息子の死の謎
末永がそこまで読んだところで、先日、優から受け取った原稿は終わっていた。はやく続きを読みたい。末永は純粋な読者になっていた。と同時に、この小説に書かれてあることは、どれだけが事実なのだろうかと気になった。
優がしばらく腰を落ち着ける予定だといっていたキャンプ場は、ここから目と鼻の先だ。天気もいいし、たまには早朝に運動するのも悪くない。散歩がてら様子を覗きに行ってみようか。そう思い、マグカップをそのまま椅子の上に放置して、ドアの鍵を閉め、原稿を片手に歩き出した。
車の行き来もまだすくない国道沿いを十分ほど歩くと、キャンプ場が見えてきた。夏真っ盛りのシーズンと比べると大分、敷地内に張られたテントの数は減ったが、それでも残暑が厳しいこともあり、半分以上は埋まっていた。
松林の陰になった、東京ドーム半分ほどの面積の土地が、海岸に沿うように長く続いている。末永はそのなかを歩いた。すでに起きて、たばこを吸いながらのんびりコーヒーを飲んだり、熾火でパンを焼いている人たちを数人見かけた。しかし、そのなかに優の姿はなく、彼が乗っていたジムニーも見当たらなかった。
キャンプ場の端まで辿り着いてしまい、引き返すあいだにも注意深く探してみたものの、結局、優と会うことはできなかった。律儀な性格に見えたため、原稿を読んでくれと頼んでおいて、なにもいわずに旅立つとは思えない。もしそうだとしたら、緊急の用事ができたのだろう。あるいは、早朝に起きて買い物に出かけたか。連絡先を訊いてないため、どうすることもできず、末永は、彼がまた来店するのを待つことにした。
『ポアロ』に戻り、簡単に食事を済ませ、時々、本棚に入ったミステリー小説をぱらぱら読みつつ、のんびり店内の掃除をしている内に、開店時間の十一時を迎えた。
快晴ということもあり、数分と経たず、近所に住む常連の主婦たちが来店し、店内は一気に騒がしくなった。全員が還暦を迎える彼女たちの目的は、ミステリー談話ではなく雑談だった。
末永もその会話に時折、巻き込まれ、適当に相手をし、そうこうしている内に、ランチ目当てのお客が増えて……。急に雲行きが怪しくなり、小雨がぱらつきはじめても、客足が鈍くなることはなかった。
忙しく過ごしている内に、いつの間にか時刻は十四時を迎えていた。その頃になると、朝の天気が嘘のように雨は本降りになり、店内は落ち着きを取り戻していた。
一昨日、優がここを訪れたのも、大体この時間だったな、と末永はふと思い出しながら、柱時計から窓の外へ視線を移すと、まるで図ったようにちょうどいいタイミングで、優が運転するジムニーが駐車場に入ってきた。末永が笑顔で手を振ると、優ははにかむような笑みを見せ、軽く会釈を返してきた。
「いやぁ、もしかしたら、もうそろそろ顔を見せてくれるんじゃないかと、ちょうど思ってたところだったから驚いた」
末永はドアを開け放ち、一昨日とおなじ服装をしている優を出迎えた。
「この前もおなじ時間帯に来ましたよね。今日もそうしようと思って来ました」
「そこのキャンプ場に泊まってるの?」
「はい。波の音が聞こえて、落ち着いた、いい場所です」
末永がカウンター席に案内すると、優はまたホットのカフェモカとハムチーズトーストを注文した。末永がそれを用意しているあいだに、先客が帰ったため、店内には末永と優だけになった。
「どうぞ」
末永がトレイを目の前に置くと、
「朝からなにも食べてなくて、お腹が空いていたんです」
その言葉どおり、優は早速、ハムチーズト―ストに齧りついた。美味しそうに食べる。その姿を快く思いながら、末永は椅子に腰かけた。
「朝からどこかへ出かけてたの?」
「はい。ちょっと用事があって。途中、どこかで食べようかと思ったんですけど、この味が忘れられなくて」と、優はハムチーズトーストをまた口にする。
「実は今朝、キャンプ場に行ったんだけど、優くんのことを見つけられなくて、諦めて帰ってきたんだ」
え? と優は驚き、ハムチーズトーストを食べようと開きかけた口を止めた。「なにか僕に用事があったんですか?」
「いや、この前、優くんが書いた小説を預かっただろう? 朝はやくに起きて全部読み終えたら、続きが気になってしまってね」
「面白いですか?」
目を輝かせて訊く優に、末永は大きく頷いて見せた。
「楽しく読ませてもらったよ」
「そういって頂けるとうれしいです」
「あの続きはもう?」
「書いてあります。ちょっと待ってください」
優がリュックサックの中身を手探りする姿を見て、
「預かってた原稿を返さなくちゃね」
末永は休憩室へ行き、クリアファイルに入った原稿を持って戻った。優と新旧の原稿を交換する。文章がびっしりとプリントアウトされたA四用紙は、前回とおなじ程度の枚数があった。
「これは全部、資料を調べて書いてるの?」
「一応、そうですけど、当時の工房の様子とか人間関係とか、はっきりわからない部分が多いので、そこは勝手に創作してます」
「へえ。テーマは?」
「嫉妬です」
「ああ、ダ・ヴィンチに対する、ほかの弟子たちの」
「いまお渡しした原稿では、師匠のヴェロッキオも、ダ・ヴィンチに対して嫉妬心を抱くようになるんです」
「なるほど。この小説はどこまで書くつもり? ダ・ヴィンチの生涯を書くつもりなの?」
だとするなら大長編になるな、と思いながら末永は訊いた。
「そんなに長く書くつもりはありません。次の次か、その次にお渡しする原稿で最後になると思います。ラストは事実とは完全に異なって、〝嫉妬〟というテーマを強調するための展開を用意してありますから」
「へえ、そういわれると、ますます気になってくるなぁ」
「末永さんは、誰かに嫉妬したことはありますか?」
「そりゃあ、もちろん。いまはもう老いぼれてしまって、ないものねだりはしなくなったけど、若い頃はね。嫉妬と欲望の強さは比例してるんだよ。だから、年齢を重ねることは悪いことじゃない。無駄に心を搔き乱されることがすくなくなってくるから」
「じゃあ、若い頃には、その相手を殺してやりたいと思うほど嫉妬したことってありますか?」
優は淡々とした口調で、末永が思いもかけない質問を繰り出した。
「うーん、どうだったろう」と末永は苦笑しつつ、遠い過去の記憶を掘り返す。「私は特にスポーツをやってたわけじゃないし、大金を稼ぐようなことにも興味がなかったからね。女性絡みの嫉妬はよくしたものだけど、殺したいほどっていうのはないかな。優くんはどうなの?」
「僕はもう、嫉妬する気力も起きなくなるほど、凄い才能を持った人が身近にいたので。そういう人と一緒にいると、殺したいって気持ちよりも、自分の才能のなさに絶望して死にたくなってしまうんです」優は窓の外へ顔を向け、なにかを懐かしむように遠い目をした。「だけど、いるんですよね、世のなかには。ダ・ヴィンチのような天才を目の前にして、その才能を奪い取って、あたかも自分の物にしようとする、とんでもなく卑怯な連中が」
優の横顔に怒りの表情が浮かんでいるように見えた。もしかして、彼が書いた小説は、その〝卑怯な連中〟をモデルにしているのではないか。末永はそんなふうに思い、質問しようとしたが、そこで常連客が一人、来店して優と一つ席を空けてカウンター席に腰かけ、注文もそこそこにミステリー小説の話をはじめたため、話の腰を折られてしまった。
優も会話の輪に入れて一緒に楽しめばいい。末永がそのタイミングを窺っていると、
「ごちそうさまです。もう行きますね」
優は食事を終え、財布を取り出した。
「ごめんね、せっかく来てくれたっていうのに、話の相手ができなくて」
会計を終えてドアの外まで送りながら、末永は優に謝った。
「いえ、ハムチーズトースト美味しかったですし、小説を楽しんで頂けているのがわかってうれしいです」
「うん。あとでまたじっくり読ませてもらうよ」
「また明後日くらいに来ます」
「うん。それまでには読み終えてると思う。お待ちしてるよ」
優は微笑みながら「ごちそうさまでした」といって、雨のなかを走って愛車まで行き、エンジンをかけて駐車場から去って行った。その様子を、手を振りながら見送っていた末永はふと、
『父さん、本物の天才に出会ったことはある?』
遥か昔、息子にいわれた言葉を思い出した。
『今日、僕は出会ったんだ。文句なしで、誰が見ても本物の天才に。ダ・ヴィンチのように、なにをやらせても常人にはできないことを容易くやってしまう万能の天才に』
息子はうれしそうな顔をしてそう続けた。その言葉と、優が先程口にした、
『僕はもう、嫉妬する気力も起きなくなるほど、凄い才能を持った人が身近にいたので。そういう人と一緒にいると、殺したいって気持ちよりも、自分の才能のなさに絶望して死にたくなってしまうんです』という言葉が重なり、
「まさか……」
末永は絶句した。心臓の鼓動が高鳴った。
――だから息子は死んだのだろうか?
末永が長年、頭を悩ませ、苦しみ続けている疑問。その答えが急に閃いたと思ったが、すぐに打ち消した。息子が〝天才との邂逅〟を口にしていたときから死ぬまでには、かなりの年月の隔たりがあったはずだ。その考えに行き当たり、心拍数は落ち着いたが、
――では、息子はなぜ死んだのだろう?
結局のところ答えが見つからず、堂々めぐりとなってしまうのだった。




