夏目漱石「こころ」下・先生と遺書三十九「先生:隠し立てをしてくれるな、すべて思った通りを話してくれ 読者:……」
「Ｋの生返事は翌日になっても、その翌日になっても、彼の態度によく現われていました。彼は自分から進んで例の問題に触れようとする気色を決して見せませんでした。もっとも機会もなかったのです。奥さんとお嬢さんが揃って一日 宅を空けでもしなければ、二人はゆっくり落ち付いて、そういう事を話し合う訳にも行かないのですから。私はそれをよく心得ていました。心得ていながら、変にいらいらし出すのです。その結果始めは向うから来るのを待つつもりで、暗に用意をしていた私が、折があったらこっちで口を切ろうと決心するようになったのです。
同時に私は黙って家のものの様子を観察して見ました。しかし奥さんの態度にもお嬢さんの素振にも、別に平生と変った点はありませんでした。Ｋの自白以前と自白以後とで、彼らの挙動にこれという差違が生じないならば、彼の自白は単に私だけに限られた自白で、肝心の本人にも、またその監督者たる奥さんにも、まだ通じていないのは慥かでした。そう考えた時私は少し安心しました。それで無理に機会を拵えて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の与えてくれるものを取り逃さないようにする方が好かろうと思って、例の問題にはしばらく手を着けずにそっとしておく事にしました。
こういってしまえば大変簡単に聞こえますが、そうした心の経過には、潮の満干と同じように、色々の高低があったのです。私はＫの動かない様子を見て、それにさまざまの意味を付け加えました。奥さんとお嬢さんの言語動作を観察して、二人の心がはたしてそこに現われている通りなのだろうかと疑ってもみました。そうして人間の胸の中に装置された複雑な器械が、時計の針のように、明瞭に偽りなく、盤上の数字を指し得るものだろうかと考えました。要するに私は同じ事をこうも取り、ああも取りした揚句、漸くここに落ち付いたものと思って下さい。更にむずかしくいえば、落ち付くなどという言葉は、この際決して使われた義理でなかったのかも知れません。
その内学校がまた始まりました。私たちは時間の同じ日には連れ立って宅を出ます。都合がよければ帰る時にもやはりいっしょに帰りました。外部から見たＫと私は、何にも前と違ったところがないように親しくなったのです。けれども腹の中では、各自に各自の事を勝手に考えていたに違いありません。ある日私は突然往来でＫに肉薄しました。私が第一に聞いたのは、この間の自白が私だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているかの点にあったのです。私のこれから取るべき態度は、この問いに対する彼の答え次第で極めなければならないと、私は思ったのです。すると彼は外の人にはまだ誰にも打ち明けていないと明言しました。私は事情が自分の推察通りだったので、内心 嬉しがりました。私はＫの私より横着なのをよく知っていました。彼の度胸にも敵わないという自覚があったのです。けれども一方ではまた妙に彼を信じていました。学資の事で養家を三年も欺いていた彼ですけれども、彼の信用は私に対して少しも損われていなかったのです。私はそれがためにかえって彼を信じ出したくらいです。だからいくら疑い深い私でも、明白な彼の答えを腹の中で否定する気は起りようがなかったのです。
私はまた彼に向って、彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。それが単なる自白に過ぎないのか、またはその自白についで、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。しかるに彼はそこになると、何にも答えません。黙って下を向いて歩き出します。私は彼に隠し立てをしてくれるな、すべて思った通りを話してくれと頼みました。彼は何も私に隠す必要はないと判然断言しました。しかし私の知ろうとする点には、一言の返事も与えないのです。私も往来だからわざわざ立ち留まって底まで突き留める訳にいきません。ついそれなりにしてしまいました。 (青空文庫より)
前夜、先生は、「今朝彼から聞いた事(お嬢さんへの好意)について、もっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこっちから切り出し」た。しかし、Kは、「翌日になっても、その翌日になっても」、「自分から進んで例の問題に触れようとする気色を決して見せ」ない。その理由として先生は、「奥さんとお嬢さんが揃って一日 宅を空けでもしなければ、二人はゆっくり落ち付いて、そういう事を話し合う訳にも行かない」ため、その「機会もなかった」と述べる。
しかし、「ゆっくり落ち付いて、そういう事を話し合う」場所は、下宿しかないのだろうか。大学の空き教室とか、公園のベンチとかではだめなのか。さらには下宿でも可能ではないか。「ゆっくり落ち着いて」話せば、その声が室外に漏れることはない。あるいは話すうちに気持ちが高ぶり、思わず声が大きくなることを想定したのか。
このあたりもやはり、対話を回避するための方便としか読めない。「奥さんとお嬢さんが揃って一日 宅を空け」ることは、めったにないのだから。先日の親子そろってのお出かけは、とても珍しい事だった。
この後結局ふたりは、「往来」と上野公園で話をする。
Kが話題に触れない消極性を一旦批判し、でもそれはそういう状況が整わなかったからだと慮る先生。この先生の様子に読者は、Kのせいだと批判したいのか、Kを擁護したいのか、どちらなのだと思うだろう。
二人で「ゆっくり落ち付いて」「話し合う」機会が得られないことを「よく」「心得ていながら」、先生は「変にいらいらし出す」。「その結果始めは向うから来るのを待つつもりで、暗に用意をしていた」が、「折があったらこっちで口を切ろうと決心するようになった」。
しかしこの「決心」は果たされない。行動化されないのだ。この後先生はあたりの状況を伺い、また「ぐるぐる」考える。
「折があったらこっちで口を切ろうと決心する」と「同時に」先生は、「黙って家のものの様子を観察して見」る。「しかし奥さんの態度にもお嬢さんの素振にも、別に平生と変った点は」見られない。「Ｋの自白以前と自白以後とで、彼らの挙動にこれという差違が生じないならば、彼の自白は単に私だけに限られた自白で、肝心の本人にも、またその監督者たる奥さんにも、まだ通じていないのは慥か」だと「考えた時」、先生は「少し安心」する。「それで無理に機会を拵えて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の与えてくれるものを取り逃さないようにする方が好かろうと思って、例の問題にはしばらく手を着けずにそっとしておく事に」する。
何かを理由にして結局行動せず、問題を先送りにする先生。言い訳ばかりの人生。それは、空ろなものとなるだろう。自分に都合のよい想像を根拠として、「例の問題にはしばらく手を着けずにそっとしておく」ことは、判断を保留にして何もしないということで、問題の解決にはつながらない。相手の出方と状況を見、まだ保留にしておいても大丈夫だろうと判断することは、一見慎重な態度にも見えるが、判断と行動の怠慢・放棄だ。これを「正常化バイアス」と言う。結局その方が楽なのだ。また、自分から行動した結果の失敗を恐れているだけなのだ。だから先生は動かない。いろいろ考えているようで、実は思考停止の状態にある。ここで先生の方から話す「機会を拵え」ることは、全く「無理」なことでも「わざとらし」いことでもない。
「自然の与えてくれるものを取り逃さないようにする方が好かろう」とは、もはや何を言っているのか分からない。ふたりでゆっくり話す環境を誰か・何かが調えてくれて、Kが自分の思いを自ら積極的に語ることを「自然」と言うなら、そのほうが「無理」で不自然なことだ。相手や環境が与えてくれれば、それは「取り逃がさない」。そうでなければ「そっとしておく」。ここでも先生は、他者依存の態度だ。つい前に示された、「折があったらこっちで口を切ろうと決心」は、いったいどこに消えてしまったのだろう。
先生は、「Ｋの動かない様子を見て、それにさまざまの意味を付け加え」る。「奥さんとお嬢さんの言語動作を観察して、二人の心がはたしてそこに現われている通りなのだろうかと疑ってもみ」る。「そうして人間の胸の中に装置された複雑な器械が、時計の針のように、明瞭に偽りなく、盤上の数字(態度、行動)を指し得るものだろうかと考え」る。
お嬢さんをめぐる恋愛問題について、まず先生は観察から始める。「Ｋの動かない様子」。「奥さんとお嬢さんの言語動作」。さらにはそれらの人物の態度や動作が、心をそのまま表しているのだろうかということを考える。「盤上の数字」である態度・行動が、「人間の胸の中に装置された複雑な器械」である心を、そのまま表しているかどうかについての疑義を抱きつつも、態度は心をそのまま表すと一旦信じ、三人の行動から推察して事態の急展開はないだろうという判断に「落ち付」く。自分は細かく観察し、慎重に考察した結果、まだ動かない方が「自然」だと判断したから行動しないのだと、長々しく説明・言い訳する先生。
「更にむずかしくいえば、落ち付くなどという言葉は、この際決して使われた義理でなかったのかも知れません。」の部分は無くても成立する。また、この内容を述べるとしても、「しかし、心から落ち着いたわけでもなかったのです」ぐらいでよい。なぜこのように「むずかしく」、「義理でなかったのかも知れません」などと言うのだろう？ カッコつけ？
「その内学校がまた始まりました。」
正月休み(冬休み)明けの日常が戻る。
「私たちは時間の同じ日には連れ立って宅を出ます。都合がよければ帰る時にもやはりいっしょに帰りました。」
この情報は、ここで初めて示される。一緒に登下校するのでは、まるで小学生のようだ。また、ふたりにこれほどの「親し」さがあるのであれば、もっと早くに示すべきだ。物語がだいぶ進んだこの場面で初めてこの情報に触れた読者は、少しの驚き・とまどいを感じる。これまで、心がすれ違う場面が多く描かれてきたふたりの、これほどの仲良さ。同じ下宿に住み、登下校もいっしょ。専門は違うようなので、大学の講義では別々だろうが、朝から晩までほとんど一緒にいる状態だと言ってもいいだろう。友人と言うよりも、兄弟や家族のような関係。
「外部から見たＫと私は、何にも前と違ったところがないように親しくなったのです。」
これは、若さの特権だろう。気まずくなった友人関係でも、少しの時の経過で(表面上は)回復する。
「ある日私は突然往来でＫに肉薄しました。私が第一に聞いたのは、この間の自白が私だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているかの点にあったのです。私のこれから取るべき態度は、この問いに対する彼の答え次第で極めなければならないと、私は思ったのです。」
「ある日私は突然往来でＫに肉薄しました」とあるので、読者は、いよいよ先生がKに、「自分もお嬢さんが好きだ」と言ったのかと思っただろう。しかし先生はただ、「この間の自白が私だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているか」を尋ねただけだった。これを「肉薄」と言う先生。大袈裟で、肩すかしが過ぎる。
「すると彼は外の人にはまだ誰にも打ち明けていないと明言しました。私は事情が自分の推察通りだったので、内心 嬉しがりました。」
「自分の推察通りだった」ことを、まるで誇るような言いぶり。Kが「外の人にはまだ誰にも打ち明けていない」ことは、問題の根本的解決になっていないにもかかわらず、「嬉しがる」先生。「内心」という語で保留はつけているが、場当たり的な対応であり、その場がとりあえず波風が立たなければよしとする態度。これは、後々、より大きな問題となってその人を襲うだろう。
「けれども一方ではまた妙に彼を信じていました。学資の事で養家を三年も欺いていた彼ですけれども、彼の信用は私に対して少しも損われていなかったのです。私はそれがためにかえって彼を信じ出したくらいです。だからいくら疑い深い私でも、明白な彼の答えを腹の中で否定する気は起りようがなかったのです。」
このご都合主義の態度。ここでも「妙に」という保留がつけられているが、「彼を信じて」いたと述べる。他者への信頼を失った先生が、唯一Kだけは「信用」した。ある意味Kへの一方的信頼。
「学資の事で養家を三年も欺いていた」Kであったが、Kの先生に対する「信用」は、「少しも損われていなかった」。「それがためにかえって彼を信じ出したくらいで」、「いくら疑い深い私でも、明白な彼の答えを腹の中で否定する気は起りようがなかった」。
この部分の論理展開は疑問だ。「学資の事で養家を三年も欺いていた」のは、Kが養家を信用していなかったためではない。だからそれを根拠に、先生への信頼は失われていなかったとするのは、論理がおかしい。
つまり、「Kは養家をだましたが、先生はだまさなかった」というのなら分かる。「Kは養家をだましたが、先生は信頼した」というのは意味が取れないし、Kは養家を信頼していないわけではない。
このように、わけの分からぬ論理を展開する先生。
Kの先生への「信用は」「少しも損われて」おらず、先生は「それがためにかえって彼を信じ出した」。
相互信頼が成立していたということ。
「だからいくら疑い深い私でも、明白な彼の答えを腹の中で否定する気は起りようがなかったのです。」
人は、自分が信頼している相手をだますことはないと、先生は考えている。
先生はさらに、「恋をどう取り扱う(これからどうする)つもりか」と尋ねる。「それが単なる(自分への)自白に過ぎないのか、またはその自白についで、実際的の効果をも収める(お嬢さんか奥さんに告白する)気なのかと」。しかしKは「何にも答え」ず、「黙って下を向いて歩き出」す。先生は、「隠し立てをしてくれるな、すべて思った通りを話してくれ」と頼む。Kは、「何も私に隠す必要はないと判然断言」する。「しかし私の知ろうとする点(お嬢さんか奥さんに告白する気なのか)には、一言の返事も与えない」。「私も往来だからわざわざ立ち留まって底まで突き留める訳に」はいかない。それで、「ついそれなりにしてしまいました」。
ここでも「つい」という保留がついているが、「それなりにしてしま」った理由が、「往来だから」というのは、理由になるのだろうか。「わざわざ立ち留まって底まで突き留める訳に」はいかないのであれば、場所を移してこの続きを話し合えばいい。それをしない先生。問題をうっちゃっておく。それも何度も。めんどくさいの？
以後、「放置プレイの匠」とお呼びします。
掃除をサボると汚部屋になる。換気しない風呂はカビがルンルンする。放置された問題は、肥大化する。
「隠し立てをしてくれるな、すべて思った通りを話してくれ」というセリフは、むしろKのセリフだ。自分は「隠し立て」をし、相手にはそれをするなと咎める。こんなセリフを友人に吐き、自己矛盾を恥じない先生。
叔父に裏切られ、自分は絶対にそんなことをしないと誓ったはずの先生は、いま、家族同然のKを裏切ろうとしている。お嬢さんへの恋というエゴが、この時の先生を盲目にしている。「平生」どんなにいい人でも、「いざという時」に、人格が変わる。エゴは他者を蹴落とす。
