短編
一四六六年~一四七〇年。イタリア中部フィレンツェ共和国。
ヴェロッキオがレオナルドと初対面したときに予期したとおり、彼の存在は、いくつかの理由によって、工房内にすくなからぬ波風を立てた。
その原因の一つとして、まず挙げられるのが、彼の類まれなる美貌だった。ヴェロッキオが最初に彼の姿を見たときに感じた神々しさは、朝夕に親方から命じられた作業をこなしながら、芸術家に必要なあらゆる勉強をしなければならない、という多忙な日々に追われるなかでも、決して損なわれることはなかった。むしろ、芸術を愛し、夢中になってやまないレオナルドは、頭の先から爪先までどっぷりそれに浸かることができる毎日に幸せを感じ、内面の充実が外に発散され、ますます光り輝いているように見えた。
この時代、宗教上の問題で、同性愛は禁じられ、もし発覚すれば懲罰の対象になっていた。だが、ヴェロッキオ自身も含め、同性を愛の対象とする男性は工房内に何人かおり、『目は心の鏡』という言葉があるように、彼らが同性を見る目つきで、同性愛者であることは知れた。
そして、彼らの視線を一身に集め、心を搔き乱す魅力を、レオナルドは悪魔的に発散していた。彼がその場に居る居ないでは、空気が明らかに変わった。彼の存在は、ある者にとっては緊張感を、別の者には劣等感を、ほかの者には安堵感をもたらした。見る者によって印象が違うのは、彼が多面的な性格と才能を持ち合わせているからだろう。
それまで、数多くの才能ある人々に接し、自身も〝天才〟と称されることのあるヴェロッキオにも、レオナルドは真にその言葉に値する人物なのではないかと、彼が弟子入りしてすぐに思い知らされることになった。
ヴェロッキオの工房では、新人は絵画や彫刻の基礎を学ぶのは当然のこと、絵の具を作るための草花や鉱物の知識を得たり、聖書や神話、数学的な教養、板金の表面の研磨や下塗り、体表解剖、機械学、光と影の効果など、普段の作業にプラスして、習得しなければならない分野は多岐に渡った。人間には好き嫌い、得手不得手が誰しもにあるものだ。万能の天才などいない。ヴェロッキオはそう思い、長い目で弟子たちを育ててきた。
しかし、レオナルドに関しては、乾いた砂が水を吸収するがごとく、当時の芸術家にとって必要なあらゆる知識をいとも簡単に習得するのみならず、さらに押し進めて、より難しい専門的な知識を学ぼうとする姿勢が群を抜いていた。特に興味がある物事を勉強しているときのレオナルドの集中力は凄まじく、師匠であるヴェロッキオが話しかけてもまったく気づかず、近くでその様子を見ていた兄弟子たちが苦笑する、という場面は日常茶飯事だった。
また、考え事をしているときの彼は、人目を気にすることなく、まるで呆けたような表情を浮かべていることがあり、その姿を最初に見たときだけは、ヴェロッキオは彼が天才か、あるいはとんでもない愚人なのではないかと判断が尽きかねたこともあった。
一方、レオナルドは、芸術にまったく関係のない事柄に関しては無頓着になり、特にラテン語については、私生児のために正規の教育を受けさせてもらえなかったという事情があり、彼は苦手としていた。ただ、これに関してはほかの弟子も同様の者がすくなからずいたため、レオナルドの評価を落とすような欠点にはならなかった。
美貌と才能、そのどちらかに恵まれた人間は、自然と他人の嫉妬心を焚きつけてしまうものだ。そのため、双方に恵まれたレオナルドがほかの弟子たちから妬まれてしまうのは必定だった。
それに加えて、天真爛漫なレオナルドは、相手の感情を読むのが苦手なのか、傍で聞いている者をヒヤリとさせるほど、ときに辛辣な言葉を口にすることがあった。何事も自分の気持ちを優先させて押し進める性格で、その時々の感情を〝世間体〟というフィルターを通さず、ありのままに表現してしまい、それが原因となって、周囲と軋轢を起こすこともしばしばだった。
しかし、芸術家としてのレオナルドの天賦の才は、誰の目にも明らかだった。当時の弟子たちは、親方の作品の模作品を売りさばいて給金の足しにしていたが、レオナルドの場合、オリジナル作品を凌駕してしまうため、それが親方たちの気分を害してしまった。
それまで工房内で随一の腕をもつと評価されていたペルジーノも、レオナルドに脅威を感じ、ライバル心を抱いている様子が、ヴェロッキオには伝わってきた。
ペルジーノがそうであれば、当然、ほかの弟子たちも同様だった。ただ、一四六七年にヴェロッキオと共同作業をするため、工房内に出入りしていたボッティチェリに対しては、レオナルドのほうが珍しく、彼の絵の才能に衝撃を受け、対抗心を抱いているようだった。
けれど、ボッティチェリはレオナルドより七歳年長であり、それだけの年齢差があれば技術的に差があるのは当然のこと。むしろヴェロッキオの目から見れば、すでに画家としてスタイルを確立しつつあるボッティチェリよりも、伸びしろの果てがわからない、無限の可能性を秘めているレオナルドのほうに興味を惹かれ、それがほかの弟子たちの嫉妬心を増長させると知りつつも、つい彼に対して甘く、誰よりも熱心に目をかけてしまうのだった。
そんな日々を送るなか、一四六八年一月十日、ヴェロッキオ工房の弟子たちを騒然とさせる出来事が起こった。
この日、フィレンツェ政府からレオナルドに対して、政庁舎シニョーリア宮殿にあるサン・ベルナルド礼拝堂に飾る祭壇画を描いて欲しい、との発注が寄せられた。このときレオナルドはまだ、聖ルカ組合から『マスター(親方)』の資格を与えられてなかった。それにも関わらずの抜擢だった。
三月十六日には、その手付金として、代金の一部となる二十五フィオーニが前払いされたのだが、これは当時の助手のおよそ一年分の給金に匹敵した。弟弟子のロレンツォ・ディ・クレディの月給が一フィオーニだったことを考えれば、レオナルドに向けられたほかの弟子たちの視線には、羨望だけではなく、もっと陰鬱な感情も含まれていたのではないか。
結局、この話は流れてしまったのだが、その二年後の一四七〇年に、ヴェロッキオが『トビアスと天使』という題名の祭壇画を着手する際、レオナルドをモデルに起用することに決めたために、またしてもほかの弟子たちの感情を逆撫ですることになった。
このテンペラ画は、『旧約聖書』外典の『トビト書』に記述されている、父親の盲目を癒すために旅に出たトビアスと、彼の道案内役として地上に降り立った大天使ラファエルの物語をモチーフとしていて、ヴェロッキオは後者のモデルとして、レオナルドに白羽の矢を立てたのだった。
レオナルドと対峙して、彼の姿形を事細かく観察し、描写していく工程は、ヴェロッキオにとって至福の時間となった。彼はこの愛弟子にモデルだけでなく、絵の一部を描く仕事も与えた。工房の顔であるヴェロッキオの作品に、僅かながらとはいえ、筆を入れる特権を得たという情報は、兄弟子たちの心証も悪くさせた。
しかし、ヴェロッキオはレオナルドを取り巻く空気は見て見ぬ振りをして、彼の才能に惚れ込み、まだ頭のなかにぼんやりと浮かべるだけの段階だが、やがて着手するであろう、キリストがヨハネにより洗礼を受ける場面を主題にした油彩画を、レオナルドと合作しよう、という計画を立てた。それが自身の才能の限界を思い知らされ、愛弟子に対して愛憎半ばする気持ちを抱くきっかけになろうとは、このときの彼には知る由もなかった。




