プロローグ
1466年某月某日。イタリア中部フィレンツェ共和国。
街中を流れるアルノ川の沿岸を歩いている途中、アンドレア・デル・ヴェロッキオはふと、自身の工房に今日、新たな弟子を迎え入れる手筈になっていることを思い出した。彼の法律紛争や賃貸契約をまとめる際、公証人を務めてくれたセル・ピエロという名の男の婚外子で、現在13、4歳になるレオナルドという名の少年。ヴェロッキオは以前、その少年が描いた素描をセル・ピエロに見せられ、才能を見抜き、弟子入りを勧めた。
セル・ピエロの事務所は工房のすぐ近くにあり、てっきりレオナルドも当地で暮らしているものだと思っていたのだが、アルノ川下流に位置する辺境の地ヴィンチ村で祖父母とともに暮らし、当地を愛しているがため、少年は都会に出てくることを躊躇していた。それが今日、意を決して上京するというのだ。
工房にはすでに数多くの弟子が働いているが、いまは国を挙げて、ギリシア・ローマ時代の文化を復興させようとする文化運動『ルネサンス』華やかなりしとき。街を統括するメディチ家からの依頼が押し寄せ、猫の手も借りたいほどに忙しいため、ヴェロッキオにとっては渡りに船の話だった。
街の中央に聳えるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の脇に建つジョットの鐘楼の鐘の音が、街中に11時半の時刻を告げる。レオナルドが到着するのは昼頃だったはずだ。ヴェロッキオは心もち足を速めた。
やがて工房へ辿り着き、跳ね上げ式の木の板が開放された入り口を通り抜けて作業場に入ると、そこには祭壇画や彫刻、楽器や武器馬具、メディチ家から修理を頼まれた家具など、美術品や調度品が所狭しと並べられ、それぞれ弟子たちが作業に没頭していた。なかには代書を執筆している者もいる。
――これでは工房というより〝なんでも屋〟だな。
ヴェロッキオは内心で苦笑しながら、ふと目が合った、ペルージャ出身のためにペルジーノという愛称で親しまれるピエトロ・ヴァンヌッチという名の弟子に声をかけた。
「ペルジーノ、ヴィンチ村から新弟子が来ることになっているが、まだ顔を見せてないか?」
「ついさっき見えました。奥の作業場へ案内してあります」
奥の作業場には、前年に商事裁判所からブロンズ像を制作するよう発注された〈聖トマスの懐疑〉の粘土原型が置いてある。復活したキリストに対し、懐疑的な使徒トマスが、磔刑の際に槍で刺されてできた脇腹の傷口に指を刺し入れる場面を表した作品。彫刻を最も得意とするヴェロッキオが、現在最も心血を注ぐ作品を目に触れさせてあげよう、というペルジーノなりの気遣いらしい。
「そうか、ありがとう」
「あの、先生」
「ん、なにか?」
「……あ、いえ、なんでもありません」
ペルジーノは一瞬、奥へ視線を向けると、唇を軽く噛み、脳内からなにかを追い出すように頭を振り、絵筆を手に取って作業に戻った。が、集中しきれずにいる様子だ。その原因はレオナルドにあるらしい。弟子のなかでも油彩画において群を抜く実力を持ち、観察力も秀でているペルジーノが、集中力を奪われるほど気になる存在。どうやらレオナルドという少年にはそんな魅力があるらしい。
周囲に目を配れば、ほかの弟子たちもそわそわした様子を見せていた。ヴェロッキオは急に、レオナルドとの対面が楽しみになり、作業場の奥へと急いだ。
ほかの雑務に翻弄され、右側に立つキリストも、左側に立つ聖トマスも、どちらの粘土原型もまだ、ほとんど形を成してない。いわば大きな粘土の塊が二つ。その前に佇む少年の姿を見た瞬間、ヴェロッキオは思わず立ち止まり、息を呑んだ。窓から注ぐ陽の光に照らされた、金色の巻き毛をした華奢な少年の姿はあまりにも神々しかった。これまで何度も宗教画に描いてきた天使。あるいは芸術の精霊が地上に舞い降りたのだと、ヴェロッキオは一瞬、本気で疑った。
しかし、ヴェロッキオの背後から聞こえてきた、誰かのくしゃみの音によって振り返り、
「ヴェロッキオ先生ですか?」
少年が甲高くも穏やかな調子で声を発した途端、彼が生身の人間であることにヴェロッキオは気づいた。しかし、
「そうだ。お待たせしたね」
と返した自分の声が上ずっていることに、ヴェロッキオは驚嘆した。メディチ家の先代コジモや、現在の統治者であるピエロと接するときにも緊張しない自分が、17歳も年下の田舎から出てきたばかりの少年に気おくれするなんて……。
ヴェロッキオの心中など知る由もなく、少年は軽やかな足取りで彼に近寄ってきて、
「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチといいます。今日からお世話になります」
礼儀正しく腰を折り、顔を上げると、そこには無邪気な笑みが広がっていた。ヴェロッキオは、心臓がドクンと激しく脈打つのを感じた。この少年には、天使と悪魔が混在している。そう直感したからだ。ペルジーノの様子がおかしかったのも、恐らく、おなじ感想を抱いたからなのだろう。ヴェロッキオはそのことに気づいた。
「先生。一つ質問をしてもいいですか?」
レオナルドは、旧知の友人にでも接するような軽い調子でそう口にすると、ヴェロッキオが返事をするのも待たず、粘土原型のほうを振り返って指差した。
「あの大きさのブロンズ像となると、運ぶのは相当に大変だと思うのですが、どうやってここから運び出すのですか?」
素朴な疑問に、ヴェロッキオはようやく本来のペースを取り戻した。
「確かに大きいが、ブロンズ像の中身は空洞だから、見た目ほどの重量はないんだ」
なるほど、とレオナルドは納得するや否や、すぐに別の質問を繰り出し、ヴェロッキオが答えると、すぐさま次の疑問点を口にする。そんなやりとりがしばらく続いた。ヴェロッキオは、レオナルドが好奇心旺盛な少年であると同時に、どこか落ち着きがなく注意散漫なところがあることに気づいた。その点も、これまでに迎え入れてきた弟子とはどこか雰囲気が異なった。
「わかりました。ありがとうございます」
すべての謎が解けて満足したのか、レオナルドはヴェロッキオに左手を差し出してきた。
「田舎育ちで、これまで独学で絵を描いてきたため、美術に関する知識はまるでありません。これからご指導、よろしくお願いします」
「こちらこそ。私だけでなく兄弟子たちからも謙虚によく学ぶように」
レオナルドの手を握り返し、満面に浮かべた笑みを間近で見た瞬間、ヴェロッキオはこの美少年を、ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチが以前からそれとなく所望する、ダヴィデ像のモデルにうってつけだという天啓を受けた。
と同時に、レオナルドの存在が、上下関係の厳しくない家族的な工房の雰囲気を壊すのではないか、という危惧の念も抱いた。人間関係を破壊する元凶である〝嫉妬心〟。その感情を他者に掻き立たせる天賦の才能が、この少年には備わっている。そんな予感を抱きつつ、ヴェロッキオは、すこし力を加えれば折れてしまいそうな、レオナルドの細い指からそっと手を離した。