夏目漱石「こころ」下・先生と遺書四十「恋の恍惚と、自分が自分でなくなる恐怖」
「ある日私は久しぶりに学校の図書館に入りました。私は広い机の片隅で窓から射す光線を半身に受けながら、新着の外国雑誌を、あちらこちらと引っ繰り返して見ていました。私は担任教師から専攻の学科に関して、次の週までにある事項を調べて来いと命ぜられたのです。しかし私に必要な事柄がなかなか見付からないので、私は二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。最後に私はやっと自分に必要な論文を探し出して、一心にそれを読み出しました。①【すると突然幅の広い机の向う側から小さな声で私の名を呼ぶものがあります。私はふと眼を上げてそこに立っているKを見ました。Kはその上半身を机の上に折り曲げるようにして、彼の顔を私に近付けました。ご承知の通り図書館では他の人の邪魔になるような大きな声で話をする訳にゆかないのですから、Kのこの所作は誰でもやる普通の事なのですが、】私はその時に限って、一種変な心持がしました。
②【Kは低い声で勉強かと聞きました。私はちょっと調べものがあるのだと答えました。それでもKはまだその顔を私から放しません。同じ低い調子でいっしょに散歩をしないかというのです。私は少し待っていればしてもいいと答えました。彼は待っているといったまま、すぐ私の前の空席に腰をおろしました。すると私は気が散って急に雑誌が読めなくなりました。】何だかKの胸に一物があって、談判でもしに来られたように思われて仕方がないのです。私はやむをえず読みかけた雑誌を伏せて、立ち上がろうとしました。③【Kは落ち付き払ってもう済んだのかと聞きます。】私はどうでもいいのだと答えて、雑誌を返すと共に、Kと図書館を出ました。 (青空文庫より)
(以上の部分については、noteのマガジン「私のエッセイ」の、「夏目漱石「こころ」1~Kについて」で述べたので、そちらをご覧ください。恐れ入りますが、有料記事です)
「必要な論文を探し出して、一心にそれを読み出し」た先生のもとにやって来たKの様子に、先生は「その時に限って、一種変な心持が」する。お嬢さんへの恋愛問題をどう進めるつもりなのかについて、何度尋ねても答えを返さなかったKだったが、ここではそのKの方から先生に近づいてきた。なにか話があるようなそぶりから先生は、「何だかKの胸に一物があって、談判でもしに来られたように思われて仕方がない」。先生は当然、恋愛問題についてKが自分の考えを述べに来たのではないかと受け止めている。
「二人は別に行く所もなかったので、竜岡町から池端へ出て、上野の公園の中へ入りました。その時彼は例の事件について、突然向うから口を切りました。前後の様子を綜合して考えると、Kはそのために私をわざわざ散歩に引っ張り出したらしいのです。けれども彼の態度はまだ実際的の方面へ向ってちっとも進んでいませんでした。彼は私に向って、ただ漠然と、どう思うというのです。どう思うというのは、そうした恋愛の淵に陥った彼を、どんな眼で私が眺めるかという質問なのです。一言でいうと、彼は現在の自分について、私の批判を求めたいようなのです。そこに私は彼の平生と異なる点を確かに認める事ができたと思いました。たびたび繰り返すようですが、彼の天性は他の思わくを憚るほど弱くでき上ってはいなかったのです。こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです。養家事件でその特色を強く胸の裏に彫り付けられた私が、これは様子が違うと明らかに意識したのは当然の結果なのです。
私がKに向って、この際 何で私の批評が必要なのかと尋ねた時、彼はいつもにも似ない悄然とした口調で、自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいといいました。そうして迷っているから自分で自分が分らなくなってしまったので、私に公平な批評を求めるより外に仕方がないといいました。私は隙さず迷うという意味を聞き糺しました。彼は進んでいいか退いていいか、それに迷うのだと説明しました。私はすぐ一歩先へ出ました。そうして退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。すると彼の言葉がそこで不意に行き詰りました。彼はただ苦しいといっただけでした。実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼に都合のいい返事を、その渇き切った顔の上に慈雨の如く注いでやったか分りません。私はそのくらいの美しい同情をもって生れて来た人間と自分ながら信じています。しかしその時の私は違っていました。 (青空文庫より)
Kが先生を連れだした意図は、案の定、恋愛問題の相談だった。
「上野の公園」でKは、「例の事件について、突然向うから口を切」る。「Kはそのために私をわざわざ散歩に引っ張り出だしたらしい」。
以前先生は、奥さんとお嬢さんが一緒に外出でもしない限り、恋愛問題を落ち着いて話すことができないと言っていたが、ここでは大学近くの上野公園で話を始めている。これにより、以前の説明は、Kとの話し合いを回避するための言い訳だったということになる。
Kの「態度はまだ実際的の方面(奥さんかお嬢さんに告白する事)へ向ってちっとも進んで」いなかった。Kは先生に、「ただ漠然と、『どう思う』」と尋ねる。それは、「そうした恋愛の淵に陥った彼を、どんな眼で私が眺めるかという質問」のようだった。「現在の自分について、私の批判を求めたいような」Kの様子から先生は、「平生と異なる点を確かに認める事ができたと思」う。Kの「平生」・「天性」は、「他の思わくを憚るほど弱くでき上ってはいなかった」。「こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男」だ。だから先生が、「これは様子が違うと明らかに意識したのは当然の結果」だった。
「道」のために恋愛を完全否定していたK。他者の考え・意見など一顧だにせず、ひたすら我が道を進むK。それらKの「平生」・「天性」は消え去り、逆の方向へ進もうとしているかのようだ。K自身、そのような状態の自分を持て余している。自分をどう取り扱えばいいのかが分からない。それは、今までの自分の人生を否定することになるからだ。恋という初めての感情に戸惑うK。まるで自分が自分でないような、不安・浮遊した感覚。未知の感情。心・精神も、体・肉体も、何かの力によって、そっくり入れ替えられようとしている感覚。恋の恍惚と、自分が自分でなくなる恐怖。恋がこれほどまでに強力な力を持つとは、Kには想像もできなかった。
人は誰でも、初めての真剣な恋に迷う。さらに、これまでのKにとっては、恋そのものがいわば悪なのだ。だから、恋の肯定は、これまでの自分の否定となる。
どうすることもできないKは、恥を忍んで先生に相談する。「ただ漠然と、『どう思う』と」。
「私がKに向って」以降の部分について。
この部分の先生は卑怯だ。(大体において卑怯な人なのだが)
どういうことかというと、先生の話し方は、相手の考えを引き出し、主にその矛盾点を咎めるというやり方だからだ。つまり、相手の意見に対して自分の考えを言わない。さらには、もともとの自分自身の考えも決して言わない。相手の話の流れに乗り、自分の考えを隠して言わずに相手を非難する。これほど卑怯な話し方はない。心が弱って告白してきた友人の相談にまったく乗っていないだけでなく、ただただ批判するために話している。相談にも何もなっていない。
「この際 何で私の批評が必要なのかと尋ねた時、彼はいつもにも似ない悄然とした口調で、自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいといいました。そうして迷っているから自分で自分が分らなくなってしまったので、私に公平な批評を求めるより外に仕方がないといいました。」
あの独立独歩のKが、「いつもにも似ない悄然とした口調で、自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいといい」、「迷っているから自分で自分が分らなくなってしまったので、私に公平な批評を求めるより外に仕方がない」と言う。これは、完全に先生の前に首を垂れた言葉だ。「今の自分は完敗の状態にあるから、何とか助けてもらえないか」と、白旗を上げた様子。また、「今自分に頼ることができる存在は、君しかいない」とも言っている。
これまでKは、他者をバカにして生きてきた。先生もそのうちに入る。他者から学ぶことは何もない。自分で自分の道は切り開く。そのような強い意志をもって生きてきた。そんなKは今、バカにしてきた他者に頼らざるをえないほどの混乱の中にある。自分で自分がどうしようもない状態。自分がコントロールできなくなってしまった。それで、友人に助言を求めている。
これは先生にしてみれば、何をいまさらということでもある。今までは自分を軽視してきたくせに、自分が困った時だけ俺に頼るのかと思っても仕方がない。「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言ったのは、K自身だ。
そのような気持ちもあって、先生は鋭く追及する。
「私は隙さず迷うという意味を聞き糺しました。」
ただ、これは、完敗を認めている相手にとって、いじわるで酷な言葉だ。Kは今、混乱状態にある。
「彼は進んで(奥さんかお嬢さんに告白して)いいか退いて(恋をあきらめて)いいか、それに迷うのだと説明しました。」
「進」むは、奥さんかお嬢さんに告白すること。「退」くは、恋をあきらめること。そのどちらを選択すべきか「迷」っている。
それを受けて、先生は「すぐ一歩先へ出」る。「退こうと思えば退けるのかと彼に聞」く。自分のお嬢さんへの恋心は、相変わらず隠したままだ。
「すると彼の言葉がそこで不意に行き詰」る。Kは「ただ苦しいといっただけで」、「実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えて」いた。
先生の追及に、言葉が見つからない様子。
進むか退くかに迷って相談している相手に、「退こうと思えば退けるのか」と聞くのは、「相談」にならない。迷っているから・退けないから相談しているのだから。だから先生のこの言葉も、イジワルだ。答えが見つかっていない相手を追い詰める言葉だからだ。
先生はまた言い訳する。
「もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼に都合のいい返事(Kの恋を応援する言葉)を、その渇き切った顔の上に慈雨の如く注いでやった(たくさん言ってあげた)か分りません。私はそのくらいの美しい同情をもって生れて来た人間と自分ながら信じています。」と。
ここで先生が言いたいことは理解できる。友人よりも恋を取りたい気持ち。友人を応援するということは、自分の恋をあきらめるということだからだ。だがその説明に、「その渇き切った顔の上に慈雨の如く注いでやった」だろうとか、「私はそのくらいの美しい同情をもって生れて来た人間と自分ながら信じています」などと、仰々しく表現する人の気が知れない。このような誇張ともいえる比喩表現や、自分の「同情」心を、「美しい」とか「自分ながら信じています」と自賛する先生という人。
しかもここは、友人が困っている場面だ。なんとかそれを助けてあげたいという真率な感情が、先生の口からは吐露されるべきだ。それなのにこの麗々(れいれい)しい言葉の数々。違和感しか感じない。
先生はときどきカッコつける。それがとっても鼻につく。友人の危機に、カッコつける?
(文学であることは置いておいて)
また、この場面に至ってはなかなか言い出しにくいことではあるが、それでもやはり言うべきだ。「実は俺も彼女が好きなんだ」と。友達ならば。
「しかしその時の私は違っていました。」




