表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

祈りと非情なゼロサムゲーム

作者: 初心者

全体的にネガティブ調です。

僕には決まったルーティンがある。


好きな悲壮曲を聞き、黙祷するルーティンだ。

今日も世界では大切な命が削られ失われていく。


その中でのうのうと生きる僕ら。

それらへのせめてもの償い。

自分が祈ることで、何かが変わるのではないか、という淡い希望。


そのはずだった。



それとは反して、進行するメンタルの強迫観念的な病。

変わらぬ日常。


当たらぬ宝くじ。


少なくともエンターテイメント的な意味合いでは、娯楽を世の中に提供してきて、世の人々に尽くしてきたつもりだった。


結果的には自分には幸運は降りてこない。



あるときから、黙祷をやめてしまった。

そうすると病気が少し楽になった。

小さいくじ引きにも当たるようになった。


何が言いたいのか、正直自分でも完全に整理はついていない


ただ、本質的に言えば、自分は自分に利益が返ってくることを期待して、人知れず祈りをしていた。

何か自分は尊大な存在なのではないか、という期待の元で行っていた、浅ましい程度の低い祈り。


もっと祈りとは、自己犠牲からなる、他者利益に繋がる行為ではなかったのか。

前の自分は祈りについては、お互いがWin-Winに繋がる尊い行為だと思っていた。



しかしながら、今の自分にとっては、逆効果だったと思わざるを得ない。

ただ他者に対して、祈りを捧げることで、自分の命が助かるのではないか、無惨に死ぬことはないのではないか。

こんなにいたいけに尽くす、自分は救われても良いんじゃないか。


そんな醜い自尊心の中で、祈りを捧げていた。

結果的には祈りとは、自身の幸運や健康を、見ず知らずの人に捧げる行為なのかもしれない、という浅ましい結論に至ってしまう。


自分が祈ろうが、祈ろなかろうが、世界は今日も回る。

非情に回る。

祈らなくても今日も僕は事故に遭わないし、事故に遭うときは遭う。


世の中には自分よりも信心深い人達は沢山いる。

その中で中途半端な祈りに対して、神様は何を与えられるのだろう。


自分がいてもいなくなっても変わらず世界は回るのだろう。



祈りが自分を犠牲にした、非情なゼロサムな行為だったとして…




あなたはそれでも祈りますか?




※用語解説(Wikipedia先生と自分の解釈)

ゼロサムゲーム→複数の人が相互に影響しあう状況の中で、全員の利得の総和が常にゼロになること、またはその状況を言う。

簡潔に言うと、誰かが得をすれば、誰かが損をする状況。




ただ、周りの目を気にして言うとすれば、たまに祈りを捧げるのも悪くないとは思う。

そして、いただきますとご馳走様の感謝の心は忘れない。



何だか無性にこの文章を書いていると、何の感情なのか、泣きたくなってきます。



この文章が救いなのか、絶望への一石なのかは、受け取るあなた次第。

出来るのであればポジティブに終わりたいが、世の中の人々はどうなんでしょうね。気になります

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ