71 小温室でシュガの花を観賞する
「ま……!」
もうちょっとで叫ぶところだったよ! 魔性先輩、て。
薄暗い廊下に佇むファビウス先輩は、それはなんというかこう……さっきウィブル先生をミステリアスと称したけど、まぁこっちもミステリアスだよね! むちゃくちゃ!
正統派「顔が良い」の威力って、翳りを帯びると倍増するね。これ豆知識な!
「どうしたの、ファビウス」
尋ねたのはウィブル先生である。わたしは、魔性先輩呼びしそうになった初動のミスから立ち直れていない。
ファビウス先輩は、微笑んで答える。
「昨日、ルルベルと『また明日』って約束したから。顔を見せないと、心配をかけるんじゃないかと思ってね」
「そういうことなのね。じゃ、ルルベルを寮に送るのは、まかせていい?」
「もちろんです。……ルルベルが、嫌じゃないなら」
儚げな笑みとともに、そんな風にいわれたらさぁ……いやこのままウィブル先生でお願いします、とか主張できないじゃん。ほんとは、そうしてほしいけどさぁ!
……ま、ものごとは皆、なるようになるのだ! と。すごい生属性魔法のせいで、今のわたしは達観気味である。
こんなのもう、なるようになぁれ☆ っておまじないを唱えるしかない。
「わかりました。ご面倒をおかけします」
「アタシは装置の調整しないとだから、助かるわ。ファビウス、たのんだわよ。またね、ルルベル。つらくなったら、いつでもいってね」
「ありがとうございます、ウィブル先生」
先生はまた保健室に引っ込んだ。
わたしたちは、寮へ向かって歩きだした。先に口を開いたのは、ファビウス先輩だった。
「装置、使ったの?」
「……あの、奥の部屋のやつです? それなら使いました。だから今、すっきりしてますよ!」
そう、とうなずいてファビウス先輩は少し表情をゆるめる。
「あれ、僕も手伝ったんだ。魔力の流れを可視化すると、調整がしやすいからね。設計上、流れてるはずがない経路に魔力が流れてるのを発見できるし、逆もそう」
「便利ですよね、先輩の魔法。すごいです。」
「すごいのはウィブル先生の発想だよ。技術も知識も。先生を上回る生属性魔法使いを、僕は知らない」
わりと真剣な口調だ。
「それ、いってあげました? ウィブル先生に」
「いったけど、流されちゃったかな。もう覚えてないと思うよ」
「そうなんですか? 喜ぶと思うけどなぁ」
わたしが褒めたときは、けっこう嬉しそうな顔してた気がするけどなぁ、などと考えながら、わたしたちは歩く。廊下の照明は、歩くのに支障はない程度の光量しかない。本来なら生徒が出入りする時間帯じゃないから、無理もないのだけど。
「僕の言葉は、流されがちなんだ」
「あはは、そんなことは……」
ないともいえない気はしないでもない。ちょい前にそういう話題になったばっかりだよね。ウィブル先生の評するところでは、ファビウス先輩の褒め言葉は機械的、だったかな?
あ〜、ファビウス先輩が笑顔で褒め、ウィブル先生が淡々と受け流すところが想像できてしまう!
「ルルベル、ちょっと寄り道してもいい?」
「寄り道?」
「うん。温室、まだ行ったことないなら、見せてあげたくて」
「行ったことないです」
温室あるのか! えっ、見たい!
我が国は寒冷な気候なので、温暖な土地への憧れは強い。ぶっちゃけると、温室って金持ちの贅沢であり、権力の象徴なのだ。当然のことながら、下町にはそんなもの存在しない。ルルベル的には、初温室である。
そんなに遠くないよと前置きして案内してくれたのは、小温室と呼ばれているらしい、その名の通り小ぶりな温室だった。円形で、外から見ると巨大な鳥籠みたいな形をしている。
扉を開いて中に入ったとたん、芳香を感じた。知らない匂いだ。
「なにか咲いてるんですか?」
「シュガの花だよ」
えっ。シュガって、毎日お世話になってるやつか!
見てみたいだろうと思ってね、と先輩が示してくれたシュガの木は、イメージとしては薔薇に似ていた。もっと熱帯感のある植物かと思っていたので、ちょっとびっくりだ。よく見ると、枝は丁寧に支柱に固定されている。つる薔薇みたいな感じなのか……花は八重で、大きからず小さからずといったところ。色は淡い緑から白へのグラデーション。照明の関係なのか、まるで花自体が光を発してるみたいに見える。
さっきの保健室の悟りを開く部屋もだけど、この小温室も、とても幻想的だ。
「花よりも、ずっと大きな実が生るんですね」
「うん。でも、ここで育てるシュガは、本来の大きさにはならないんだ。やっぱり気候が合わないんだろうね。室温は調整してるんだけど、なにかが違うんだろう」
「土かもしれませんね」
「土か……」
なにげなく返したのに、ものすごく深く考え込まれてしまい、わたしは少しあわてた。
「素人の戯言です! ほら、土が合わないと、どんなに手をかけて育てても花が咲かないって、昔、裏のおばあちゃんが話してて……ああ、裏のおばあちゃんっていっても、わかりませんよね」
「うん。わからないけど、なんとなくわかったよ」
わかられてしまった……つまり、気を遣わせてしまった!
隣国の王子様相手に、なにを話してるんだ。ちなみに、裏のばあちゃんは去年亡くなった。狭い裏庭でばあちゃんが育てていた花は、すべて枯れてしまった。ばあちゃんは、手をかけてもうまく育たないとこぼしてたけど……手をかけないなら、なおさらって話である。
「……ルルベル、今日は特訓につきあえなくてごめんね」
「いえいえ。とんでもない。むしろ、いつもお世話になってます」
「明日も無理なんだ」
「えっ、そうなんですか」
ジェレンス先生は、ファビウス先輩は王宮政治に巻き込まれたとか話してたはずだ。なにか、困ったことになっているのだろうか。
先輩はシュガの花を見ている。わたしはその横顔を眺め、こういうのなんか珍しいなと思った。ファビウス先輩は、すごく……わたしを見るから。視線を合わせて話すし、眼を覗いてくる勢いだし。
だから、横顔を見る機会は少ないのだ。綺麗な鼻。くちびるのラインも、なんというかこう……美しいよね。その口が開いた。
「君が僕を信じないのは、正しい判断だったよ」
「……え?」
「ちょっと断れない筋から、依頼された。聖属性魔法使いを籠絡し、意のままにあやつれるようにしろ、と」
わたしは口を開いて……閉じた。
断れないというなら、断れないのだろう。それをわざわざ教えてくれるのは、先輩の誠意だ。それに、ひょっとすると――明日も特訓には参加できないっていうのだって。
ファビウス先輩は、あの宝石みたいな眼を伏せる。何回でもいうけど、美形に翳りをプラスすると、えらいことになる。加算じゃなく乗算と考えるべきではないだろうか。魔性の色気がすっごい!
そう、もはやただの綺麗な顔ではない。これ、色気ってやつだ!
ウィブル先生の不思議マシンで悟りを開いた直後だったから耐えられる。でなければ、やばかった。ウィブル先生ありがとう!
「特訓は、つづけられませんか?」
「……自分を裏切るような相手に、身を委ねられるの?」
「ジェレンス先生もお戻りになりましたし。それに、誓約魔法もあるじゃないですか」
「あれは、君が嫌がるかどうかを基準にしてる」
「はい。なにか問題でも?」
「君が嫌がらなければ、どうなるかな」
魔性パワー全開のファビウス先輩が、こちらを向いた。やっばやばのやばじゃん! ……などと、身も蓋もない感想を抱いてしまったが、それ以外に表現のしようがない。やっばやばのやばだよ!
「どう……とは?」
指が、ファビウス先輩の手にからめとられたのを感じる。でも、わたしはファビウス先輩のやっばやば顔面から視線を逸らすことができない。赤味を帯びてきらめく双眸が、わたしをみつめている。
「君は僕に慣れちゃったでしょ。だから、前ほど簡単には誓約魔法が発動しない」
「でも、先輩が悪辣なことをなさったら無理だと思いますよ」
「悪辣ね。たとえば?」
「お国のご命令でわたしを取り込みに来たとか、感じさせたら――」
「今まさに、そういう雰囲気の話をしてたと思うけど。君は僕を拒否してる?」
あっ。そうだな? そうだわ。
ちょっと悟りが開け過ぎてるんじゃないのかな、これ。先生! 先生、まずいです!




