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上 先生と私 六

私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数が重なるにつれて、私はますます(しげ)く先生の玄関へ足を運んだ。

 けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶をした時も、懇意になったその後も、あまり変りはなかった。先生は何時(いつも)静かであった。ある時は静か過ぎて淋しいくらいであった。私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿げていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた(うれ)しく思っている。人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の(ふところ)()ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。

 今いった通り先生は始終静かであった。落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。窓に黒い鳥影が射すように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。私が始めてその曇りを先生の眉間(みけん)に認めたのは、雑司ヶ(ぞうしがや)の墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であった。私はその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。しかしそれは単に一時の結滞(けったい)に過ぎなかった。私の心は五分と()たないうちに平素の弾力を回復した。私はそれぎり暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、小春の尽きるに()のない()る晩の事であった。

 先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた銀杏(いちょう)大樹(たいじゅ)()の前に(おも)い浮かべた。勘定してみると、先生が毎月例(まいげつれい)として墓参に行く日が、それからちょうど三日目に当っていた。その三日目は私の課業が(ひる)で終える楽な日であった。私は先生に向かってこういった。

「先生雑司ヶ谷の銀杏はもう散ってしまったでしょうか」

「まだ空坊主(からぼうず)にはならないでしょう」

 先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてそこからしばし眼を離さなかった。私はすぐいった。

「今度お墓参(はかまいり)にいらっしゃる時にお(とも)をしても()ござんすか。私は先生といっしょにあすこいらが散歩してみたい」

「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」

「しかしついでに散歩をなすったらちょうど()いじゃありませんか」

 先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」といって、どこまでも墓参(ぼさん)と散歩を切り離そうとする(ふう)に見えた。私と行きたくない口実だか何だか、私にはその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。私はなおと先へ出る気になった。

「じゃお墓参りでも()いからいっしょに()れて行って下さい。私もお墓参りをしますから」

 実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生の眉がちょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪とも畏怖とも片付けられない(かす)かな不安らしいものであった。私は(たちま)ち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思い起した。二つの表情は全く同じだったのである。

「私は」と先生がいった。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、(ひと)といっしょにあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分の(さい)さえまだ伴れて行った事がないのです」 (青空文庫より)




「私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数が重なるにつれて、私はますます繁く先生の玄関へ足を運んだ。」

青年にとって先生は、在宅している存在となる。以前のようなはぐらかしはない。先生の謎、魅力にひかれる青年。二人の交際の濃度は濃くなる。


「けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶をした時も、懇意になったその後も、あまり変りはなかった。先生は何時も静かであった。ある時は静か過ぎて淋しいくらいであった。」

先生は基本的に「静か」な存在として設定される。奥さんも「静」という名なので、この夫婦は世間に対しひっそりと暮らしている存在である。生命力あふれる青年にとっては、「静か過ぎて淋しいくらいであった」。


「私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。」

以前、どこかで会ったことのある親しみ。「どうしても近づかなければいられないという感じ」が「強く働く」先生の存在。と同時に、先生からは「近づきがたい不思議」が漂う。近づけるのか。近づいてはいけないのか。そういう不思議を青年に感じさせるのが、先生だった。


「こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿げていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉しく思っている。」

先生には皆の学ぶべき尊い過去があったこと。それを見通し予感したのは自分だけだったこと。そのことを誇らしく思う青年。


「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。」

先生は奥さんを愛し(信仰に近い愛)、ある意味で青年も愛し(自分の苦い経験を次代に伝え実践する存在)、しかしその愛を自己表現として実践することに戸惑いためらう。


「「私は」と先生がいった。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、他といっしょにあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分の妻さえまだ伴れて行った事がないのです」」

静は、Kの墓参りをまったくしたことがないのか、先生と一緒には行ったことがないのか、どちらにも取れる表現だが、静が墓参りにまったく行ったことがないとすると、自分の下宿に同居していた学生の死後、一度も墓参しないことは普通だろうか? 決して疎遠な関係ではなかったKを弔わないということがあるだろうか? 静が墓参りを希望したとして、一緒に連れて行くことを拒絶する夫への不審は生じなかったのだろうか? たった一人で死んだ友人の墓参りをする夫。しかも何年も経っているのに毎月欠かさず行っている。静は夫を、友情に篤い人だと思っているのか? それとも、何かしらの疑問を持っているのか? あるいはそのようなことにこだわらない人なのか?

「こころ」は、青年と先生の目から見てとらえた静の姿しか描かれていないので、静自身が本当はどう思っているのかがわからない部分が多い。漱石の描く女性たちは、一般的に皆そうなのだが。


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