸るように唇を歪ませた。「ほかに分散してくれれば、私だけが辛い目に遭わなくて済んだんですけど」
内心では、福田が死んだことをよろこぶまではいかなくても、すくなくとも悲しんではいないことが見て取れた。
「福田さんが誰かの恨みを買っているという話を聞いたことはありませんか? 女性に限らず男性でも」
うーん、と恵梨香は顎に指を添えて考え、「わからないです。強いていうなら……」と言葉に詰まり、表情を窺うようにまどかの顔を見た。
「強いていうなら、誰かいるんですか?」
「私がいったってこと、絶対にバレないですよね?」
「もちろんです」
「それなら。長塚さん、飲みの席では、体育会系みたいに無理矢理飲まされてました。ほかにも、場を盛り上げるためにモノマネをしろとか、ゲテモノを食べろとか。時代を逆行するようなパワハラ三昧で、見ててかわいそうだなって。そういうことするの、福田先生以外にはいませんから」
しかし、まだ確認はしてないが、長塚にはアリバイがある。
「そうですか、ありがとうございます。これは関係者全員に伺うことになっているので、気を悪くなさらないで頂きたいのですが、昨日の13時から15時のあいだ、どこでなにをされてました?」
前置きをしたものの、やはり気分を害したのか、恵梨香は一瞬、苦い物を口にしたような表情を浮かべたが、途端に不安の色が広がった。
「昨日はずっと家にいたんですけど」
「それを証明するものは、なにかありますか?」
「一人暮らしだから、なにもありません」
「そうですか、わかりました」
「でも、私、本当になにもしてないですから。セクハラされたのは嫌だったし腹が立ったけど、殺すほどではなかったですから」
眉間にしわを寄せて、縋るようにいう恵梨香に対して、まどかは右手を上げて制した。
「まだ福田さんが殺されたと決まったわけではないので、そんなに心配しないでください。ご協力ありがとうございました。次の方を呼んできてもらえますか」
まどかの口調が事務的だったためか、恵梨香は納得いかない表情を浮かべたまま席を立ち、「本当に私は関係ないですから」と言い残して去って行った。
「どう思った?」
まどかは伸びをしながら、ずっと口をつぐんでメモ係に徹している中村を見た。中村はメモ帳からゆっくり顔を上げると、
「もし殺人事件なら、犯人は用意周到に計画したんだと思います」
「事件か事故か、微妙な状況をつくってるわけだからね」
「はい。長塚さんと佐藤さんはそれぞれ、福田さんに対して怒りを覚える動機はあったようですけど、犯人はもっとなんかこう、静かに燃えるような怒りをもって殺人におよんだような気が、僕はするんです。なんだか抽象的な意見になっちゃいますけど」
「いいの。なんとなく、私も中村がいってること、わかるような気がする」
しかし、福田に対して静かに燃えるような怒りを抱いていた人物がいるとしたら、それは一体誰だろう? そして殺害の動機はなんだろう? 殺人事件だとすると、犯人を特定して捕まえるのは難航するかもしれない。まどかはそんな嫌な予感を抱いて天井を仰いだ。
福田の担当を務めた歴代の編集者たちから事情聴取をした結果、福田の女性関係は想像以上に数多く、多岐に渡っていることがわかった。その女性遍歴は結婚していた時期も盛んで、恨みを買っているとすれば女性の確率が高いように思えた。
そして、長塚の証言どおり、昨日、休日出勤したメンバー全員のアリバイを確認することができた。改めて挨拶に来た長塚に礼をいい、まどかと中村は地下の駐車場へ行き、捜査車両に乗り込むと、揃ってため息を吐いた。
「ちょっと見せて」
まどかは中村から手帳を預かって、そこに列記された、福田と関係があった女性の名前を見つめ、もう一度、今度はより大きなため息を吐いた。ざっと数えただけで30人以上はいる。2人で片っ端から事情聴取をするのは無理だ。角松に連絡を入れて、ほかの刑事にも分担してもらわなければ。
「男ってどうして若い子が好きなんだろ」
まどかは独り言のつもりで呟いたのだが、
「僕は年上の女の人のほうが好きですよ」
中村が即座にそう切り返したため、車内がシーンと静まり返り、妙な雰囲気になってしまった。それを解消するため、
「これまでの捜査状況も含めて、角松さんに電話する。向こうの状況も知りたいし」
スマホを取り出して角松の番号に電話をかけると、ワンコール目で応答があった。
『いまちょうど、こちらからかけようとしていたところです。福田さんのお父様から許可を頂き、福田さんが住んでいたマンションの部屋のなかを捜査しているのですが、もしよろしければ、奥津さんたちもこちらへ来ませんか』
ということで、捜査状況のすり合わせは直接会っておこなうことになり、中村の運転で、目黒にある福田のマンションに向かうことになった。