祈りと非情なゼロサムゲーム
全体的にネガティブ調です。
僕には決まったルーティンがある。
好きな悲壮曲を聞き、黙祷するルーティンだ。
今日も世界では大切な命が削られ失われていく。
その中でのうのうと生きる僕ら。
それらへのせめてもの償い。
自分が祈ることで、何かが変わるのではないか、という淡い希望。
そのはずだった。
それとは反して、進行するメンタルの強迫観念的な病。
変わらぬ日常。
当たらぬ宝くじ。
少なくともエンターテイメント的な意味合いでは、娯楽を世の中に提供してきて、世の人々に尽くしてきたつもりだった。
結果的には自分には幸運は降りてこない。
あるときから、黙祷をやめてしまった。
そうすると病気が少し楽になった。
小さいくじ引きにも当たるようになった。
何が言いたいのか、正直自分でも完全に整理はついていない
。
ただ、本質的に言えば、自分は自分に利益が返ってくることを期待して、人知れず祈りをしていた。
何か自分は尊大な存在なのではないか、という期待の元で行っていた、浅ましい程度の低い祈り。
もっと祈りとは、自己犠牲からなる、他者利益に繋がる行為ではなかったのか。
前の自分は祈りについては、お互いがWin-Winに繋がる尊い行為だと思っていた。
しかしながら、今の自分にとっては、逆効果だったと思わざるを得ない。
ただ他者に対して、祈りを捧げることで、自分の命が助かるのではないか、無惨に死ぬことはないのではないか。
こんなにいたいけに尽くす、自分は救われても良いんじゃないか。
そんな醜い自尊心の中で、祈りを捧げていた。
結果的には祈りとは、自身の幸運や健康を、見ず知らずの人に捧げる行為なのかもしれない、という浅ましい結論に至ってしまう。
自分が祈ろうが、祈ろなかろうが、世界は今日も回る。
非情に回る。
祈らなくても今日も僕は事故に遭わないし、事故に遭うときは遭う。
世の中には自分よりも信心深い人達は沢山いる。
その中で中途半端な祈りに対して、神様は何を与えられるのだろう。
自分がいてもいなくなっても変わらず世界は回るのだろう。
祈りが自分を犠牲にした、非情なゼロサムな行為だったとして…
あなたはそれでも祈りますか?
※用語解説(Wikipedia先生と自分の解釈)
ゼロサムゲーム→複数の人が相互に影響しあう状況の中で、全員の利得の総和が常にゼロになること、またはその状況を言う。
簡潔に言うと、誰かが得をすれば、誰かが損をする状況。
ただ、周りの目を気にして言うとすれば、たまに祈りを捧げるのも悪くないとは思う。
そして、いただきますとご馳走様の感謝の心は忘れない。
何だか無性にこの文章を書いていると、何の感情なのか、泣きたくなってきます。
この文章が救いなのか、絶望への一石なのかは、受け取るあなた次第。
出来るのであればポジティブに終わりたいが、世の中の人々はどうなんでしょうね。気になります