表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/110

上 先生と私 十九

 始め私は理解のある女性(にょしょう)として奥さんに対していた。私がその気で話しているうちに、奥さんの様子が次第に変って来た。奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の心臓(ハート)を動かし始めた。自分と夫の間には何の(わだかま)りもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに眼を()けて見極(みきわ)めようとすると、やはり(なん)にもない。奥さんの苦にする要点はここにあった。

 奥さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的(えんせいてき)だから、その結果として自分も嫌われているのだと断言した。そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。底を割ると、かえってその逆を考えていた。先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中まで(いや)になったのだろうと推測していた。けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。先生の態度はどこまでも良人(おっと)らしかった。親切で優しかった。疑いの(かたまり)をその日その日の情合(じょうあい)で包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。

「あなたどう思って?」と聞いた。「私からああなったのか、それともあなたのいう人世観(じんせいかん)とか何とかいうものから、ああなったのか。隠さずいって頂戴(ちょうだい)

 私は何も隠す気はなかった。けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答えが何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。そうして私はそこに私の知らないあるものがあると信じていた。

「私には(わか)りません」

 奥さんは予期の(はず)れた時に見る(あわ)れな表情をその咄嗟(とっさ)に現わした。私はすぐ私の言葉を継ぎ足した。

「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通りを奥さんに伝えるだけです。先生は(うそ)()かない(かた)でしょう」

 奥さんは何とも答えなかった。しばらくしてからこういった。

「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」

「先生がああいう風ふうになった源因(げんいん)についてですか」

「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれるんですが、……」

「どんな事ですか」

 奥さんはいい渋って(ひざ)の上に置いた自分の手を眺めていた。

「あなた判断して下すって。いうから」

「私にできる判断ならやります」

「みんなはいえないのよ。みんないうと(しか)られるから。叱られないところだけよ」

 私は緊張して唾液(つばき)()み込んだ。

「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の()いお友達が一人あったのよ。その方がちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」

 奥さんは私の耳に私語(ささや)くような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうして」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。

「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから(のち)なんです。先生の性質が段々変って来たのは。なぜその(かた)が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれどもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」

「その人の墓ですか、雑司ヶ(ぞうしがや)にあるのは」

「それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか。私はそれが知りたくって(たま)らないんです。だからそこを一つあなたに判断して頂きたいと思うの」

 私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。(青空文庫より)



真剣な話の場面で恐縮なのだが、奥さんの、「あなた判断して下すって。いうから」や、「みんなはいえないのよ。みんないうと(しか)られるから。叱られないところだけよ」が、とてもかわいい。これは男性は心惹かれてしまうだろう。もし奥さんが自然とこのような言葉・態度・表情の人だとすると、Kや先生が魅かれたのもうなずける。真剣な場面だからこそ、一層そこが浮かび上がるのかもしれないが。漱石さんの力量ですね。


本題に戻ると、奥さんと青年の会話は、その過程で、「頭脳」(思考)から「心臓(ハート)」(感情)に移ってきた。先生について、頭で考えるのではなく、心で感じた会話となっている。二人は互いの言葉により、「こころ」が「動」き「始め」る。ふたりはこころでこころを伝え合う。


この場面の会話により、奥さんと青年の心が通じ合うとともに、何か共通の秘密を持ったような関係に、ふたりはなる。先生は知らない(けど先生が主人公の)、二人だけの仲間意識、先生の秘密を二人で解明しようという秘密の共有化。人と人とは、こうして心を通い合わせるのだということがとてもよく分かる場面だ。

さらに、会話の流れにより物語の核心に少しだけ近づくという業を、漱石は示している。テクニシャンである。文豪の名にふさわしい。

とても自然な、なんてことない会話の場面なのだが、そういうことを強く感じさせられる回だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ