表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/110

上 先生と私 十一

その時の私はすでに大学生であった。始めて先生の(うち)へ来た頃から見るとずっと成人した気でいた。奥さんとも大分懇意になった後であった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかった。差向(さしむか)いで色々の話をした。しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。しかしそれを話す前に、ちょっと断っておきたい事がある。

 先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるという事は、東京へ帰って少し経ってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った。

 先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密切の関係をもっている私より外に敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常に惜しい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を利いては済まない」と答えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが謙遜過ぎてかえって世間を冷評するようにも聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼(だれかれ)を捉らえて、ひどく無遠慮な批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々(うんぬん)してみた。私の精神は反抗の意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解からなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気が出なかった。

 私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。

「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」

「あの人は駄目ですよ。そういう事が嫌いなんですから」

「つまり下らない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」

「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」

「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」

「丈夫ですとも。何にも持病はありません」

「それでなぜ活動ができないんでしょう」

「それが解らないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」

 奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方がむしろ真面目だった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したようにまた口を開いた。

「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまったんです」

「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。

「書生時代よ」

「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」

 奥さんは急に薄赤い顔をした。

(青空文庫より)



ここでの青年と奥さんのやり取りはとても自然で、「大分懇意にな」り、「奥さんに対して何の窮屈も感じな」いようすがよく出ている。


(私が言うのもなんだが、奥さんと青年の関係性や、ふたりが先生をどう思っているのかが、とても自然に描かれている。こういう静かな、ある意味動きのない場面なのだけれど、それらがさりげなく表現されているところに、漱石さんのすばらしさを感じる。)


大学生になった青年は、先生が「まるで世間に名前を知られていない」ことを「常に惜しい」と感じている。外部との交渉を持たない「先生の学問や思想については、先生と密切の関係をもっている私より外に敬意を払うもののあるべきはずがなかった」のが、先生が世に知られない理由だが、青年は先生を敬愛し、その社会への働きかけを当然のことだと思っている。だから、それがかなわないことが、青年にとって「惜しい」と感じられる。「世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。」

これは奥さんも同様で、「やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」と述べている。

青年が「なぜ活動ができないんでしょう」と尋ねると、奥さんは「それが解らないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」と、夫に対する「非常」な「同情」を「微笑」を交えてあらわす。

青年「の方がむしろ真面目」に、「むずかしい顔をして黙ってい」る。これは、奥さんはまじめではないという意味ではなくて、青年に対して自分の心配を述べる場面では、年長者としてはやはり冗談めかして言ったのであろう。つまり、奥さんも「真面目」に心配している。


「奥さんが急に思い出したようにまた口を開いた」ことにより、先生と奥さんは「書生時代から」知り合いだったことが青年にばれてしまう。「急に薄赤い顔を」する奥さん。まだ十分に女性の恥じらいや初々しさを持っていることがわかる場面だ。


また、「書生時代よ」というくだけた表現は、奥さんと青年がうちとけた間柄になっていることを示す。


青年と奥さんは、先生をとても心配している。先生は、自分の失敗を二人に打ち明け、懺悔し、そしてその後の人生を生きる道をなぜ選ばなかったのだろう。自死に至るさまざまな理由が先生の遺書には述べられているが、先生は一人ぼっちではない。青年と奥さんがいる。先生は二人の信頼を裏切って自殺したことが残念だ。そもそも、Kへの裏切りは、自死に値するものなのだろうか。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] おはようございます。 いや~、やっぱ、漱石先生の「こころ」いいっすわぁ・・・。 これをエッセイの題材に選んだ、作者様の文学的素養・・・センスも、スーパー・グレイト!! あたしゃ、よく…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ