下 先生と遺書 九
「一口でいうと、叔父は私の財産を胡魔化したのです。事は私が東京へ出ている三年の間に容易く行われたのです。すべてを叔父 任せにして平気でいた私は、世間的にいえば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる尊い男とでもいえましょうか。私はその時の己れを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が口惜しくって堪りません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は塵に汚れた後の私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう。
もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでしたろうか。これは考えるまでもない事と思います。叔父は策略で娘を私に押し付けようとしたのです。好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑た利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたのです。私は従妹いとこを愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それを断ったのが私には多少の愉快になると思います。胡魔化されるのはどっちにしても同じでしょうけれども、載せられ方からいえば、従妹を貰わない方が、向うの思い通りにならないという点から見て、少しは私の我が通った事になるのですから。しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細な事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ馬鹿気た意地に見えるでしょう。
私と叔父の間に他の親戚のものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していませんでした。信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。私は叔父が私を欺いたと覚ると共に、他のものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。父があれだけ賞め抜いていた叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理でした。
それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切のものを纏めてくれました。それは金額に見積ると、私の予期より遥かに少ないものでした。私としては黙ってそれを受け取るか、でなければ叔父を相手取って公沙汰にするか、二つの方法しかなかったのです。私は憤りました。また迷いました。訴訟にすると落着までに長い時間のかかる事も恐れました。私は修業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の結果、市におる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の形に変えようとしました。旧友は止した方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く故郷を離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう。
私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経った後の事です。田舎で畠地などを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないものでした。自白すると、私の財産は自分が懐にして家を出た若干の公債と、後からこの友人に送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては固より非常に減っていたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学生生活が私を思いも寄らない境遇に陥し入れたのです。(青空文庫より)
叔父の裏切り。
一口でいうと、叔父は私の財産を胡魔化したのです。事は私が東京へ出ている三年の間に容易く行われたのです。
叔父は、先生が上京した時からすでに、遺産の「誤魔化し」を始め、それが3年間にわたったということ。
それに対する先生の後悔。
「すべてを叔父 任せにして平気でいた私は」、「本当の馬鹿」であり、一方では、「純なる尊い男」だった。「私はその時の己れを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が口惜しくって堪りません」。「鷹揚」に生まれ育った先生の慚愧に堪えない真情が吐露される。
青年は、「先生」と自分を慕うが、自分は、「塵に汚れた後の私」であり、「きたなくなった年数の多い」存在だ。
叔父は策略で娘を私に押し付けようとしたのです。好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑た利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたのです。
叔父が娘との結婚を強力に進めようとした事情を、先生が推察した言葉。また、これに対して先生のいわば一矢報いた心情が、次のように説明される。
後から考えてみると、それを断ったのが私には多少の愉快になると思います。胡魔化されるのはどっちにしても同じでしょうけれども、載せられ方からいえば、従妹を貰わない方が、向うの思い通りにならないという点から見て、少しは私の我が通った事になるのですから。
父の遺産を巡って衝突した「私と叔父の間に他の親戚のものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していませんでした。信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。」
先生は、親戚の仲介者にも鋭い不信の目を向ける。
「私は叔父が私を欺いたと覚ると共に、他のものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。父があれだけ賞め抜いていた叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理でした。」
もう二度と騙されないぞという強い気持ち。先生は、完全なる人間不信に陥っている。
これはしかし、仕方がないことなのだろう。かつては自分をサポートしてくれ、東京の高校に入る世話をしてくれた叔父。尊敬や信頼の気持ちを抱いていた相手。完全に信用していたその相手が、まさかの裏切り。叔父は親切な人だったのではなく、エゴの塊だった。自分の利益のために、父親が残してくれた大切な財産を使い込んでいた。それをごまかすために、自分の娘との結婚まで謀っていた。
いい人から極悪人への転落、激しい落差。それだけに、先生のショックは大きい。
先生は、叔父が欺いたと同じように、「他のものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰め」る。そうしてそれが、先生の「論理」にまでなってしまう。自分を裏切った叔父への拒否感・憎悪という感情が、「人間は必ず欺く」という「論理・ロジック」(思考・概念)になっていた。つまり、一時の感情なのではなく、先生の思想になってしまった。叔父の罪は重い。
・それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切のものを纏めてくれました。それは金額に見積ると、私の予期より遥かに少ないものでした。
・自白すると、私の財産は自分が懐にして家を出た若干の公債と、後からこの友人に送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては固より非常に減っていたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。
先生の父親が残してくれた財産はどれくらいだったのか。それについては、別のエッセイに詳しくまとめてあるので、そちらをご覧いただきたい。
簡単にまとめると、
現在、地方の大学生が東京の4年制大学を受験し卒業するまでに、学費・生活費その他を合わせて約1000万円=年250万円かかる。「それから出る利子の半分も使えませんでした」とあるから、利息は年500万円以上。この時代の公債と預金の利息は年5%(5分)程度だったようなので、これで計算すると、先生の財産は、現在の価値に換算すると1億円以上ということになる。
また、大学卒業後も先生は働いていないので、そのあたりも勘案すると、少なくとも数億円程度は、父の遺産として残ったのだろう。
現在、サラリーマンの生涯年収は、2億7千万円程度と言われるので、これにも合致している。
余談だが、先生の学生時代及び一家を構えてからの生活は、その費用として明治時代の大変高い金利によって支えられていたともいえる。
この数億円が、「金額に見積ると、私の予期より遥かに少ないもので」あり、「親の遺産としては固より非常に減っていたに相違ありません」とあるから、もともとあった財産は、ケタが一つか二つ違っていただろう。新潟という地方の大変な財産家ということになる。
これだけあれば、叔父がその中から多少の金を工面してもいいだろう・ばれないだろう、と思うのも、少し分かるような気もする。だから、一つの方法として、せめて事前に先生に相談するべきだった。それが最低限のルールだ。そうすれば先生も、自分に良くしてくれた叔父のために、傾きかけた事業の立て直し費用として、多少の金を提供したかもしれない。叔父が真に良い人だったら、先生は用立てただろうと思われる。
そう考えると、やはり叔父は、金に目がくらんだのだ。もしかしたら、もともとはいい人だったのかもしれない。先生を上京させ、高校に入れてあげた。しかし、大金を前にして、自分の事業の失敗の補填にこれを使おうとか、愛人を囲ってその費用にしようとか、選挙資金にしようとかの、さまざまな欲・エゴが生じてしまった。しかもコッソリと先生に黙ってである。他人の金だが、その管理は自分に任されている。ちょっと使ってもバレないや。もう少し使おう。まだまだたくさんあるのだから。と、どんどん使ってしまったのだろう。
これは、あれですね。他人の金だから、次から次へと使ってしまったのですね。自分の金だったら、セーブがかかったかも。叔父は、他人の遺産という甘い汁の中に、ズブスブと沈んで行ってしまったのですね。
私は永く故郷を離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう。
「永く故郷を離れる決心」の原因・理由は、「叔父の顔を見まいと心のうちで誓った」からだった。その顔を二度と見たくないほどの忌避感・嫌悪感。叔父一家(その他の親戚)との決別。自分をあたたかく包んでくれていたはずの故郷との決別。それは一方で、亡くなった父母との決別にもつながってしまう。故郷の新潟には、父母の墓がある。故郷には二度と帰らないということは、もうその墓前に参ることがかなわないということも意味する。先生には、苦渋の選択だったろう。
しかし先生は、それでもやはり故郷には帰らないということを決意する。そのため、「国を立つ前に、また父と母の墓へ参」る。そうして、「それぎりその墓を見た事が」なしい、「もう永久に見る機会も来ないでしょう」と述べる。
愛する父母との真の永遠の別れの悲しみを、叔父一家に対する憎悪が越えたのだった。その土地には二度と行きたくないという嫌悪感が、父母を弔う気持ちよりも強い。先生の、後悔、苦悩は、深く悲しい。
この余裕ある私の学生生活が私を思いも寄らない境遇に陥し入れたのです。
これは、金銭的に多少の余裕ができ、また、気分を一新しようとした先生が、それまでの貧乏下宿から、軍人の未亡人が営む素人下宿へ転居したことを表す。そうして先生はそこでお嬢さんと出会い、Kを引き取り、Kがお嬢さんに恋をし、自分の裏切りによってKが自殺するという一連の流れがこの後続く。
この部分の表現を素直に受け取ると、「余裕」つまり「金」があることによって、叔父に騙されるばかりでなく、親友を失い、その罪に苦悩するという結果に陥ってしまったこと・運命を恨んでいるように読める。「金」があったばっかりに、次々と不幸に見舞われてしまった。そうして苦悩は現在も続き、自分まで滅ぼそうとしている、という苦いつぶやき。
金は人を変え、人を困難に陥れるもととなる。