72 信じてる自分の方が好きなので
「ま……」
今こそ、勇気とともに口に出せ!
行け、ルルベル!
「魔性先輩!」
わたしが真の名を呼んでしまったせいか、ファビウス先輩の雰囲気から魔性が抜けた。
いやべつに真の名とかじゃないのはわかってる。わかってるが、なぜか効果があった。ただの綺麗なひとになっちゃった……。面白いな、これ。
それから、その綺麗な顔が少しだけ歪んだ。たぶん、苦笑してる。ジェレンス先生にも再ヒット、再々ヒットしてたけど、本人にもけっこうヒットしてしまうようだ。べつにギャグのつもりで考えたわけじゃないけど……その方がより失礼か。失礼だな!
「……その呼びかたは、ずるいよ」
「すみません。でも、今の先輩、かなり魔性でしたよ」
「そう? 君には効果がないかもって危ぶんでたんだけどな。自信持ってもいい?」
効果はあると思うし自信も持ってくれてかまわないが、断れない筋の依頼でたらしこむのはやめてほしい。
「先輩、わたしはですね、恋人になったとか婚約したとかの理由で、一方的に尽くす女になるのは嫌なんですよ」
「……直接的だなぁ」
「つづけさせてもらっていいですか?」
どうぞ、とファビウス先輩は所作で示した。
婉曲な表現に馴染みがない庶民ですみませんね、では遠慮なく。いくぞ!
「先輩のことは、かっこいいと思ってます。ひょっとすると、恋とかしちゃうかもしれないですよ……」
ここで少しだけ、わたしの語調が弱くなってしまったことを白状しよう。だって、恋したことないから、よくわかんないしな!
でも、先輩に手を握られても誓約魔法が発動してない現実をみつめるとさ……これって第一歩くらいは踏み込んでるのかもしれないじゃん? 恋ってやつに。しかもファビウス先輩の場合、第一歩の先はもう坂を転がり落ちるしかないと思わなくない? わたしは思う。所詮、恋愛素人だから、識者の意見を乞いたいところだね!
「でも、それとこれとは話が別です。たとえ恋に落ちたとしても、先輩のためだけに生きるつもりはありませんよ」
「愛しいひとのためなら、なんでもしてあげたいとは思わないの?」
「魔王を封印してあげるじゃないですか。それで不足だとでもおっしゃるんですか?」
わたしにしか、できないことだ。やってやろうじゃん。
そう思えるのも、さっき不思議装置で悟りを開いた直後だからかもしれない。やらなきゃいけないって感覚は、ずっとあった。だけど、できるかどうかは自信がなかったはずなのに、今はわりと本気で思ってる。
やってやろうじゃん。
「僕のために?」
「自分を含めた、皆のためです。あっ、先輩もちゃんと含んでます」
「……それは、あんまり恋っぽくないなぁ」
「恋っぽさなんて、どうでもよくないですか。魔王さえ封印できれば。……でも、もし、先輩ひとりのためにそれをするんだとしたら、先輩はその見返りになにをしてくださるんですか? 婚約ですか。結婚ですか。そんなの糞食らえですよ」
あっ。上品さが完全に失われた発言をしてしまった!
「……そんな風にいわれたのは、はじめてだな」
「だって先輩、考えてもみてください。先輩と婚約だか結婚だかをするって、上流階級で生きるってことじゃないですか。無理ですよ、そんなの。まだ魔王を封印する方が現実的です」
わたしが断言すると、ファビウス先輩は少したじろいだようだった。
「え、そこまで?」
「そこまでです。わたしは下町のパン屋の娘なんですよ。べつにパン屋を継ぐ予定はないですけど、知ってるのはパンのことだけです。最近ちょっと魔法も勉強してますけど……わずか数日の知識ですよ? 残りはぜんぶパンです。パン! そんな人間が、いきなり上流階級になんて。無理です、絶対」
「婚約が駄目なら、愛人は?」
「……本気でおっしゃってます?」
あっ、我ながら声の温度が低い……。
ファビウス先輩は苦笑して、わたしの手をはなした。
「ごめんね。今のは冗談。でもルルベル、魔王を封印したら、地位と名誉は当然与えられる。自動的に、君も上流階級入りだ。皆が君に声をかける。仲の良いふりをしたがる。ふりだけじゃ拘束力がないから、もっと直接的な手段も使うだろう。その上、金銭とか。財宝とか。あるいは脅迫なんて手法が選ばれることもあるかもしれない」
……やっぱり呪符魔法の達人にはなる必要がある、という決意を固めざるを得ないね!
あと、エルフ校長と交渉しておくべきかも。魔王封印までは、皆の力を借りる必要もあるだろうし、姿を消さない方が得策だとして――ことが終わったら、すみやかに隠遁すべきじゃない?
そうだよ。これだ! 後ろ盾とかどうでもいいよ、逃亡して隠れ住もう!
「それはそれ、これはこれです。わたし、腹が立ってるんですよ。だって舐めた話じゃないですか。ローデンス殿下にしても、ファビウス先輩にしてもですよ? ちょっと顔がいいからって――あ、いやすみません、すごく顔がよくてかっこいいからって、わたしがそれだけでコロッといって、一生お仕えしますみたいな感じになると思われてるんだとしたら、ほんっと……舐められてますよね」
「僕は君のことを舐めてはいないけど」
「冗談にしても愛人だなんて口走るあたり、馬鹿にしてらっしゃると思います」
ぴしゃりというと、ファビウス先輩は困ったような顔になった。
まぁね……上流階級ならそんなに悪くないポジションなのは知ってるよ。愛人って立場に、それなりにパワーがあるんだろうな、ってくらいのことは知識としてある。なんでそんなの知ってるかって、上流のかたがたのゴシップ記事って、下町では人気あるからだ。たぶん、フィクションとして消費されてるんだけど。エンターテインメントだね!
前世知識が補強された今、そうした愛人の一部は政治を動かすことを志した野心的な女性なんじゃないか……と思う。公職を占めてるのって、基本的に男性だから。例外は王室くらい。女性が権力を握りたければ、王侯貴族の愛人になるしかないし、ある程度はそれが認められてるってわけ。上流階級ではね。
でも平民の世界で愛人っていったら、そりゃもう肩身が狭いわけよ。表通りを歩けない感じよ。知られたが最後、下町八分よ。
「それはほんとに、ごめんね」
「……しかたないですよね、わたしは無知な平民の小娘です。誰だって、舐めてかかりますよ。先輩に依頼をしてきた誰かも。もちろん、先輩もそうです。当然ですよね」
「ルルベル――」
わたしはひとさし指を立て、先輩の口の前にかざした。黙れ、という意味だ。
「謝らなくていいですから、特訓にはつきあってくださいませんか? やっぱり、魔法が見えないとやりづらいです」
ファビウス先輩は、わたしの手をそっと握った。ひとさし指を立てた形が、脆くも崩れ去る。
「話が一周したね。さっきも訊いたよ? 信用できない男に身を委ねられる?」
「それですけど、わたし、ファビウス先輩のことは信じようと思います」
先輩は眼をしばたたいた。ちょっと面食らったような表情は、レアかもしれない。
「なぜ?」
「だって、断れない依頼なんて、わたしに話す必要がないことを話してくださいましたから」
「それも君に信じさせるための手管かもしれないよ?」
……なるほど。たしかに、その可能性はあるな! でも、わたしは決めたんだ。
「そうだとしても、わたしは先輩を疑ってる自分より、信じてる自分の方が好きなので。だから、信じます」
長い沈黙がおりたけど、気詰まりには感じなかった。これも、ウィブル先生の不思議装置のおかげだろう。あれすごいな、ほんとに!
温室のガラス越しに見る戸外は、もうすっかり真っ暗だ。シュガの花の香りにもすっかり慣れて、あまり感じなくなっているのが残念かもしれない。いい匂いなのにな。
「……それで、僕に裏切られたらどうするの?」
「先輩は裏切りませんよ。だって、わたしは先輩の忠誠を得たんでしょ?」
先輩は、わたしの手を引いて自分のくちもとに近づけた。あっ、これまた手にくちづけるつもりだろ、わかってるけど手を引っこ抜けない……くそぅ!
妖しい赤みを帯びた眼が、わたしをじっと見ている。
「それさえ嘘だったら?」
「騙されちゃったなー、って思います。でも、特訓にはつきあってもらいます。ジェレンス先生にも応援をたのみますし、そこまで事態が進めば、誓約魔法もばんばん発動すると思うんで!」




