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ヤングケアラー

 ここ数年、10月に入っても暑い日が続き、休日ともなれば、茅ケ崎の海岸沿いに店を構える飲食店はどこも、夏のシーズンと遜色ない客の入りだった。けれど、先週から降り続く秋雨と、それに伴う気温低下のせいで、せっかくの日曜日だというのに、今日はどの店も朝から閑古鳥だった。

 海を目当てにやってくる若者向けの洒落た店ですらそんな状態なのだから、五年前まで横浜で事務所を開いていた探偵時代の四方山話と、趣味が高じて溜まった古今東西のミステリー小説のコレクションをウリにするカフェ『ポアロ』は散々な状況だった。

 だが、元より採算など度外視のため、店主の末永正嗣は、窓ガラスを打つ雨音とジャズのBGMに耳を傾けながら、時折、店先の3台の駐車スペースに目をやり、キューバ産の葉巻を燻らせつつ、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』の文庫版を静かに読み耽っていた。昼時になっても一人も来客がないため、いつになくのんびりとした時間を過ごし、読書は捗った。

 14時過ぎのティータイムを迎えても客の気配はなく、日曜日は晴れていても大抵、夕方以降は客足が遠のくため、いっそのこと店を閉めてしまおうか――。

 そう思った矢先のことだった。年季の入ったジムニーが迷い込んだようにゆっくりと駐車場に入ってきた。静岡ナンバー。古びた車体とは裏腹に、運転席に座る男性の横顔は若く、下手したら免許を取りたての高校生ではないか、というほどに幼い顔立ちをしていた。

 前職の経験も含めて、末永は人の顔を覚えるのが得意だが、青年を見た記憶はない。どうやら新顔のようだ。店のSNSを見て、他県からミステリー好きが来訪することは珍しくない。彼も恐らくその口だろう、と末永は予想した。

 さてと、と独り言を漏らしながら、末永は文庫本をカウンターの下に置いて立ち上がり、青年を出迎えるためガラス張りのドアを開けた。小糠雨が風で吹きつけ、肌寒さを感じた。

 店に1番近い場所に車を停めた青年は、エンジンを切ると末永に気づき、困ったような笑みを浮かべて会釈をした。無造作に伸ばした前髪が目にかかって鬱陶しそうだ。頬のこけた青白い顔には無精髭を生やしている。ちらっと荷台に視線を移すと、釣り道具やキャンプ用品らしき物が収納されているが、アウトドアを楽しむような人物には見えないため、末永は意外に感じた。

 末永が再び運転席を見ると、青年は一瞬、空を見上げ、傘を差すまでもないと判断したのか、運転席のドアを開けて出てきた。青年の身長は末永とおなじくらいで170センチあるかないか。細身の身体にワンサイズ大きめのパーカーとカーゴパンツを着用し、左肩に使い古したリュックサックを担いでいる。髪の毛が雨で濡れた途端、捨てられた子犬のような印象を末永は抱き、はやく保護してあげなければ、という気持ちを抱いた。と同時に、以前どこかで会ったような懐かしさも感じた。しかしやはり、彼の顔に見覚えはなかった。不思議に思いつつも大きくドアを開いて、

「いらっしゃい」と声をかけた。「さあどうぞ、なかに入って」

 ありがとうございます、と青年は消え入りそうな声を発して頭を下げながら、末永の横を通り抜けると、すぐに立ち止まり、感に入った様子で店内を見回した。やはり、ミステリー好きなのだろうか?

「ここへ来るのは初めて?」

「はい」

「どこかで会ったことあるかな?」

 末永の言葉に彼は不思議そうな顔をして首を傾げた。

「いえ、ないです」

「そうか、じゃあ、勘違いか。どこかで会ったような気がしたんだけど。ここへは、SNSかなにかを見て?」

 ドアを閉め、カウンター内へと戻りながら、末永は訊ねた。どうぞ、と目の前のスツールに腰かけるよう手で促す。

 はい、と青年は頷きながら椅子にリュックサックを置き、その隣に腰を落ち着けた。腕まくりをした両腕をカウンターの上に預け、壁中に設置された本棚を好奇心に満ちた表情で見回す。その姿はまるで、おもちゃ屋に連れて来られた子どものようだった。しかし、末永はすぐに気づいた。青年の手首には幾本ものためらい傷が刻まれ、両手の指先がひどく痛んでいることに。

「静岡からわざわざ?」

 感謝と驚き。そんなニュアンスを込めて末永が訊くと、青年は振り返り、どこか寂しげな表情を浮かべた。

「ずっと介護をしてた父親が先月、亡くなったんです。いままでは自分のこと、なにもできなかったから、貯金をはたいて車を買って、思い切って日本一周の旅に出たところです。湘南に来たらポアロさんには絶対に立ち寄ろうって決めてました」

 青年は〝絶対に〟という言葉を強調した。末永にはそれがうれしく思えた。

「それはそれは」

「注文いいですか?」

「どうぞ」

「カフェモカをホットで。それからハムチーズトーストをもらえますか」

「はいよ。……介護をずっとって、ほかにご家族は?」末永は注文されたメニューの準備をしながら訊いた。

「いません。僕が中学生になってすぐ、母親が家出してしまって。それからは、学校に行ってるあいだはデイサービスに任せて、家に居るときはつきっきりで介護してました。外に遊びに行けないから、家で読書することが多くなって。最初は現実逃避ができるファンタジー小説が好きだったんですけど、旅行気分を味わいたくてふと手にしたアガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』を読んでからはミステリーにどっぷり浸かってます」

「クリスティの本ならあそこに全部揃えてあるよ」と末永は書棚を指差す。「中学生から介護をしてたって、あなたいま何歳?」

「ハタチになったばかりです」

「じゃあ、7、8年も1人でお父さんの介護を?」

 はい、と頷いた青年の顔には、苦労から脱した解放感が一瞬だけ浮かんだが、すぐにまた寂寥感が込み上げる様子を見せた。

 ヤングケアラー。家族の介護を担う18歳未満の若者を意味する言葉だ。末永自身も、千葉で過ごした少年期に母親が交通事故で半身不随になり、介護をした経験があるが、父親や兄弟と交代で世話をした。それでも学業や友人との交友に支障をきたした苦い記憶があるため、中学生のときからたった1人で父親の面倒を見てきた青年の苦労はいかほどだったのだろうかと同情した。

「久しぶりに読もうかな」青年はクリスティの本が収められている書棚を見つめながら呟き、「いいですか?」と末永のほうを振り返った。

「もちろん。ここに置いてある本はどれも自由に読んでいいよ。裏にも在庫があるから、読みたい本があれば取ってくるから、遠慮せずにいって」

 ありがとうございます、といって青年は立ち上がり、『オリエント急行殺人事件』の文庫本を手にして戻ってきた。読書の妨げになってしまうが、末永はまだなんとなく彼と話をしたかった。

「お父さんは、なにかご病気で?」

「いえ。僕が生まれて間もない頃、大学時代の友人たちとキャンプをしてたときに川で溺れて。一時は死の縁をさまよって、奇跡的に助かったんですけど、脳に障害を負ってしまったんです」

 なるほど、と末永は声のトーンを落として相槌を打ちながら、どこかで聞いた覚えのある話だな、と思った。

「別にそんなに辛くなかったんで、同情しなくても大丈夫ですよ」青年は努めて明るい声を出した。「この話をするとみんな、偉いねっていってくれるんですけど。僕にとってはたった一人の肉親ですし、まともに会話はできなかったけど、父のことは尊敬してますし、とても多くのことを学びましたから」

 とはいいつつも、誰にも弱音を吐けず、苦労したこともたくさんあっただろう。詮索好きが行き過ぎたことを末永は反省した。

 コーヒーを淹れ、トーストが焼き上がり、「どうぞ」と青年に差し出す。

「お名前を伺ってもいいかな?」

「ユウ、といいます」

「優しいって漢字?」

「そうです」

「きみにぴったりの名前だね」

 末永はカウンターの下で伝票に『優』と記した。

「そうですかね」

 優は照れてはにかんだ。

「お父さんは優くんに感謝してただろうね」

「だといいんですけど。末永さんはご家族は?」

 どうして自分の名前を知っているのだろう? 末永は一瞬、不思議に思ったが、グルメサイトの口コミかなにかに載っているのだろう、と深く考えず、

「バツが2個ついてて、いまは独り身。それぞれ1人ずつ子どもができたけど、息子は事故で亡くしてしまってね。娘のほうは私のことを嫌っていて、顔も見たくないと。ちっとも会おうとしてくれない」

 優にいろいろと訊いた手前、素直に身上を話して苦笑を浮かべた。

「末永さんも苦労されてるんですね」と優は微笑む。

「私の場合は自業自得だからね。優くんとは違うよ。これからは自由に羽を伸ばすわけだ。いま、仕事は?」

「通信制の高校の授業を受けながらずっと、ウェブデザインの委託をしてました。それをいまも続けています」

「じゃあ、パソコンがあればどこでも仕事はできるわけだ」

「そうですね。じゃなければ、日本一周しようとは思いませんでした」

「そうか」末永は窓の外のジムニーをちらっと見る。「いいなぁ、羨ましいよ。これから楽しいことだらけだろうね」

「だといいんですけど」と呟いた優の顔に苦笑が浮かんだように見えて、末永はすこし気になった。

「計画は立ててるの?」

「いえ。本当に行き当たりばったりで、なにも考えてないです。でも、この辺りの雰囲気はいいですね。なんだか心が落ち着きます」

「晴れていればもっといいよ。これから涼しくなってくれば、観光客が減って静かになるしね」

「すぐ近くにキャンプ場がありますよね。そこにしばらく居ようかなって思ってます」

「それはいい」

「そのあいだ、ここへ通わせてもらいます」

「ぜひとも。お喋りな、こんなおじさんでよかったら、いくらでも話し相手になるから。常連にはクリスティ好きが何人かいるから、もしよければ紹介するよ」

 ありがとうございます、と優は微笑んで、カフェモカに口をつけた。『オリエント急行殺人事件』を開いて読む様子を見せたので、末永はそっとしておくことにしたが、

「そういえば」優が顔を上げて見つめてきた。「2週間くらい前でしたっけ? 空き巣の被害に遭ったって、SNSに投稿されてませんでした?」

「いやぁ、よく見てくれてるね。でも、あれは本当のところは違うんだ。朝、店に来たら窓を割られててね。てっきり、夜中に空き巣に入られたのかと思ったけど、なにも取られてはなかった。ただのイタズラだったらしい。お騒がせして申し訳ない」

「でも、防犯カメラを設置するようになったんですよね。それもSNSで見ました」

「うん。また犯人が姿を見せるかもしれないからね。警察に勧められて店の外となかに設置した。役に立つようなことにならなければいいんだけど。この辺りは治安がいいから、あんなことは初めてでね。誰かに恨まれるようなことをした記憶はないから、2度とおなじことは起きないと信じてるよ」

 末永がそういい終えたところで、駐車場にグリーンのワゴンRが乗り入れた。常連の老夫婦。どちらも特にミステリー好きではないが、末永とのお喋りを目的に、週に2、3回の割合で店に顔を見せる。

「ちょっとごめんね。お客さんだ」

 末永は優に断りを入れ、老夫婦を出迎えてテーブル席に案内し、注文を取ってコーヒーを持って行くと、いつものように席に座るよう促され、世間話の相手をさせられた。そのあいだ、優のことは放置していた。彼はカウンターで1人、静かに本を読んでいた。

 老夫婦が話に満足して帰る頃には、外は薄暗くなっていた。時刻は16時を回っている。雨は相変わらず降り続いていた。

 彼らが使ったコーヒーカップを片づけ、カウンターの向こうに戻ると、読書に夢中になっていた優が顔を上げた。

「ごめんね、ちょっとうるさかったかな。話好きな常連さんなんだ」

「いいえ。大丈夫です」と優は微笑む。「ここって何時までですか?」

「8時まで。ゆっくりしていきなさい」

 ありがとうございます、といって優は読書を再開し、末永は洗いものを済ませてから、『ダ・ヴィンチ・コード』の文庫本を手に取った。すると、その表紙を優がじっと見つめていることに気づいた。どこか妙なところでもあるのかと、末永は表紙を見たが異変はない。

「なにか?」

「あ、いえ、いま僕、ダ・ヴィンチに関する小説を書いているので、ちょっと興味があって」

「へえ。ミステリー小説?」

「というよりもサスペンスに近い感じです。もしよければ読んで、感想をもらえませんか?」

 優は嬉々とした様子でリュックサックのなかを漁りはじめたが、末永は気が重くなった。店のコンセプト柄、客が思いついたミステリーのトリックやストーリーを自慢げに話してくることは多々あるが、それについて意見を求められるだけでも気を遣った。それが自作の小説ともなれば、読む労力を使うのも億劫であり、感想を述べるとなるとなおさら面倒だった。

 だが、末永は嫌とはいえず、

「これです。まだ途中なんですけど」

 プリント用紙が入ったクリアファイルを優が手渡してきたため、仕方なく受け取った。紙には文章がびっしりと印刷されていた。

「いま読んで感想をいったほうがいいかな?」

「それはちょっと恥ずかしいので」優は照れ笑いを浮かべる。「今度来たときに続きをお渡ししますので、そのときに感想を教えてもらえますか?」

「うん。わかった。じゃあ、あとでゆっくり読ませてもらうよ」

 気まずくならずに済んでよかった、と末永は顔には出さないものの安堵し、優が読書を再開したので自分もそれに倣った。

 雨音とBGM。時折、ページをめくる音がするだけで、一切の会話もなく、新たな客も来ない時間が続いた。

「そろそろ帰ります」

 優がそう口にしたのは、18時を過ぎた頃だった。

「本は片づけておくからそこに置いといて構わないよ」

「ありがとうございます。久しぶりに読みましたけど、やっぱりおもしろいですね」

「うん」

「ここにいると、凄く本の世界に浸れます。思ったよりも、もっと素敵なお店でした」

「そういってもらえるとうれしいよ」

「また来ます」

「ぜひ。まだ雨降ってるから、運転気をつけて」

 末永はドアを開いて、荷物をまとめる優を待った。

「ありがとうございます。それじゃあ」

 外に出てジムニーに乗り込み、エンジンをかけて国道へと出て行く優に手を振り見送ると、末永はドアを閉めてカウンターの上を片づけ、洗いものを済ませた。それからマグカップにコーヒーを注いでひと息。葉巻を燻らせながら、クリアファイルを手にして原稿を取り出した。

 A4用紙が数枚。パラパラとめくり、流し読みをした感じでは、レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェの工房に弟子入りしたときの様子が書いてあるようだった。思ったよりも文章はそれほど悪くない。苦痛なく読める程度には整っている。かといって、素人が書いた小説をわざわざ読んで、感想まで伝えなくてはいけないのは、やはり骨が折れる。しかも、これで完結しているわけではなく、まだ続きがあるということだった。

「はあ……」

 末永は思わずため息を漏らし、原稿をクリアファイルに戻すと、車も人もまるで通らない国道を眺めながら、そろそろ店を閉めようかと考えた。


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